第4話 共に別ち難く

 ◆


 神誓の儀が投じた一石はウェザリオ王国の政治力学に静かだが決定的な波紋を広げていくことになる。


 歴史とはひとつの空白が生じた時、必ずそれを埋めようとする別の力が働くものである。この場合において、その力とはシャールの一歳年下の弟、マーキス第二王子に他ならなかった。


 燃えるような赤毛と、挑戦的な光を宿す双眸の持ち主であるマーキスはあらゆる点において兄シャールとは対照的な資質を備えている。


 内省的な兄に対し、彼は行動的であり、怜悧な兄に対し、彼は激情家であった。とりわけ、神誓の儀において父王オルドヴァイン三世譲りの強大な火の魔力を示したことは彼の政治的価値を飛躍的に高める結果を招く。粗暴で短慮であるとの批判も存在したがそれは平時における評価に過ぎない。


 時を同じくして、王国の東方国境線において隣国ヴェイル帝国との軍事的緊張が高まりつつあった。強力な土の魔力を背景に版図拡大の野心を隠さない帝国との衝突が現実味を帯びるにつれ、王国の支配階層、特に軍部を中心に、より強力で明確な指導者を待望する声が公然と上がり始める。


 有事において国家を防衛しうるのは観念的な理想ではなく、圧倒的な破壊力としての魔力である、と。


「マーキス王子こそ、次代の王にふさわしいのではないか」


 そうした声は帝国の脅威という外的要因に煽られ、日増しにその勢力を増していった。長子相続という古来の原則も、国家存亡の危機という大義名分の前にはもはや脆弱な建前に過ぎなくなっていたのである。


 ◆


 そして運命の日は訪れる。


 国王オルドヴァイン三世は重臣を招集した評議会の席上、硬質な声で宣言した。


「現下の情勢に鑑み、王国と臣民の安寧を第一とする。よって、第一王太子シャールに代わり、第二王子マーキスを新たに王太子として指名する」


 それはシャールにとって事実上の廃嫡宣告であった。


 父王の決定が下された時、彼はただ静かに頭を垂れる以外に術を持たない。オルドヴァイン三世の視線はもはや息子シャールを捉えることなく、ただ冷ややかに、そしてどこか憐れむように虚空を彷徨うのみ。


 一個人の資質への失望と、為政者としての冷徹な判断。その二つが一人の王の中でせめぎ合い、そして下された苦渋の決断であった。


 この日を境に、シャール・レオン・ウェザリオは王国の未来を担うべき存在から、ただ過去の遺物として扱われることになる。


 新たに王太子となったマーキスの権勢は瞬く間に増大していった。


 彼は水を得た魚のごとく王宮内での影響力を拡大させ、軍の視察に赴いては兵士たちの前で己が火の魔力を誇示し、その指導者としてのカリスマ性を演出する。その粗暴な言動を諫める者は既になく、むしろその力強さこそが頼もしいと評価する声が多数を占めていた。


 さて、王太子の地位を手中に収めたマーキスにはもうひとつ渇望してやまないものがあった。すなわち、セフィラ・イラ・エルデである。


 マーキスは以前よりその類まれなる美貌と知性に、兄への嫉妬と入り混じった密かな独占欲を抱いていた。無能の烙印を押された兄から、地位も、そしてその婚約者をも奪い取ることこそ、彼にとって完全なる勝利を意味する。


 マーキスは父王に対し、エルデ公爵家との関係を維持するという政治的功利性を盾に、セフィラを側妃として迎え入れたい旨を言上した。オルドヴァイン三世はそこに介在する息子たちの感情の軋轢を知りつつも、最終的にこれを黙認する。


 失意の長子への配慮より、新たに権力の中心となった次男の機嫌を損ねることの政治的リスクを、彼はより重く見たのであろう。


 エルデ公爵家へ送られた使者が伝えたのは要請というよりはむしろ王命に近い決定事項の通達であった。


 ◆


「マーキス王太子殿下より、お前を側妃に迎えたいとの申し入れがあった。エルデ家はこれを受諾する。よいな、セフィラ。これは決定事項だ」


 エルデ公爵家の書斎にて、父は娘に冷然と告げた。神誓の儀以降、公爵家の立場は微妙なものとなっている。「無の魔力」の娘を持つ家門として、ここで次期国王の縁談を断るという選択肢は政治的に存在しなかったのである。


 しかしセフィラの返答は明確であった。


「お断りいたします、お父様。わたくしの心はシャール殿下と共にございます」


「愚かな! シャール殿下はもはや王太子ではないのだぞ! 王命に背けば、我らエルデ家がどうなるか、分からぬお前ではあるまい!」


 公爵は激昂するがセフィラの決意は揺るがない。


「エルデ家の誇りは権力に媚びへつらうことにはございません。愛する方を裏切ってまで得る安寧など、わたくしには不要です」


 父と娘の対立が平行線をたどる一方、シャールもまた、完全なる無力感に苛まれていた。


 父王への謁見も叶わず、かつて彼に追従した貴族たちは今や誰一人として彼を顧みようとはしない。権力という太陽を失った惑星が急速にその引力を失っていくかのように、シャールは王宮の中で完全に孤立していた。


 ◆


 夜ごと、二人はそれぞれに深い懊悩の淵をさまよっていた。


 シャールは自問する。セフィラを連れて王国を出奔するか。しかしそれは彼女から公爵令嬢としての地位、家族、すべてのものを奪う行為に他ならない。


 己の愛が彼女を不幸にするのではないか。王太子という地位を失った自分に、彼女を幸福にする資格が果たしてあるのだろうか。愛するがゆえに手を放すべきではないのか。


 答えの出ない問いが彼の精神を少しずつ蝕んでいく。眠れない夜が続いた。天井を見つめながら、同じ問いを何度も何度も繰り返す。そのたびに胸が軋むように痛んだ。


 セフィラの苦悩はより現実的で、そして暗い色合いを帯びている。


 万策尽き、マーキスの手に渡ることが避けられなくなった時。


 彼女の心にはひとつの冷たい決意が芽生えつつあった。シャール以外の男にその身を委ねるくらいなら、自ら命を絶つ、と。彼女の部屋の引き出しの奥には父から譲られた装飾短剣が静かにその時を待っている。


 だがその決意が固まりかけるたびに、残されるであろうシャールの悲嘆が脳裏をよぎった。あの人はきっと、自分を責めるだろう。一生、その重荷を背負って生きていくことになるだろう。そう思うと、短剣を握る手が止まってしまうのだ。


 時間は無情に過ぎ、マーキスとセフィラとの婚約の儀は目前にまで迫っていた。


 そして婚約前夜。


 エルデ公爵邸の庭園。いつものベンチにひとり座すセフィラの瞳には硬質な光が宿っている。それは決意の光であった。


 さようなら、愛しいシャール様──


 そんな思いを胸に秘めながら、懐に忍ばせた短剣の冷たい感触を確かめようとした、その時である。


 背後にかすかな人の気配がした。


 振り返る。月光を背に立つそのシルエットはここ数日の心労でやつれてはいたが紛れもないシャールであった。


 その瞬間、セフィラの脳裏から懊悩も、絶望も、そして死の覚悟さえも、一瞬にして消え去っていた。


 ただ愛しい人が目の前にいる。その事実だけがすべてであった。


 シャールもまた、月明かりに照らされたセフィラの姿を見つめていた。この数日、彼女がどれほど追い詰められていたか、その痩せた頬を見れば痛いほどに伝わってくる。


 長い、あまりにも長い沈黙が流れた。


 夜風が二人の間を吹き抜けていく。どこかで夜鳥が鳴いた。


 そしてほとんど同時に、二つの魂は同じ言葉を紡ぎ出していた。


「セフィラ……すべてを捨てて、私と共にこの国を出てはくれぬか」


「シャール殿下……この国よりも、わたくしを選んではくださいませんか」


 言葉は違えど、その願いは同じ。互いが同じ結論に達していたことを知った瞬間、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。


 セフィラの瞳から、ずっと堪えていた涙がとめどなく溢れ出す。声にならない嗚咽が漏れた。怖かった。寂しかった。でも、この人がいてくれる。この人が選んでくれた。


 シャールはその華奢な身体を強く抱きしめた。腕の中で震えるセフィラの温もりが彼の心を満たしていく。もう離さない。何があっても、この人だけは守り抜く。


 やがて、どちらからともなく、くすくすと笑い声が漏れた。


 それは絶望の淵で互いを見出した者の、安堵と決意の表れであった。涙と笑いが入り混じった、不思議な夜だった。けれどもその夜ほど、二人が互いを近くに感じた瞬間はなかったかもしれない。

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