とある宿屋の話

 その宿は、街道沿いに昔からある。


 いつ建ったのか、少年は知らない。

 母も知らないと言っていた。

 祖母の代からあった――それだけが残っている話だ。


 力仕事はまだ出来ないが、雑用ばかりでつまらない。


 朝は床を拭き、

 昼は器を運び、

 夜は、客の話を聞く。


 その日、二階から男が二人、降りてきた。


 声は低く、静かだったが、言い争っているのはすぐにわかった。

 右だ、左だ、と、同じ言葉を何度も繰り返している。


 受付をしたときから、少年はこの二人が気になっていた。


 一人は人間だ。

 旅人にしては若く、目つきが鋭い。


 もう一人は、耳が長い。

 エルダーとかいう種族を、少年は聞いたことがある。

 それに違いない、と勝手に思うことにした。


 二人は隣同士に座った。


 食事処は狭い。

 テーブルは二つ、椅子も少ない。

 客の会話は、どうしても耳に入る。


「だから右だって言ってんだろ」

「合理性がない」

「寝れりゃいいだろ」


 少年は、すぐにわかった。


 二人が泊まった部屋には、ベッドが一つしかない。


 そんなことで、言い争うのか。


 少年には、よくわからなかった。

 腹が減ることの方が、よほど大事だ。


「二人で寝れば?」


 気づいたら、口に出ていた。


 母に、余計なことは言うなと、きつく言われている。

 少年は、しまった、と思う。


 慌てて二人を見る。


 人間の男は、にやりと笑った。

 面白がっている顔だった。


 エルダーの男は、心底嫌そうに眉をひそめた。


 その表情が、なぜか妙に印象に残る。


 それから二人は、別の話を始めた。


「この辺、前は何もなかったよな」

「どのくらい前だ」

「知らねぇよ」


 少年には、意味がわからない。


 前って、どれくらい前だ。

 宿は、ずっとここにある。


 話は噛み合っていないのに、二人は気にしていないようだった。

 まるで、違う時間を見てきたみたいに。


 食事が終わり、二人は部屋に戻っていく。

 言い争いは、まだ続いていた。


 後で、少年は母に聞いた。


「あの人たち、変だった?」


 母は皿を拭きながら、首を傾げる。


「旅人なんて、みんな変よ」


 それだけだった。


 少年は二階を見上げる。


 どちらで寝たのかは、わからない。


 わからないままでも、別に困らない。


 少年の世界は、今日も同じように回っている。


 宿はそこにあり、

 旅人は来て、食べて、眠って、去っていく。


 それだけだ。

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