第3話 運命の審判

 ◆


 書斎での最初の口づけから、さらに五年の歳月が流れていた。


 王国暦五百三十年。シャールとセフィラは共に十八歳を迎え、この五年の間に二人の間で育まれた絆は単なる信頼という言葉ではもう収まりきらない、明確な愛情へと姿を変えている。


 けれども、二人の私的な関係が深まっていく一方で、公の場に立つ彼らを待ち受けていたのはあまりにも過酷な運命の審判であった。


 十八という年齢はウェザリオ王国の支配階層にとって特別な意味を持つ。すなわち「神誓の儀」。成人を目前に控えた貴族の子弟が神々の御前で自らの身に宿す魔力の属性と力量を明らかにする、古くから続く荘厳な儀式である。


 この儀式の結果がその後の個人の運命を、ひいては家の栄枯盛衰さえも決定づける絶対的な指標として機能していたことは言うまでもない。


 次代の王となるシャール王太子と、その伴侶となるべきセフィラ公爵令嬢。この二人に寄せられる国民の期待は当然ながら並々ならぬものがあった。


 父王オルドヴァイン三世が持つ比類なき火の魔力と、エルデ公爵家が代々受け継いできた深遠なる水の魔力。王国の安寧と繁栄はこの二つの血統が次の世代においてどれほど輝かしい魔力を示すかにかかっている──そう言っても、決して言い過ぎではなかったのである。


 ◆


 神誓の儀の舞台となるのは王都の中央に天を突くかのようにそびえ立つ大神殿であった。


 その日、空は一点の曇りもない紺碧に染まっていたが神殿の内部はむしろ荘厳な静けさと、人の心を圧するような厳粛な空気に満ちている。高くアーチを描く天井、歴代の王と聖人の功績を刻んだ巨大なステンドグラス、そして磨き上げられた大理石の床。そのすべてが途切れることのない歴史の重みを形にし、神聖なる儀式の権威を無言のうちに物語っていた。


 祭壇の前には国王夫妻、エルデ公爵夫妻をはじめとする王族や大貴族たちが整然と並び、その視線はただ一点へと注がれている。


 純白の儀式服に身を包み、祭壇の中央に立つ二人の若者──シャールとセフィラ、その人である。緊張の色は隠しようもなかったがその立ち姿は凛としており、次の時代を担う者としての気品を十分にたたえていた。


 やがて、緋色の法衣をまとった大神官長が進み出て、祭壇に安置された水晶の宝珠の前に立つ。触れた者の魔力の属性と質を、色と光の強さで示すと伝えられる「神託の珠」。四大属性はそれぞれに対応した色を放ち、その力が強ければ強いほど輝きは増す。逆に魔力を持たない者、あるいは劣等の証とされる「無の魔力」の持ち主である場合、珠は沈黙を守るか、鈍い灰色の光を放つのみとされていた。


 ◆


「これより、神々の御名において、ウェザリオ王国第一王太子シャール・レオン・ウェザリオ、並びにエルデ公爵家令嬢セフィラ・イラ・エルデの、神誓の儀を執り行う」


 大神官長の朗々たる声が静寂を破る。


 最初に珠へと進み出たのはシャールであった。彼は大神官長に促されるまま、右手を水晶へと差し伸べる。会場のすべての視線がその一点に集中していた。国王オルドヴァイン三世は固く口を結び、王妃は祈るように両手を組み合わせている。


 シャールの指先が冷たい水晶の表面に触れた、その瞬間。


 神殿を満たしたのは誰もが期待していた燃えるような赤い光ではなかった。完全な沈黙。いや、注意深く見つめる者にとっては光がないこと以上に不可解な、空間そのものがかすかに揺らぐような無色の変化が珠の内部に生じている。それは当代の魔導学では到底説明のつかない現象だったがすぐに答えを求める人々の目にはただの「無反応」としか映らない。


 大神官長の顔に困惑の色が浮かぶ。もう一度、強く念じるよう促すが結果は変わらなかった。


「……まさか」


 誰かが漏らしたその一言が疑念と動揺の波紋となって神殿全体へと広がっていく。


「……色が出ないだと?」


「王太子殿下が……無属性……?」


 オルドヴァイン国王の顔から血の気が引き、貴族たちの間には失望と、そしてどこか政治的な計算を秘めた冷たい視線が交錯し始める。


 シャールは静かに水晶から手を離し、表情を消したまま己の立つ場所へと戻っていった。その胸の内で何が渦巻いていたか、誰にも窺い知ることはできない。


 次にセフィラが進み出る。青ざめた顔で、彼女はシャールと一瞬だけ視線を交わした。その瞳には怯えと、それでもあなたの傍にいるという静かな決意が入り混じっている。小さく頷くと、セフィラは珠へと手を伸ばす。エルデ公爵家の血統ならば、という最後のかすかな望みが会場のざわめきを束の間だけ抑えていた。


 けれども、運命の女神は時として残酷なまでに公平である。


 結果はシャールの時とまったく同じだった。色も光も示さない水晶。ただ、内部にかすかな空間の揺らぎが見て取れただけ。


「……ああ」


 エルデ公爵のうめき声が響き、公爵夫人は侍女に支えられて、かろうじてその場に立っている。もはや疑う余地はなくなっていた。ウェザリオ王国の未来を担うはずだった二人の若者が揃って「無の魔力」という、社会的な落伍者の烙印を押されたのである。


 囁きはもはや嘲笑と侮蔑の大合唱へと変わっていく。


「信じられん……王家もエルデも、この代で終わりか」


「これではマーキス第二王子を立てるしかあるまい」


「婚約は破棄だな。セフィラ嬢は……まあ、他国への貢物くらいにはなるだろう」


 神聖であるはずの典礼は二人の若者の社会的な地位を衆目の前で処刑する、残酷な見世物へとその姿を変えていた。大神官長は震える声で、かろうじて儀式の終わりを告げるのみである。


 ◆


 およそ権力というものはその正統性が揺らいだ瞬間にこそ、最も残酷な顔を見せるものである。


 神誓の儀の結果は燎原の火のごとく王国全土に広まり、シャールとセフィラに対する世間の評価を一変させた。昨日までの称賛は一夜にして蔑みへと変わり、未来の玉座を約束されていたはずの王子は公然と「無能の王太子」と謗られる存在へと転落していく。


 父王オルドヴァイン三世の目から、かつての慈愛は消え失せていた。そこにあるのはただ、冷え切った失望の色だけである。息子の目を見ようともしない父の横顔を、シャールは奥歯を噛みしめながら見つめることしかできなかった。


 セフィラを取り巻く環境もまた同じだった。エルデ公爵家はその名誉を大きく傷つけられ、彼女自身も、同情を装った悪意とあからさまな侮蔑の標的となっている。魔力が人の価値を決める社会において、「無」であるということは存在そのものを否定されることに等しいのだ。


 眠れない夜が続いた。かつては心地よかった絹のシーツも、今は冷たく感じられる。天井を見つめながら、セフィラは何度も涙を拭った。悔しさからではない。自分がこうなることで、シャールの立場をさらに悪くしてしまったのではないか──その思いが胸を締めつけて離さなかったのだ。


 けれどもこの逆風は皮肉なことに、二人の心の絆をより強いものにしていく。


 儀式から数日後の夜のことである。人目を忍んでエルデ公爵邸の庭園を訪れたシャールを、セフィラはいつものベンチで待っていた。月明かりに照らされた彼女の顔はこの数日で少しやつれて見える。


「……大丈夫か、セフィラ」


 シャールの声には隠しきれない心配がにじんでいた。


 セフィラは力なく微笑んでみせる。その笑顔が痛々しくて、シャールは思わず目をそらしそうになった。


「ええ、殿下こそ。わたくしは……平気ですわ。少々、周りの声がうるさいだけです」


 嘘だとわかっていた。彼女の瞳の奥に、どれほどの辛さが沈んでいるか、シャールには痛いほど伝わってくる。


 しばしの沈黙が月光の下に横たわる。夜風が二人の髪をそっと揺らしていった。


「……私が王にふさわしくないと、皆が言う」


 シャールはぽつりと言った。その声には自分を嘲るような響きがある。


「あるいはそれは正しいのかもしれない」


「殿下……」


「おかしなものだな。国中が私を蔑み、父上でさえ私を見放したというのに……」


 シャールは夜空を見上げる。星々が静かに瞬いていた。


「君さえ傍にいてくれれば、他のことはどうでもいいと思ってしまう。そんな自分がいる。……王たる者の考えではあるまい」


 その言葉を聞いた瞬間、セフィラの胸の奥で何かが熱くなった。涙がこみ上げてきそうになるのを、必死でこらえる。


「公爵令嬢として、王太子殿下の婚約者として、そのお言葉を諫めるべきなのでしょう」


 セフィラは静かに応えた。声が震えないように、懸命に気を張りながら。


「ですが……わたくしはそれを、嬉しく思ってしまうのです」


 月明かりの中で、二人の視線が絡み合う。


「これではわたくしも失格ですわね」


 そう言ったセフィラの唇には今度は本物の微笑みが浮かんでいた。悲しみの中にあっても、この人がいてくれるという、ただそれだけのことがどれほど救いになるか。言葉にならない感謝が胸の中であふれていく。


 こうして、公的な期待という名の重い枷を断ち切られた二人は逆にいかなる政治的な思惑にも染められない、純粋な心の絆によって結ばれることになった。


 二人は互いの瞳を見つめる。そこに映る相手の姿が世界で最も大切なものだった。


 やがて、二つの影は静かにひとつへと重なっていく。シャールの腕がセフィラの背中に回り、セフィラは彼の胸に顔をうずめる。互いの温もりを確かめ合うように、二人はしばらくそのまま動かなかった。


 それはこれから訪れる苦難の日々を共に歩むことになる二人の、最初の、そして最も大切な誓いであったと言えるだろう。

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