ワニを渡る 解説編

【解説編】神話の考古学――「ワニ渡り」説話を分解する


    ◇ ◇ ◇


【はじめに】


 物語編では、東南アジアからインド、そして日本にかけて分布する「ワニの背を渡る」説話を「夜の語り」として並べた。

 この解説編では、その背景にある学術的な根拠を示す。


 ただし、最初に断っておきたい。


 今回扱うのは、これまでの神話類型(冥界下降、竜退治、異類婚姻など)とは性格が異なる。抽象的な構造の類似ではなく、「数を数えるふりをしてワニを並ばせ、背中を渡る」という極めて具体的なトリックの一致を問題にしている。


 この具体性ゆえに、伝播の可能性はより高いと考えられている。しかし、伝播経路を確定することは依然として難しい。本稿では証拠を整理しつつ、断定を避ける。


    ◇ ◇ ◇


【一】「ワニ渡り」説話とは何か


 「ワニ渡り」説話は、比較説話学において広く知られた話型の一つである。アールネ=トンプソンの話型索引では「AT 58」(ワニを騙す)として分類されている。


■基本構造


 この説話は、以下の要素から構成される。


1. 小動物(兎、鹿、猿など)が水を渡りたいと思う

2. ワニ(鰐、サメ、亀など)を騙す方法を考える

3. 「数を数えてやる」「仲間と比べよう」などの口実でワニを並ばせる

4. ワニの背中を渡っていく

5. 渡り終わる直前または直後に「騙した」と明かす

6. ワニが怒り、報復する(毛を剥ぐ、尻尾を噛むなど)


■分布域


 この説話は以下の地域で確認されている。


・日本(因幡の素兎)

・インドネシア(スラウェシ、ジャワ、スマトラなど)

・フィリピン

・マレーシア

・インド(ジャータカ説話)

・スリランカ

・チベット

・アフリカ東部


 分布域が東南アジアを中心として広がっていることから、この地域が説話の発祥地である可能性が指摘されている。


    ◇ ◇ ◇


【二】日本神話における因幡の素兎――一次資料から


 まず、古事記が因幡の素兎について何を語っているかを確認しよう。


■古事記の記述


【兎とワニの問答】


「僕、隠伎島に在りて、此地に度らむと欲へども、度らむ因無かりき。故、海の和邇を欺きて云ひしく、『吾、汝と競ひて、族の多少を計らむと欲ふ。故、汝は其の族の在らむ限り悉く率て来て、此の島より気多の前まで、皆列み伏し度れ。爾くして吾、其の上を踏みて走りつつ読み度らむ。是に吾が族と孰れか多きといふことを知らむ』と云ひき」


【現代語訳】

「私は隠岐の島にいて、この地に渡りたいと思いましたが、渡る方法がありませんでした。そこで海のワニを騙して言いました。『私とお前とで、仲間の数が多いか少ないか比べようではないか。だからお前は仲間を残らず連れてきて、この島から気多の岬まで、みな並んで伏せよ。そうしたら私はその上を踏んで走りながら数えて渡ろう。これで私の仲間とどちらが多いかわかるだろう』と言いました」


【騙しの露見と報復】


「如此云ひしかば、欺かえて列み伏せりし時に、吾、其の上を踏みて、読み度り来て、今地に下りむとする時に、吾云ひしく、『汝は我に欺かえつ』と云ひ竟るに、即ち最端に伏せる和邇、我を捕へて悉に我が衣服を剥ぎき」


【現代語訳】

「このように言ったところ、ワニは騙されて並んで伏せました。私はその上を踏んで、数えながら渡ってきて、今まさに地に降りようとするときに、私は言ってしまいました。『お前は私に騙されたのだ』と。言い終わるやいなや、一番端に伏せていたワニが私を捕まえて、私の衣服(毛皮)をすっかり剥いでしまいました」


■「和邇」について


 古事記では「和邇」(ワニ)と表記されている。これが現代の鰐(クロコダイル、アリゲーター)を指すのか、サメを指すのかについては議論がある。


 多くの研究者は「サメ」を指すと考えている。理由は以下の通り。


・日本近海に鰐は生息していない

・山陰地方では現在も「ワニ」はサメの方言として使われる

・古事記の他の箇所でも「ワニ」は海の生き物として登場する(海幸山幸、豊玉姫神話)


 ただし、「物語が南方から伝わった際に、原話の『鰐』がそのまま保存された」とする見方もある。南方の原話では実際に鰐(クロコダイル)が登場するからである。


    ◇ ◇ ◇


【三】世界の類話


 物語編で取り上げた三つの類話について補足する。


■インドネシアの類話


 インドネシアには「ワニ渡り」説話が広く分布している。


【スラウェシ島の鹿とワニ】

 マメジカ(プランチル、マウスディア)が主人公。スラウェシ、ジャワ、スマトラなどに類話がある。


・マメジカが川を渡りたいと思う

・「王様の命令で数を数える」と嘘をつく

・ワニが並び、その背を渡る

・渡り終えて「騙した」と明かす


 マメジカは東南アジアの民話でトリックスターとして活躍する動物であり、日本の兎、アフリカの兎と機能的に対応する。


【学術的見解】

 インドネシアの類話と日本の因幡の素兎の類似は、大林太良『日本神話の起源』で詳しく論じられている。大林は、この一致が偶然ではなく、南方からの文化伝播を示す証拠の一つであると主張した。


■フィリピンの類話


 フィリピン各地にも類話が分布する。


【猿とワニ】

・猿が川の向こうのバナナを取りに行きたい

・ワニを騙して並ばせ、背を渡る

・帰路に同じ手を使おうとして失敗する

・尻尾を噛まれる(猿の尻尾が短い起源譚となる)


 フィリピンの類話では「報復」がより強調されており、「同じ嘘は二度通じない」という教訓が明確である。


■インドのジャータカ


 ジャータカ(本生譚)は、釈迦の前世を語る仏教説話集である。パーリ語経典には547話が収録されている。


【猿とワニ(スーンサーラ・ジャータカ)】

・菩薩が猿として川の中洲に住んでいる

・ワニが猿の心臓を欲しがる

・ワニは岩のふりをして待ち伏せする

・猿は見破り、「心臓は向こう岸の木にある」と嘘をつく

・ワニが背中に乗せて泳ぐ

・向こう岸で猿は逃げ、「心臓が体の外にあるわけがない」と笑う


 ジャータカの話は「数を数える」ではなく「心臓を取ってくる」という嘘だが、「ワニを騙して水を渡る」という基本構造は共通している。


【伝播の方向】

 ジャータカは紀元前後に成立したと考えられている。仏教の伝播とともにこの説話が東南アジア、そして東アジアに広まった可能性がある。


 ただし、東南アジアの類話がジャータカの影響を受けたのか、あるいは東南アジアに元からあった話がジャータカに取り込まれたのかは確定できない。


    ◇ ◇ ◇


【四】物語編で取り上げなかった類話


 紙幅の都合で物語編では取り上げなかったが、重要な類話をいくつか補足する。


■アフリカの類話


 東アフリカ(スワヒリ語圏)にも類似の説話がある。


【兎とワニ】

・兎が川を渡りたい

・ワニ(またはカバ)を騙して並ばせる

・背を渡る


 アフリカの類話は、東南アジアの類話と独立に発生したのか、あるいはインド洋交易を通じて伝播したのか、議論がある。


■チベットの類話


 チベットにも類話が存在し、これはジャータカの影響と考えられている。


■朝鮮半島の類話


 朝鮮半島には「ワニ渡り」説話の直接的な類話は確認されていない。これは日本への伝播経路を考える上で重要な問題となる。


 もし因幡の素兎が大陸経由で伝わったなら、朝鮮半島に類話があってしかるべきである。類話が見つからないことは、南方(海路)からの伝播を示唆する可能性がある。


    ◇ ◇ ◇


【五】伝播か、普遍か


■伝播説


 大林太良は『日本神話の起源』において、因幡の素兎の「ワニ渡り」モチーフが東南アジア起源であると主張した。


 その根拠は以下の通り。


1. **具体的トリックの一致**:「数を数える」という口実でワニを並ばせるという発想が、独立に複数回生まれたとは考えにくい。


2. **分布のパターン**:類話が東南アジアに濃密に分布し、日本、インドに点在するという分布は、東南アジアからの伝播を示唆する。


3. **他の南方系神話との関連**:日本神話には他にも南方起源と考えられる要素(海幸山幸、豊玉姫など)があり、「ワニ渡り」もその一部と考えられる。


4. **「ワニ」の語**:日本にワニ(鰐)は生息しないにもかかわらず、この語が残っていることは、南方の原話がそのまま伝わった可能性を示す。


■海上の道


 民俗学者柳田國男は『海上の道』(1961年)において、日本文化の南方起源説を唱えた。稲作、民俗、神話などが黒潮に乗って南方から伝わったとする説である。


 因幡の素兎の「ワニ渡り」モチーフも、この「海上の道」を通じて伝わった可能性がある。


■普遍説への反論


 「小さな動物が大きな動物を騙す」という発想自体は普遍的かもしれない。しかし、「数を数えると言って並ばせる」という具体的なトリックまで一致することは、偶然では説明しにくい。


 これは「冥界下降」や「竜退治」のような抽象的な構造の類似とは性格が異なる。具体的であればあるほど、伝播の可能性は高くなる。


■現在の学術的見解


 現在の比較説話学では、「ワニ渡り」説話は伝播説が有力とされている。ただし、具体的な伝播経路(陸路か海路か、仏教とともにか独立にか)については確定していない。


    ◇ ◇ ◇


【六】因幡の素兎の他の要素


 因幡の素兎の物語には、「ワニ渡り」以外にも注目すべき要素がある。


■塩水と真水


 兎は最初、八十神に「海水で洗い、風に当たれ」と騙され、症状が悪化する。その後、大穴牟遅神に「真水で洗い、蒲の穂で覆え」と教えられ、快癒する。


 塩水が傷を悪化させ、真水が癒すというモチーフには、塩(海)と淡水(陸)の対比が含まれている可能性がある。


■蒲の穂


 蒲(ガマ)は水辺に生える植物で、その花粉は古くから止血剤・消炎剤として用いられてきた。この処方は実際に薬効がある可能性があり、古代の医療知識が神話に反映されているとも考えられる。


■末弟の成功


 八十人の兄たちが失敗し、末弟の大穴牟遅神が成功するという構造は、世界各地の昔話に共通する「末子成功譚」の類型である。


 グリム童話の「灰かぶり姫(シンデレラ)」「三人兄弟」など、末っ子や虐げられた者が最後に勝利するという話型は普遍的に見られる。


    ◇ ◇ ◇


【七】異論と留保


 本稿の議論にはいくつかの留保が必要である。


■伝播経路の不確定性


 「ワニ渡り」説話が伝播したとしても、その経路は確定できない。


・南方海路説:黒潮に乗って直接伝播した

・仏教経由説:ジャータカとともに大陸経由で伝播した

・複合説:複数の経路から複数回伝播した


 いずれの説も決定的な証拠を欠いている。


■古事記の編集


 古事記(712年)に記された因幡の素兎が、古代からそのままの形で伝わってきたとは限らない。編纂者による修正や統合が行われている可能性がある。


 特に、兎が予言者として機能し、大国主神の成功を予告するという構造は、出雲神話全体の中で意味を持つものであり、「ワニ渡り」のエピソードが後から接合された可能性も否定できない。


■類話の独立発生可能性


 伝播説が有力とはいえ、類話が独立に発生した可能性を完全に排除することはできない。


 水辺に住む危険な動物(ワニ、サメ、カバなど)を騙して渡るという発想は、そのような環境に住む人々が独立に思いつく可能性もゼロではない。


■トリックスターの普遍性


 兎、鹿、猿といった小動物がトリックスターとして活躍するという構造自体は、普遍的な心理に基づいている可能性がある。


 「弱者が知恵で強者に勝つ」という願望は、どの社会にも存在する。その表現として、小動物がワニを騙す話が各地で生まれた可能性もある。


    ◇ ◇ ◇


【八】参考文献


■一次資料

・『古事記』(712年)

・『日本書紀』(720年)

・『ジャータカ』(パーリ語仏典)中村元監訳『ジャータカ全集』全10巻、春秋社、1984-1988年


■日本神話研究

・大林太良『日本神話の起源』角川書店、1961年(角川ソフィア文庫、2019年)

・西郷信綱『古事記注釈』全8巻、筑摩書房(ちくま学芸文庫版、2005年)

・松前健『日本神話の形成』塙書房、1970年

・三浦佑之『古事記を読みなおす』ちくま新書、2010年


■比較説話学

・関敬吾『日本昔話集成』全6巻、角川書店、1950-1958年

・スティス・トンプソン『民間説話』荒木博之・石原綏代訳、社会思想社、1977年

・アンティ・アールネ、スティス・トンプソン『昔話の型』(The Types of the Folktale)※邦訳なし


■南方文化論

・柳田國男『海上の道』岩波文庫、1978年(初出1961年)

・大林太良『東南アジアの民族と歴史』山川出版社、1984年


■動物説話

・伊藤清司『日本神話と中国神話』学生社、1979年

・君島久子『中国の神話伝説』上下、筑摩書房、1983年


■「ワニ」の語源

・『日本国語大辞典』第二版、小学館、2000-2002年

・白川静『字訓』平凡社、1995年


    ◇ ◇ ◇


【おわりに】


 因幡の素兎がワニを騙して海を渡った話は、日本で最もよく知られた神話の一つである。


 しかし、その「ワニを並ばせて数を数えるふりをする」という奇妙なトリックが、遠くインドネシアやフィリピン、インドにも存在することを知る人は少ない。


 これは偶然の一致ではないだろう。


 どこかで、誰かがこの話を最初に語った。それが人から人へ、村から村へ、島から島へと伝わっていった。言葉が変わり、主人公が鹿から猿へ、猿から兎へと変わっても、「数を数えるふりをして並ばせる」という奇抜なアイデアは残った。


 何千年もの時間をかけて。何千キロもの距離を超えて。


 私たちが今夜読んだ因幡の素兎の話は、そうした長い長い旅の終着点の一つなのかもしれない。


 古代の誰かが語った小さな嘘が、海を渡り、時代を超え、今も私たちを楽しませている。


 物語とは、そういうものなのだろう。


 小さくて、しぶとくて、どこまでも旅をする。


 ちょうど、ワニの背を渡った兎のように。

                   (了)

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