早朝

ロッドユール

早朝

 早朝の純真な空気。


 ベランダに出ると、空気はきれいに冷たくなっていた。気温はいつの間にか冷たいまでに下がっていた。


 寒いのは嫌いだけど、早朝のこの澄んだ空気は好きだった。


 部屋に戻り、温かいお茶を飲む。

 こんな一瞬の朝が好きだったりする。


 厚切りのトーストも目玉焼きも、マーマレードのジャムも肉厚のベーコンも、よけいなものは何も要らない。

 

 ふわふわと湯気の上がる温かいお茶があればそれでいい。


 清々しい空腹がこの朝にはよく似合う。



 ふわりと揺れる薄いレースのカーテンのような、薄っすらとした鬱。卵の殻を剝いたその先に、まだくっついているあのなんかよく分からない薄皮の、あのひ弱な白い不透明さのような、曖昧で存在のはっきりしない、なんとなく死にたいという思い――。


 


 冷たく長いあの冬がやって来る。


 あの鬱々とした暗く長い冬。




 純粋にこの街を楽しめなくなったのはいつの頃だったろうか。



 ただ、この街にいるだけで心が騒いだ十代の頃。



 この街のすべてが輝いていた。



 あの時のわくわくはどこへ行ってしまったのだろうか・・。



 変わっていく私の心。変わってしまう私の心。



 懐かしさを懐かしんでもしょうがないことを知っていて、でも、私はどうしてもあの時のあの場所を特別な感情と共に思い出してしまう。


 

 変わっていく私――。変わっていく私という関係――。



 温かいお茶が私を温めてくれる。


 こんな朝をあと何回迎えることができるのだろうか。


 私はふと不安になる。



 今日が土曜日だって実感が何回曜日を確認してもない。まるで生きている実感がないみたいに――。


 

 希望に燃えて、でも、ふとした一瞬――、訳もなく生きることが堪らなくしんどくなる時がある。


「・・・」

 もっと気軽に人が死ねたなら――、人はもっと気軽に生きられたのかもしれない・・。



 北風が吹いている。あの山の向こうから、今年も北風がやって来た。



 最近、嫌なことばかりを思い出す・・。



 私はふと、窓の外を見つめる。

「・・・」

 紅葉のその華やかな色とは裏腹に、薄ぼんやりとした靄のかかった物悲しい色彩の舞う窓外の景色に溶けるようにあの時のあの光景が重なっていくのを、アナログレコードののんびりとした回転の中に漂う古い昭和歌謡のもの悲しいムードに霞むように見つめながら、よく分からない何かが、私を堪らない寂しさの中に引き連れていく。

「・・・」

 私はテーブルに頬杖をついて、その窓外に漂う正体不明の何かを見つめる。



 痛くなるほどに寂しくて――、


 堪らなく誰かを愛したくなる時がある。


 でも、今、私の前には誰もいない――。



 私はたくさんのものを手に入れて――、でも、結局何も手に入れることができなかった――。

 あんなに大切だったものを、気づくと私はいつも自ら捨ててしまっている――。

 


「・・・」

 お気に入りの白磁のカップから、ほわほわと湯気が立ち上っているのを何となしに見つめる。

「・・・」

 温かいお茶から漂うその微かな白い湯気が、この悲しい世界と私の沈んだ心を少しだけやわらかくしてくれている気がする。



 あの時のあの罪を背負いきれるほどに、私は大人になったのだろうか。


 あの罪を洗い流せるほどに、私は罰を受けたのだろうか。



 あの人に罪なんかなかった。何もなかった。欠片もなかった。私はそのことを知っていた――。

 


 

 人が幸せになるにはあまりに、この世界には悲しいことが多過ぎる。



 もっと鈍く、あの人たちのように、かんたんに人を蹴落とせる人間であったなら――、私はもっと幸せだったのだろうか・・。



 憎しみがどうしようもなくて、人と人がどうしようもなく憎しみ合う時、どんなに傷ついても私は許す側にいたい。


 あの時、私を愛してくれたあの人の手は、とても温かかった。あの人のあの愛が、どれだけ私を救ってくれただろうか――。

 だから、どんなことがあっても、私はやさしい人間でいたい。そうありたい。苦しみの中で、どんなに人間として大切な何かを失おうとも、それだけはそう切に思う。


 

 あの時の傷跡は、まだはっきりと私の心の中に残っている。


 たくさんの人が私を傷つけては何事もなく去っていった――、何の罰も受けることなく――。


 あの時の理不尽を、でも、それは人生なんだと割り切れるほどに私は人生を経験していなくて、いや、経験していたとしても結局は割り切れなくて、心の奥にしまった悲しみは形を変えて私を苛んでいく。


 処理しきれなほどの悲しさが、私を襲う時、私は何かを諦めざる負えなくて、だから、あの時のあの私の決断は仕方がなかったんだ。


 ――あの人が言うように、これも言い訳なのだろうか・・。



 熱いお茶で温まった体の芯と、飲み終えたお茶のそのマグカップに残った温かさに触れる手の平のほんのりとした温もりと、その温かさの余韻が私を少しだけ、生きるってことに前向きにしてくれる。



 絶望なんかしちゃいけない。


 この先に何があるかなんて、人には何も分かりはしない。


 分かるはずもない。



 明日は明日の風に――、今はこの身を横たえて、そのまま流されるところまで流されていく。無力な落ち葉が、無邪気な小川の水流にふわふわと流されていくように――。


 それが行きつく先がどこだろうと私は知らない。

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早朝 ロッドユール @rod0yuuru

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