第6話 昏い炎

 ◆


 王宮の一室に、炎が燃え盛っていた。


 暖炉の火ではない。


 マーキス・レオン・ウェザリオの掌から噴き出した灼熱の魔力が目の前に立つ伝令兵の足元を焦がしている。


 伝令兵は顔面を蒼白にしながら、それでも姿勢を崩すまいと必死に踏みとどまっていた。


「もう一度言え」


 低く、地の底から這い上がるような声。


「も、申し上げます。オズワルド隊長率いる第二騎士団追撃隊、全滅。生存者なし。シャール殿下とセフィラ様の行方は……依然として、不明であります」


 報告を終えた伝令兵の額から、一筋の汗が顎を伝って落ちた。


 沈黙が室内を支配する。


 マーキスは答えない。


 ただその双眸に、尋常ならざる光が宿っていた。


 怒りという感情を通り越した、何か別のもの。


 それは獲物を逃した猛獣の、本能的な飢餓に近い。


「下がれ」


 短く告げられた言葉に、伝令兵は弾かれたように一礼し、逃げるように退室していった。


 扉が閉まる。


 次の瞬間、執務机が轟音とともに炎上した。


 積み上げられていた書類が灰と化し、黒煙が天井へと立ち昇っていく。


 マーキスの拳が燃え盛る机の残骸を叩き割った。


「あの無能が……」


 歯の隙間から、呪詛のような呟きが漏れる。


 オズワルドの一隊が全滅。


 その報告がもたらす意味を、マーキスは正確に理解していた。


 兄シャールは無の魔力の持ち主である。


 すなわち、戦闘能力を持たぬ劣等者。


 騎士団の精鋭十数騎を相手に、どうやって生き延びたというのか。


 いや、生き延びたどころではない。


 全滅させた。


 一人の生存者も残さずに。


 その事実がマーキスの胸中にひとつの疑念を芽生えさせていた。


 ◆


 翌日。


 王宮の大広間に、王国の主だった重臣たちが招集されていた。


 玉座には病を押して臨席した国王オルドヴァイン三世の姿がある。


 その隣に立つマーキスの表情は昨夜の激情が嘘のように平静を装っていた。


 だがその眼底に燻る炎を見抜けぬ者はこの場には一人としていない。


「シャール殿下とセフィラ様の逃亡は王国に対する重大な背信行為である」


 宰相代理を務める老臣が重々しく口を開いた。


「加えて、追撃に向かった騎士団の全滅。これは看過しえぬ事態と言わざるを得ません」


 広間にざわめきが走る。


 騎士団全滅の報はまだ一部の者にしか伝えられていなかったのだ。


「全滅だと……あのオズワルドが率いていたのではないか」


「いったい何が起きた」


 貴族たちの囁きがさざ波のように広がっていく。


 マーキスが一歩前に出た。


 その動作だけで、広間は水を打ったように静まり返る。


「原因の究明は後だ。今は逃亡者の確保を最優先とする」


 声に感情の揺らぎはない。


 氷のような冷徹さがむしろ昨夜の激昂よりも恐ろしかった。


「諜報部の報告によれば、逃走経路から推測される行き先はいくつかに絞られる」


 マーキスは傍らに控えていた諜報部長官に目配せした。


 黒衣の男が進み出て、羊皮紙の地図を広げる。


「まず第一に、東方国境を越えてヴェイル帝国領内に逃れる可能性。しかしこれは現実的ではありません。帝国との関係悪化により、国境警備は双方ともに厳重を極めております」


 細い指が地図上を滑っていく。


「第二に、南方の小国群への亡命。こちらも可能性は低い。いずれの国も我が王国との外交関係を重視しており、逃亡者を匿う利点がありません」


 貴族たちが頷く。


 道理に適った分析であった。


「第三に、西方の海路を使っての大陸外逃亡。これも困難でしょう。港湾都市すべてに手配書が回っております」


 長官の指が地図上のある一点で止まった。


 北方。


 王国領の果て、山岳地帯の只中に位置する小さな都市。


「最も有力な逃亡先と目されるのがここです」


 長官の声がわずかに硬さを帯びた。


「自治都市ラスフェル」


 その名が告げられた瞬間、広間の空気が微妙に変質したのをマーキスは感じ取った。


 何人かの貴族が居心地悪そうに視線を泳がせている。


「ラスフェルか……」


 玉座のオルドヴァイン三世が初めて口を開いた。


 病に蝕まれた声は弱々しかったがそこにはなお王としての威厳が残っている。


「厄介な場所を選んだものだ」


 ◆


 ラスフェル。


 その名を知らぬ者はこの大陸にはほとんど存在しない。


 かつて魔獣の巣窟であった北方山岳地帯を切り拓き、冒険者たちの手によって築かれた都市。


 いかなる国家にも属さず、いかなる権力の介入も拒む、完全なる自治都市である。


 その成り立ちは二百年以上前に遡る。


 当時、北方山岳地帯には「災厄の回廊」と呼ばれる魔獣の通り道が存在していた。


 周辺諸国は幾度となく討伐軍を送り込んだがいずれも壊滅的な被害を被って撤退を余儀なくされている。


 正規軍では対処不能。


 その絶望的な状況を打破したのが各地から集結した冒険者たちの連合であった。


 彼らは十年の歳月をかけて災厄の回廊を制圧し、その跡地に拠点を築いた。


 それがラスフェルの起源である。


 以来、この都市は冒険者たちの自治によって運営されてきた。


 周辺諸国は何度か支配下に置こうと試みたがそのたびに手痛い反撃を受けている。


 ラスフェルに手を出すということは世界中の冒険者を敵に回すということに等しいのだ。


 ◆


「力づくで制圧するという選択肢は」


 若い将軍の一人が恐る恐る口を開いた。


 マーキスの視線がその将軍を射抜く。


「愚問だな」


 冷たい声が広間に響いた。


「冒険者などという連中は大半が食い詰めた流れ者に過ぎん。木っ端のような輩ばかりだ。だが……」


 マーキスの言葉が途切れる。


 その沈黙がむしろ雄弁に真実を語っていた。


 諜報部長官が後を引き継ぐように補足した。


「ラスフェルには現在、推定で三千から四千の冒険者が滞在していると見られます。その大多数は仰る通り、取るに足らぬ者たちでございましょう。しかしながら……」


 長官の声が低くなる。


「問題はその中に混じる一握りの存在です」


 広間に重苦しい沈黙が落ちた。


 冒険者。


 その言葉が指し示す範囲はあまりにも広い。


 駆け出しの若者から、伝説に名を残す英雄まで。


 そしてラスフェルには後者に属する者たちが少なからず腰を据えていた。


「"竜殺し"ヴォルゲン」


 長官が最初の名を告げた。


 広間のあちこちで、息を呑む気配が走る。


 二十年前、東方の山脈に棲息していた古龍ファフニールを単身で討ち果たした男。


 その一撃は山ひとつを消し飛ばしたと伝えられている。


「"城喰い"グレンデル」


 二つ目の名。


 こちらは十五年前、南方の暴君が築いた難攻不落の城塞を一夜にして瓦礫の山に変えた女傑である。


 攻城戦において彼女が放った魔法は城壁どころか城そのものを地面ごと呑み込んだという。


「他にも"千殺"、"深淵"、"災厄の残り火"……枚挙に暇がありません」


 長官が羊皮紙を閉じる。


「いずれも一個人でありながら、軍と同等かそれ以上の戦力を持つ者たちです。彼らを敵に回せば、王国軍といえども無傷では済みますまい」


 将軍が唾を飲み込む音が妙に大きく響いた。


 マーキスの拳が音を立てて握り締められる。


 その指の間から、かすかに火花が散った。


 理解している。


 理解しているからこそ、苛立ちが募るのだ。


 ◆


 評議が終わり、重臣たちが三々五々と退出していく。


 マーキスは玉座の傍らに残り、窓の外を見つめていた。


 西に傾き始めた陽光が王都の街並みを赤く染めている。


 その視線の先に、北方の山々の稜線がかすかに見えた。


 あの向こうにラスフェルがある。


 そしておそらく、兄と、兄に奪われた女がいる。


「悔しいか」


 背後から、しわがれた声が響いた。


 振り返れば、玉座に深く身を沈めた父王の姿がある。


「……お見苦しいところを」


「よい。お前の気持ちは分かる」


 オルドヴァイン三世の目がどこか遠くを見ていた。


「だが焦るな。時は必ずお前の味方をする」


 その言葉に、マーキスは眉をひそめた。


「どういう意味でしょうか」


「ラスフェルは確かに手出しができぬ。だがあの街は永遠の楽園ではない。金が尽きれば、冒険者として生きていくしかあるまい」


 老王の唇がわずかに歪む。


 それは笑みとも、苦悶ともつかぬ表情であった。


「シャールは優秀な子だった。だが所詮は温室で育った王族に過ぎん。冒険者の世界がどれほど過酷か、あの子には分かるまい」


 マーキスは黙って聞いている。


「待て。そして見ていろ。やがてあの子は自ら戻ってくることになる」


 父王の言葉に、マーキスは静かに首を横に振った。


「お言葉ですが父上。私はそうは思いません」


 窓の外を見つめる瞳に、暗い炎が揺れていた。


「あの兄は……私が思っていたような人間ではなかったようです。オズワルドの一隊を全滅させた。あの、無能と蔑まれていた兄が。信じられない話ではありますが」


 拳を開き、掌を見つめる。


 そこに刻まれた火の紋章がかすかに脈動していた。


「ですから、待ちはしましょう。ですがそれは兄が自ら戻ってくるのを待つためではない」


 マーキスは踵を返し、玉座の前に跪いた。


「いずれあの街に手を出す口実を見つけます。その時まで、力を蓄えておくのです」


 オルドヴァイン三世は何も答えなかった。


 ただ、深い溜息だけが薄暗い広間に溶けていった。

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