第7話 一夜

 ◆


 北方への旅路は二人の想像を遥かに超える過酷なものであった。


 追手を振り切った後も、人目を避けて山道を行くしかない。


 野宿を重ね、時には洞窟で夜を明かし、空腹を水で紛らわせる日々が続く。


 食料の備えなどあるはずもなかった。


 逃亡は突然であり、周到な準備をする余裕などなかったのだから。


 道端の木の実を探し、湧き水を求めて彷徨う。


 王宮で絹の寝具に包まれていた頃がまるで前世の記憶のように遠い。


 それでも二人は歩み続けた。


 互いの手を取り、励まし合いながら。


 そして逃亡から七日目の黄昏時。


 山間の細道を抜けた二人の眼前に、ようやくその街が姿を現す。


 ラスフェル。


 冒険者たちの自治都市。


 いかなる権力の介入も許さぬ自由の砦。


「……着いた」


 シャールの口から、疲労と安堵の入り混じった声が漏れた。


「ええ。ようやく……」


 セフィラもまた、その光景に目を細めている。


 山肌を削って築かれた石造りの城壁。


 その内側に軒を連ねる雑多な建物群。


 夕陽を受けて赤く染まる街並みは王都の整然とした美しさとは対極にある混沌を湛えていた。


 だがその混沌こそが二人にとっては自由の象徴に他ならない。


 ◆


 城門には番兵が立っていた。


 革鎧を纏った屈強な男が二人、槍を手に通行人を検分している。


 シャールは一瞬身構えたがすぐに気を取り直した。


 ここはウェザリオ王国の支配下にはない。


 追手の手配書も届いていないはずである。


「止まれ。どこから来た」


 番兵の一人が声をかけてきた。


「南からだ。冒険者を志して、この街に来た」


 シャールは事前に考えておいた言葉を口にする。


 番兵は二人を上から下まで眺め回した。


 泥にまみれ、疲労困憊の様子ではあるがその立ち姿や物腰には隠しきれない気品がある。


「冒険者ねえ……」


 番兵の声には明らかな疑いの色が滲んでいた。


「まあいい。何か訳がありそうだが凶状持ちじゃあなさそうだ。なら自由に入れ。この街は来る者拒まずだ──犯罪者以外はな」


 ◆


 城門をくぐった瞬間、二人は異世界に足を踏み入れたかのような感覚に襲われた。


 喧騒。


 それ以外に表現のしようがない。


 露店の商人が声を張り上げ、酔った冒険者が大声で笑い、どこかで誰かが怒鳴り合っている。


 道端には正体不明の肉を焼く屋台が立ち並び、その煙が視界を霞ませていた。


 腹が鳴る。


 七日間ろくに食べていないのだから当然である。


 だが今は食事より先にやるべきことがあった。


 王宮の静謐とは真逆の世界。


 シャールは思わず足を止め、周囲を見回す。


「……すごいな」


 感想はそれだけである。


 それ以上の言葉が見つからなかった。


 セフィラもまた、目を丸くしている。


 書物で読んだ知識と、実際に目にする光景との間には天と地ほどの隔たりがある。


「とりあえず、宿を探そう。話はそれからだ」


 シャールの言葉に、セフィラが頷く。


 二人は人混みをかき分けるようにして、大通りへと足を進めた。


 ◆


 最初の宿に入ったのはそれから三十分ほど後のことである。


「銀の角亭」と掲げられた看板の下、木造三階建ての建物がそびえていた。


 扉を開けると、むわりとした熱気と酒精の匂いが鼻を突く。


 一階は酒場を兼ねているらしく、あちこちのテーブルで冒険者たちが杯を傾けていた。


 シャールは受付らしきカウンターへと向かう。


 太った中年の女がそこに座り、爪を磨いていた。


「宿泊を願いたい」


 シャールが声をかけた。


 女は面倒臭そうに顔を上げ、二人を値踏みするように眺める。


「部屋は空いてるよ。鍵もかけられる個室さね。一泊銀貨三枚。前払いだ」


 シャールは懐から革袋を取り出した。


 金貨を一枚取り出し、カウンターに置く。


「これで」


 女の目が一瞬だけ大きく見開かれた。


 そして次の瞬間、その顔に浮かんだのは呆れであった。


「あんた、頭おかしいのかい」


「……は?」


「金貨一枚だって? うちはそんな高級宿じゃないんだよ。銀貨三枚って言っただろう」


 シャールの眉が寄った。


 王宮では金銭のやり取りなど侍従に任せきりだったのである。


 実際の両替の手間などを考えたこともなかった。


「釣りなんか用意できないよ」


 女は金貨を指で弾き返す。


「銀貨で持ってきな」


 シャールとセフィラは顔を見合わせた。


 二人の懐には金貨と宝石しかない。


 銀貨など一枚も持っていないのである。


 ◆


 結局、その宿は諦めることになった。


 二軒目の宿でも同じことが起きる。


 三軒目では金貨を見せた途端に「貴族の坊ちゃんはお帰りください」と追い返された。


 通りの端で途方に暮れる二人。


「……まさか、金があっても宿に泊まれないとは」


 シャールの声には疲労と困惑が滲んでいた。


「両替商を探しましょう。この街にもあるはずです」


 セフィラの提案は理にかなっている。


 二人は再び歩き出した。


 だが両替商を見つけるのもまた一苦労である。


 道行く人に尋ねてようやく見つけた両替商では金貨一枚に対して法外な手数料を提示された。


「足元を見られている……」


 シャールが苦々しく呟く。


「仕方ありません。今は選んでいられる状況ではないでしょう」


 セフィラの冷静な判断に従い、二人は渋々ながら両替を済ませた。


 ◆


 銀貨を手に入れた二人は再び宿探しを始める。


 最初に見つけた「朝霧の鐘亭」という宿の扉を開け、カウンターへ向かった。


「部屋を」


「空いてるよ。一泊銅貨十枚。二人なら二十枚だ。ただ、かさばるからな。銀貨二枚を支払ってくれたら助かるぜ」


 髭面の主人がぶっきらぼうに告げる。


「ではそれを」


 シャールが銀貨を二枚カウンターに置いた。


 主人は銀貨を確認し、満足げに頷く。


「三階の角部屋だ。相部屋じゃないのはそこしか空いてないからな。一応個室だ。寝台は二人で使ってくれ」


「相部屋……?」


 セフィラが聞き返す。


「知らないのか。冒険者宿ってのは普通、見知らぬ連中と一緒に雑魚寝するもんだ。個室は高いし、数も少ない。うちにも何室かはあるがね。相手を見て案内することにしているんだ。あんたらは──まあ、悪くはないな。俺の見る限り。だから案内してやることにした」


 主人は肩をすくめた。


「あんたら、この街は初めてだろ?」


「……ああ」


「だろうな。なら忠告しておくがその身なりは早いとこ何とかした方がいい。いくら薄汚れてても、仕立ての良さは隠せないからな。カモだと思われて絡まれるぞ」


 シャールは自分の服を見下ろす。


 確かに、泥と埃にまみれてはいるものの、生地の質は一目で分かる上等なものである。


 セフィラの服も同様だった。


「……忠告、感謝する」


「礼はいらないよ。恩に着せてるだけだ。あんたが稼げるようになったら、うちの宿を宣伝してくれよな」


 主人はあっけらかんと言い放ち、カウンターの下から何かを取りだした。


「これは部屋の鍵だ。冒険者ギルドに行くときはしっかり鍵をかけて、肌身は出さず持ち歩いておけ。鍵のかけ忘れが原因の窃盗じゃあうちは責任をとらねえからな」


「冒険者ギルド……?」


「あんたら訳ありだろ? よそ様から手を出されないラスフェルここなら大丈夫と踏んでやってきたんだろう? だったら暫くこの街で暮らすことになるよな。なら登録しておいたほうがいいぜ。仕事の斡旋から身分証明まで、全部ギルドでどうか出来るからな。明日の朝、さっさと行ってこい」


 シャールとセフィラは再び顔を見合わせる。


 ◆


 三階の部屋は王宮の侍従部屋よりも狭い。


 粗末な寝台が二つと、小さな机、それに水差しが置かれただけの空間である。


 窓からは街の喧騒が絶え間なく響いてくる。


 シャールは寝台に腰を下ろし、深いため息をついた。


 セフィラも向かいの寝台に座る。


 しばしの沈黙が流れた。


「……可笑しなものですわね」


 セフィラが口を開いた。


 その声には疲労の中にも不思議な明るさがある。


「わたくしたち、金貨の価値も知らなければ、宿の取り方も知らないなんて。あれだけ色々学んできたというのに」


「……ああ」


 シャールも苦笑を浮かべる。


「王宮では何不自由なく暮らしていたからな。金銭のことなど考えたこともなかった」


「十八年生きてきて、こんなにも世間知らずだったとは。少々、情けなくなりますわ」


 セフィラは窓の外を見つめた。


 街の灯りが夜の闇の中にぽつぽつと浮かんでいる。


「ですが……」


 彼女の声の調子がわずかに変わった。


「冒険者になる、という話」


「ああ。あれは城門を通るための方便だが……」


「真剣に考えてみても、よいかもしれません」


 シャールは顔を上げた。


 セフィラの翠色の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめている。


「わたくしたちにはあの力がございます。神誓の儀では劣等の証とされた、無の魔力が」


「……確かに」


「この街ではそれが通用するかもしれません。いえ、むしろ……」


 セフィラは言葉を選ぶように、少し間を置いた。


「王宮にいた頃、殿下は仰いましたわね。もしも王太子でなかったなら、書物で読んだような英雄になれただろうかと」


 シャールの目がわずかに見開かれる。


 あの日の会話を、セフィラは覚えていたのだ。


「今、わたくしたちには何もありません。地位も、名誉も、守るべき体面も。ですが……」


 セフィラは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。


「だからこそ、何にでもなれるのではないでしょうか」


 シャールも立ち上がり、彼女の傍に並ぶ。


 窓の外には夜のラスフェルが広がっている。


 篝火と魔法灯が入り混じり、街全体が不思議な光に包まれていた。


「冒険者、か……」


 シャールは呟く。


 かつて書庫で貪り読んだ騎士たちの物語。


 悪を討ち、弱きを助ける英雄譚。


 あの憧れが今、手の届くところにある。


「……面白いな」


 シャールの唇に、微かな笑みが浮かんだ。


「明日、ギルドに行ってみよう」


「ええ」


 セフィラも頷く。


 二人は並んで、窓の外の光景を眺めていた。


 明日からのことは分からない。


 冒険者として生きていくとは具体的に何をすればいいのかも見当がつかない。


 だがこの瞬間。


 隣にこの人がいるという、ただそれだけで。


 未知の明日が少しだけ楽しみに思えるのだった。

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