寂しさで煮た梅ジャム
FRESH♡レモン
寂しさで煮た梅ジャム
初夏の晩、初めての失恋にとわ子は苦しめられていた。
これから婚約すると噂のその相手と、一度きりの記念と決めて挑んだ結果、すっかりやり込められてしまったのだ。
ことが終わったあと、とわ子はそのまま眠ってしまったその人を残し、這々の体でなんとか帰宅した。そうした方が余韻が残って良い思い出なる、などと考えて。それなのに今、強く残ったその余韻は己を苛む毒となり果てている。
これから先、あの夜を忘れさせてくれる相手が現れるだろうか?
◇
苦しい時や不安な時、とわ子を救ってきたのは手仕事の類だった。たまたま冷やかしにのぞいた近所の八百屋では、今年最後の完熟の南高梅が並べられていた。梅仕事‥‥手間のかかるそれは今の自分にお誂え向きのように思える。ジャムにすれば日持ちするし、作るのに時間もかかる。今日全てをさばけずとも凍らせておけばいい。逡巡して、持てるだけの梅と砂糖をとわ子は買い込み帰路につく。
◇
すっかり日も落ちた頃、グツグツと煮立てた梅ジャムは杏色から渋い茶色になり、とわ子は火を止めて、ジャムの鍋を木製の鍋敷きの上に移動させた。
粗熱がとれたら、熱湯消毒しておいた瓶に入れて作業はおしまい。準備していた瓶ではもしかしたら入り切らないかもしれない‥とぼんやりと考えていると、チャイムがなった。約束もなく突然来る人間は
一人しかいない。でも、そんな急な訪問も今は助かる気持ちでインターフォンのモニターを確認したあと解錠し、パタパタと玄関へ向かう。
「おっ!いい匂いだなあ、梅?」
開けてみれば玄関口には次兄の晃がいた。
「‥‥‥そうなの、完熟の梅を沢山買ったから、梅ジャムを作ってたの。まだ酸味が強いけど少しいかが?熱々だけど‥」
「あー、うん。いまはいいや。後で瓶でちょうだいよ。‥‥‥え?なに?お兄ちゃんに一緒にいてほしい感じ?」
「‥‥‥‥‥そうなの。徹夜でマリカーしない?」
「あらま!そう!ふーん‥‥それはちょうどいいや。じゃ、あとは頼みましたよ」
「?」
「きちんとおもてなしするんだぞ。‥‥うん、服装はバッチリだな。それじゃ」
晃がにこやかに言って去るのと入れ替わりで、誰かが玄関に入ってくる。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「!!?」
もう会って話すことはないと決めていた人の登場にとわ子は慌てふためき、重たい雰囲気だったその人、園生誠志郎はとわ子の姿をしげしげと見てその重い空気をぱっと霧散させた。
◇
とわ子は動揺しながらも、ひとまずお茶を淹れる。コーヒーは残念ながら切らしていた。だけど、慣れ親しんだ作業は少し落ち着きを取り戻させてくれる。しかし、この動揺の理由は思いがけない訪問の他にもあった。気を紛らわせようと着た浴衣、ここは本格的に‥などと愚かにも考えて下着を付けていないのだ。上も下も、すっかり何も付けていない。兄相手なら一言断って着替えてもいいが、さすがに憚られる。
そういう理由もあって、お通しするのは本当はダイニングテーブルが良かったけれど、生憎いろいろと広げてあり、園生にはリビングのソファにひとまず座ってもらった。
お茶を運んでみても、どこか非現実的なシチュエーションにとわ子はそわそわしてしまう。梅の酸味が漂う室内のソファの角、2人は微妙な間合いで向かい合った。少しの沈黙が流れる。
「‥‥‥‥‥良い絵だね」
「‥‥‥え?ええ、付き合いの長い友人が描いて贈ってくれたんです。‥‥自分の家に飾るのはちょっと気恥ずかしいけれど‥‥」
その絵を描いたのは、とわ子の古い友人である和泉流加。現在、新規気鋭の画家として活動中である。美人画がメインだがポートレイトのオーダーも受けており、園生が褒めた絵はコントラスト強めの色彩で描かれた着物姿のとわ子自身であった。
「そうかな、私も描いてもらいたいぐらいだが‥」
意外な返事にとわ子は微笑むが、日も落ちきって妙齢の男女がふたりきり、談笑している場合ではないとして切り込む。
「それで、その‥‥今日来られたことですけど‥‥確かにあの時、避妊がうまくいっていなかった気はします」
「!‥‥‥生理はきた?」
あの夜からすでにひと月経っている。
「‥‥生理はきていません」
「!!」
とわ子は咄嗟に視線を下に落とした。相手の表情が見たくなかったのだ。
「‥‥‥生理はきてませんが、でも、私‥‥生理が重くて大変なのでピルを飲んでいるんです。だから妊娠はありません。ピルを飲んでいると生理も半年に一回くらいになりますし‥‥だから大丈夫です」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥そうか」
これから婚約するのに、火遊びの相手が妊娠しては大問題だろう。それをきちっと確認する慎重さはさすがと思うのに、反してとわ子の心はちくりと痛む。
そしてそれと同時に、不思議にも、もうこんな風に二人きりで話すことはないだろうと思うと、とわ子に少しの勇気が湧いてきた。秘めた気持ちがいつか心のなかで腐ってしまう予感、自分の気持ちを知ってほしいという願い。その二つがとわ子を背中を押したのかもしれない。
「わたし‥‥その‥すぐに忘れてほしいんですけど‥‥昔から素敵な人だなと思っていて、思いがけずこんな風になってしまったけど、それもいい記念になったと思っていて‥‥婚約されると伺っていますし、これから先こんな風に会うこともないでしょうから、それだけ伝えたくて‥‥‥」
なんてまどろっこしい言い方だろうと歯噛みする気持ちだが、失恋した身でみなまで言うつもりもない。
「‥‥‥‥もうお話は終わりでしょう。そろそろお引き取り」
下さい、と続く言葉は声にならない悲鳴に飲み込まれ。
◇
「お引き取りください?まだ話は終わっていない」
一瞬で抱き寄せられ跨がされた太い腿の上、とわ子の浴衣の袂が際どくはだけた。
「でも、ちょっとこの体勢は‥‥」
一度見られたものとはいえ、こんなに明るいところでは気恥ずかしい。とわ子はなんとか距離をとろうと園生の肩に手をかけてつっぱらせる。
すると、とわ子の力を微妙に凌駕する力加減でぐいと抱き寄せられ、また頑張って抵抗してはさらに微妙に力を加えられ‥という攻防がひとしきり続く。
「あの‥‥はだけちゃう。‥‥‥まずいでしょう」
「ぜひ見たい」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「いい眺めだな。さすが日舞の家の人だね。着物がよく似合う」
「‥‥‥‥‥‥褒めてもだめです、離して」
このままでは流される。でも、とわ子はそんな関係を望んでいない。きれいな幕引きにしたいのに、いよいよ空気の湿度が増してくる。
「聞けないな。君に袖にされたこのひと月、私はとても傷ついた。‥‥‥‥慰めてくれ」
「‥‥‥それは‥‥これから婚約する方にしてもらっては?」
都合のいい相手にされるなんて、とわ子はごめんだった。せっかくの余韻を汚してくれるなという怒りすらある。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
園生が固まった隙に、とわ子は身を捩らせて脱出する。袷を直しながら園生を見れば、なにか思案する顔で手元を遊ばせている。
「‥‥‥‥何か行き違いがあるようだが‥‥私は君のところに縁談を申し入れる予定でいたし、君もそれを知っていると思っていたが、違ったのか?」
園生がなんだか痛ましい雰囲気でとわ子を見つめる。
「‥‥‥‥え?」
「‥‥‥‥‥知らなかったんだな」
と、言うやいなや再びぎゅっと抱きしめられる。温くて力強い腕の中で、とわ子はとうとう溶けそうになりながら考える。
以前、晃の言った「園生ちゃん、婚約するらしい」はきっと鎌掛けだったのだ。とわ子がどんな反応をするのかで試そうとしたのだろう。
「それは、婚約する方にしてもらっては?ね。じゃあその相手である君が慰めてくれるだろう?縁談は了承されたものと思って舞い上がったのに、そのまま音信不通だったんだ。あんまりな話じゃないか」
「‥‥‥‥‥‥‥それは。でも、慰めが必要な風に見えません‥」
「そんなことはない。ショックでED状態だったよ、しばらく」
「‥‥またご冗談を」
「‥‥‥たった今治ったんだ。‥‥‥冗談はさておき縁談を受けてくれるね?その話がしたくて今日は晃に頼み込んだんだ」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥はい」
とわ子がそろりと視線を上げて、顔色を伺えば、園生は照れたように笑みを溢した。
「‥‥‥‥それよりも‥‥‥‥いつから、私のことが好きだったの?」
「‥‥‥最初に会った時からだ。一目惚れだよ」
「‥‥‥全然そんな感じじゃなかったのに‥‥」
すっかりやり込められてしまったようで、とわ子は悔しい。そうだ、梅ジャムをこの後お出ししよう。美味しいけれど、まだ食べるには少し酸味の強い、あの梅ジャム。それで、とわ子の辛い思いを身を持って知ってもらうのだ。そんなことをつらつらと考えながらとわ子は溶けていった。
〜HAPPY END〜
◇おまけ◇
「おれのおかげだな!」
「‥‥‥どこが?」
「いや〜、そりゃお前。やったー!と思ったところで袖にされて、ますますなんつーか夢中になっちゃったじゃんか、園生ちゃん」
「‥‥‥‥‥‥」
両者ともに辛いひと月だったのはどうしてくれると、とわ子が恨めしげに見れば、ご満悦気な晃と目が合う。
「いや〜、園生家と閨閥になったら事務所も安泰だな〜偉いぞ、とわ子」
「そういうつもりじゃ‥‥」
「え?そうなの?‥‥‥いや待て、それはそれで一番良いコースだ!俺の好きな大団円ハッピーエンド!!」
「‥‥‥そうかもしれないけど‥」
大団円だと言われてもとわ子はちょっとばかし納得がいかないのだった。
「まさかネタにする気?」
「あ?もちろん!」
「そう‥‥そうだ、あの時の梅ジャムをお茶請けに出してあげる」
今、とわ子の家で兄妹はおしゃべりしつつ、ゲームに興じていた。とわ子はキッチンに入って小皿やスプーンを取り出すために棚を開けて‥‥‥いいものを発見してしまった。
◇
「はい、どうぞ。まだかなり酸っぱいから、ハチミツ必要なら言って」
「お〜、いい香り」
話せば朗らかな印象の晃だが、結構鋭い顔立ちなのだ。目尻も口元もキュッとして、ちょっと近寄りがたい感じの鋭い美男子。話すと明るいのが良いのか悪いのかは微妙なところ。
そんな晃が、ニコニコとスプーンでジャムを掬うところをとわ子は無機質に見守る。
「‥‥‥‥‥すっ!??」
酸っぱくて当然。食用のクエン酸をまぜておいたのだから‥‥口元を押さえた晃はそれでも険しい顔で嚥下した。
「‥‥‥やっぱり?昨日、私も食べて驚いちゃったのよ。ハチミツ必要よね?待ってて」
晃が放心しながら水を飲んでいる。頭の上には巨大な「?」が見えた。とわ子は笑みを噛み殺しながら再びキッチンへ。次でとどめを刺すのだ。
「‥‥‥はい、どうぞ。試してみて」
「‥‥‥‥うん」
ドキドキしながらとわ子は晃を見守った。さっきはがっつりとスプーンに盛ったのに、今度はかなり少ない‥でも、それでいい。
「‥‥‥‥‥‥‥にっ!??」
さぞや苦いだろう。重曹を混ぜたのだから‥‥とわ子がとうとうにやりとする。
「おっおまっ‥‥‥‥」
それでも晃は嚥下した。体に良くないかも‥‥まあいいいか。かわいそうなのでコップに水を注ぎ、晃が
がーっとそれを飲み干した。
「私と園生さんの分よ!」
「‥‥うぅっ‥‥俺が悪かった!!‥‥でも、ネタにしていい?」
「それはいいけど‥‥名前は変えてね?」
晃の趣味、それは恋愛小説を書くこと。日記だかブログだかは毎日書いているらしい。とわ子はよくネタにされていて、でも今は気にしていない。
それよりも、寂しさで煮た梅ジャム。晃に出したものはさておき、なかなか美味しく仕上がって、それがちょっと憎たらしいとわ子なのだった。
〜END〜
寂しさで煮た梅ジャム FRESH♡レモン @fresh_lemon
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