荊棘と鋼鉄の王冠 ~亡国の庭師姫と魂を商う古き妖~

離風

第1話 雪原の庭師と囚われの古き妖

 シャベルが凍土とうどを叩く音が、早朝のりんとした空気を切り裂くように響いた。


 カン、カン、カン。


 ここはラインハルト帝国軍事学院。黒鉄くろがね赤煉瓦あかれんがで築かれた、ゴシック様式の尖塔せんとうを持つ巨大要塞は、今や重く積もった雪に覆われている。


 こごえて紫色に変色した手を一瞥いちべつし、それから目の前にそびえる高さ十メートルはある巨大な銅像を見上げた。


 銅像がきざむのは神聖鉄血帝国の建国皇帝けんこくこうてい――カエサル大帝。


 彼は折り目正しいダブルブレストの軍用コートをまとい、プロイセン風の尖頂兜ピッケルハウベを被り、片手を高くかかげている。まるで空の星々さえもつかんで握りつぶそうとするかのように。


「……皮肉なものね」


 白い息を吐き出すと、それがマフラーのふちで霜となって結晶化した。


 もし十二年前なら、私が今立っているこの場所は「ラインハルト」ではなく「星空ほしぞらいただき」と呼ばれていた。ここは旧ボヘミア王国が天体てんたいを観測する聖地であり、七魔女の一人「星辰せいしんの魔女」の領土だった。


 しかし今や、あの精密な天体儀てんたいぎはすべて破壊され溶かされ、魔女の亡霊を鎮圧ちんあつするためのこの皇帝像へと鋳造ちゅうぞうされてしまった。


 そして私、サラ。かつてノヴゴロド王国の継承者けいしょうしゃであり、森の魔女の血脈を持つ者。


 今では灰色のみすぼらしい粗布あらぬののスカートとエプロンを身に纏い、煙突掃除を担当する下働きのように、皇帝銅像の肩に落ちた鳥の糞と積雪を掃除する役目を負っている。


「おい! そこの雑用ざつよう!」


 背後から蒸気機関の轟音ごうおんと、優越感ゆうえつかんに満ちた怒声が響いた。


 私はすぐに頭を下げ、肩をすくめて、あの「いやしき庭師にわし」のモードへと切り替えた。


 漆黒しっこく魔導蒸気機関車まどうじょうききかんしゃが学院大通りに停車した。扉が開き、深い青色の帝国軍校制服を着た数人の学生が降りてくる。彼らの腰には華麗かれいな指揮刀が下がり、胸元の勲章が雪明りを反射してまばゆく輝いている。


「さっさと動け! 今日は『静謐せいひつの記念日』だぞ。これからカール皇子殿下が視察にいらっしゃる。もし陛下の銅像に少しでもほこりがあるのを殿下の目に触れさせたら、貴様はの中に放り込まれて燃料にされるからな!」


 声の主は金髪の貴族の少年で、白い手袋をはめた指で私を指差し、まるで道端の石ころでも見るような眼差しだった。


「大変申し訳ございません、旦那様方だんなさまがた。すぐに片付けます」


 私は深く頭を垂れ、帽子の縁で深緑の瞳を隠した。彼らの視線が、私の殺意に気づかないように。


「ふん、使えない亡国ぼうこく残党ざんとうが」


 貴族の少年は軽蔑けいべつするようにつばを吐き、仲間に向かって笑いながら言った。


「そういえば、この呪われた場所は昔『魔女の聖地』とかいう場所だったらしいな? 聞くところによると、あの魔女どもは木の枝と水晶を振り回して踊っていただけらしい。我らの魔導砲まどうほうで粉々に吹き飛ばされて当然だ」


「ハハハ、所詮しょせん野蛮やばんな旧時代だからな」


 彼らは談笑しながら暖かい教室棟へと入っていき、蒸気パイプから噴き出す熱気が瞬く間に彼らの背中をみ込んだ。


 シャベルを握る手に力を込めた。


 爪がてのひらに食い込んだが、痛みは感じない。


 木の枝を振り回す?


 違う。あれは枝なんかじゃない。


 目を閉じ、深く息を吸い込む。感じ取れる。この厚いコンクリートと積雪の下、この学院の地底深くで、焼き払われたいにしえの木のきのねたちがまだ眠っているのを。


 彼らは叫んでいる。彼らは鮮血を渇望かつぼうしている。


 私がたった一つ念じるだけで、この木のきのねたちはコンクリートを突き破り、さっきまで傲慢ごうまんに笑っていたあの貴族の少年たちの喉を、クラッカーのようにへし折ることができる。


 けれど私は手をゆるめた。


 掌の中で、発芽させようとしていた種子が、再び休眠状態へと戻る。


「……耐えるのよ」


 自分に言い聞かせる。


 まだその時ではない。私は最後の火種ひだねなのだから。火種は暴風雪の中で、数匹のハエを焼き殺すために自らをさらすわけにはいかない。


 私は再びシャベルを持ち上げ、皇帝の軍靴ぐんかに積もった雪を取り除き続けた。


 この屈辱くつじょくこそが、今の私の養分なのだから。


 午後の鐘が鳴り響いた時、後方勤務を管轄かんかつする肥満ひまんした軍需官ぐんじゅかんが私を見つけ出した。


 彼は嫌悪感けんおかんを顔いっぱいに浮かべて鼻をつまみ、まるで私が何か伝染病でも持っているかのようだった。


「サラ、花壇かだんはもういい。地下牢ちかろうへ行け」


「地下牢、ですか?」


 私は一瞬呆けた。あそこは学院の禁域きんいきで、通常は重罪犯や捕虜ほりょしか収監されない場所だ。


「海軍が昨日、奇妙な『貨物』を送ってきたんだ」


 軍需官は歯の隙間から声を絞り出すように言った。


「あの代物しろものは普通のムショ飯を食わない。上からの命令でな、貴様は亡国ぼうこくの民だから、ああいう野蛮な生き物の世話の仕方が分かるかもしれんと。これを持っていけ」


 彼は鉄製のバケツを私の足元に投げつけた。


 バケツの中には数切れの血まみれの生肉が入っており、鼻を突く生臭い海の匂いがした。


「いいか、あれに話しかけるな。目も合わせるな。もし腕や脚を失っても、学院は一切責任を負わんからな」


 そのバケツを見つめ、心の中に妙な予感が湧き上がるのを感じた。


 海軍? 南方からの貨物?


 この鋼鉄に支配された内陸の学院で、海の生臭い匂いが現れるなど初めてのことだ。


 私は重い鉄バケツを手に取り、機械油の匂いが漂う廊下を抜けて、学院の地下最深部へと向かった。


 階段が下へと延びるにつれ、空気は湿って冷たく粘りつくようになる。整然としていた煉瓦の壁は水がにじみ出し始め、こけさえ生えている。


 ここもかつてはボヘミアの魔女たちが星辰の薬剤を貯蔵していた酒蔵さかぐらだったが、今や怪物を監禁する牢獄へと変わり果てていた。


 廊下の突き当たりには、重厚じゅうこうな鉄格子の扉がある。


 中にはベッドもなければわらもなく、ただ汚水で満たされた巨大な水槽があるだけだった。


 その「貨物」を見た。


 それは――いや、「彼女」だ。


 彼女は半身を濁った水に浸し、両手を太い秘銀ミスリルの鎖で宙吊ちゅうづりにされていた。


 それは驚くほど美しい容貌ようぼうを持つ女性だった。濡れた黒い長髪が海藻のように蒼白あおじろい肌の上に広がり、その黒髪の間から、赤珊瑚あかさんごで彫刻されたかのような透き通った鹿の角が生えていた。


いにしえあやかし……?」


 思わず古語でつぶいてしまった。


 それは七魔女建国伝説の中にしか存在しない生物だ。彼女たちは長い寿命と人の心を見抜く智慧ちえを持つと言われているが、帝国の狩猟によって既に絶滅したはずだった。


 ガチャン。重い鉄バケツを置く音が、静寂な地下牢に響いた。


 声を聞いたのか、水槽の中の女性がゆっくりと目を開いた。


 その瞬間、まるで深海のサメにらまれたかのような感覚に襲われた。


 それは金色のけものひとみ瞳孔どうこうは丸くなく、刃のように縦に裂けている。冷酷で、荒涼こうりょうとして、千年の歳月を見透かしたような倦怠感けんたいかんを帯びていた。


 彼女は私が手にしている肉には目もくれず、私の顔をじっと見つめ、軽く空気を嗅いだ。


「面白いわね」

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