第2話 復讐という名のビジネス

 彼女の声はしゃがれて物憂ものうげで、奇妙な韻律いんりつを帯びていた。まるで波が岩礁がんしょうを打つような響きだ。


「機械油の匂いでもない、火薬の匂いでもない」


 彼女はわずかに首を傾げ、その珊瑚サンゴの角が澄んだ衝突音を立てた。


「お嬢ちゃん、貴女からは腐葉土ふようどの匂いがするわ……それはノヴゴロドの森で、亡骸なきがら苗床なえどこにして芽吹く新芽の匂いよ」


 心臓がりついた。


 私の偽装が——この三年間、帝国の大魔導師だいまどうしさえも見抜みぬけなかったこの偽装が、会ったばかりの囚人ごときに一目ひとめ見破みやぶられただと?


 警戒して半歩後ろに下がり、手をそっとポケットの種子に添えた。


「貴女は……誰なの?」


 女性は笑った。


 笑う時、唇が裂ける幅が驚くほど大きく、一列の緻密ちみつで鋭く、冷たい光を放つのこぎりのようなきばあらわになった。それは決して人間が持つべき歯ではない。


わらわが誰かなど重要ではないわ」


 彼女は鎖に繋がれた指で、軽く自分のこめかみを叩いた。


「重要なのは、貴女が誰か——ということよ」


 ジャラリ。


 彼女は水中から少し立ち上がり、鎖が耳障みみざわりな音を立てた。


「森の魔女の若木わかぎでありながら、帝国奴隷の服を着て、仇敵きゅうてきのために花を植えている?」


 彼女の語調には憐憫れんびんなど欠片かけらもなく、ただ高みから見下すようなあざけりと、品定しなさだめするような辛辣しんらつさだけがあった。


「この取引、代償だいしょう利得りとくの釣り合いは取れているのかしら? 小さな庭師にわしさん」


「何をおっしゃっているのか、まったく分かりませんね」


 私は冷たく答え、内心の動揺を無理やり押さえ込んで、鉄バケツを格子の縁まで押しやった。


「これが貴女の食事です。食べて生きるか、えて死ぬか、お好きにどうぞ」


「あらあら、実につまらない反応ね」


 彼女は再び水槽の壁に寄りかかり、その生肉のバケツには目もくれなかった。


「ラインハルト学院に潜伏せんぷくしている魔女なら、もう少し……野心というものがあるかと思ったのだけれど」


 彼女は目を閉じ、また眠りにつくつもりのようだった。


 しかし目を閉じる直前、彼女は軽く言葉を投げかけた。


「ついでに忠告しておくわ。今夜の吹雪ふぶきは止むわよ。もし貴女が今夜あの稚拙ちせつな『皇子暗殺計画』を実行するつもりなら、やめておいたほうがいいわね。北西の風向きが変わるの。貴女の毒花粉は閲兵台えっぺいだいには届かず、平民区に吹き込むだけよ」


 足を止めた。


 指はもうポケットの毒蔦どくづたの種子を強く握りしめていた。


 これは私が半年かけて練り上げた計画だ。今夜カール皇子が訪問する、これが唯一の機会。風向き、警備の交代時間まで全て計算済みで、完璧な秘密のはずだった。


 彼女はどうして知っている?


「貴女は……一体何者なの?」


 振り返ると、私の声には初めて殺意がにじんでいた。


 女性は再び目を開いた。今度のその金色のけものひとみには眠気はなく、ただ恐るべき智慧ちえの光だけが宿っていた。


 彼女は私を見つめる——まるで盤上の駒を見るかのように。


「妾はこの大陸の興亡こうぼうを見守ってきた幽霊よ。妾が見てきた高塔は、貴女が見てきた樹よりも多く——妾が見てきた死者は、貴女が見てきた雪よりも厚い」


 彼女は優雅にあごを上げ、長い首筋をさらした。


「妾は鯊鹿兒シャルア。もし貴女が愚かな刺客しかくのように今夜死にたくないのなら、その臭った肉のバケツを持って行きなさい」


 彼女はそののこぎりのような牙を見せつけ、捕食者の微笑みを浮かべた。


「温かいお茶を持ってきて頂戴。王国再興おうこくさいこうという一大事の——手付金てつけきんについて、話し合いましょう。どうかしら? 未来の?」




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鯊鹿兒シャルア:台湾の伝承に登場する幻獣。海に入れば鮫となり、陸に上がれば鹿に変身すると言われている。本作では古き龍の一族として描かれている。

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