第8話 さらば働き者よ

「やっと思い出したか?」


記憶を探って思い当たり、ハッとした表情をした僕を見下ろしながら、若葉さんはニヤリと笑った。


「一郎が浮気してることは薄々気づいてた。家に行ったら化粧落としとか女性向けの高級そうなシャンプーがあるし、冷蔵庫には、いつも手作りの料理が入ってた。コンドームのストックだっていつも数が合わない。やっと尻尾を掴んだぞ!あれは、全部あの女がやってたんだろ!」


いえ、それぞれ全部違う女の人ですと言うわけにはいかないので黙りこむ。


「正直言えば、はらわたが煮えくり返ってる。一郎にもあの女にも。だけど、私たちには7年間の歴史がある。一郎との約束もある。だから、今回だけは涙を飲んで許してやることにした!」


若葉さんを見上げると、腕組みをしながら、相変わらず眉を険しく寄せている。口もへの字に歪めたまま。とても許してくれている感じではない。

若葉さんの腹の中を探るため見つめていると、彼女は再び口を開いた。


「今すぐ私と結婚しろ。それで心を入れ替えて私の仕事を手伝うって誓え!そうすれば許してやる!」


鋭い視線を向ける彼女を見上げながら考えた。

それは無理だ。

色欲を悪魔に渡してわかった。


僕は別に若葉さんのことを愛しているわけじゃない。愛のない結婚をしても不幸になるだけ。

だけど、正直にそんなことを言うわけにはいかない。いったいどうしたら…。


『誠意をもって話し合って納得してもらいなさい』


その瞬間、あまつかさんの言葉が脳裏に浮かんだ。

確かにその通りだ。

自然消滅してくれたらいいなんて甘く考えていた僕が間違っていた。

この今の境遇は自業自得だ。

だったら僕がその責任を取らなきゃ!


僕は腹を決めた。


「ごめんなさい。それはできません。」


彼女の目を真っすぐ見ながらそう伝えると、彼女の眉が吊り上がり、ぴくぴく引き攣った。

これは若葉さんの頭に血が昇り始めた時のサインだ。


「どういうこと?」


若葉さんの声が一気に冷え込んだ。


「僕は・・・。もう誰かを愛することはできません。いえ、これまでも性欲に振り回されて、愛していないのに無責任な行動をしてきました。若葉さんのことも愛していたわけではありません。だから結婚できません。本当にごめんなさい。若葉さんには謝ることしかできません。」


腕組みをしたままの若葉さんはプルプルと震え始めた。

白目が大きく見えるくらい目が見開かれている。


「私達、7年間も付き合ってたよね。愛してなかったって何?7年もの間、ただ、私を性欲のはけ口にしてたってこと?」


「それは…。ごめんなさい。」


「将来、私と一緒に植木屋をやってくれるって話は?あれは嘘だったの?」


「噓というか…、友人として助けるつもりはあるけど、結婚して一緒に仕事することはできません。だから…。」


「ちょっと待ってよ!!」


若葉さんは大声で叫んだ。目が真っ赤になり、怒りの炎が浮かんでいる。


「私は…一郎が初めてできた恋人だったんだよ。いつか結婚するものだと思ってずっと浮かれて、花がたくさん咲く庭のある家を建てたいとか、子どもは3人は欲しいとかずっと考えてて…それが全部嘘だったってこと?」


「嘘…というか…、はい。すみません。謝るしかありません。すべては性欲に流されて無責任なことをした僕が悪かったんです。」


僕は椅子に縛られたまま頭を下げる。

きっと殴られる。

でもそれは甘んじて受け入れよう。

その後、虎太郎と虎次郎にリンチされるかもしれない。それも受け入れよう。


それが僕の行いに対する罰だから。


ギュッと目をつぶると、ガチャガチャと道具箱の中を漁るような音が聞こえて来た。


薄目を開けると、若葉さんの手には盆栽用の小さな剪定鋏が握られている様子が見えた。


「つまり…一郎の暴れん坊の下半身が悪いってことだろ?そこを切っちゃえば、一郎も性欲に振り回されることはなくなるわけだ。」


完全に正気を失った目をした彼女は、シャキンッと1回鋏を動かし、僕の方に近づいて来る。


僕は恐れおののき、後ずさろうとしたけど、椅子に縛られていて動けない。

彼女の顔には狂気の色が見える。若葉さんは頭に血が昇ったら手が付けられなくなる。


以前、虎太郎と虎次郎が酔っ払って若葉さんの花壇を荒らした時もあんな表情をしていた。


その時、若葉さんは、怒りのあまり高枝用の大きな鋏を持って二人を追いかけ回し、二人が交番に逃げ込んでも構わず大鋏を振り回し、警察官も巻き込んで大騒ぎになった。


「た、助けて~!」


あらん限りの大声で叫んだけど、誰か助けに来てくれるとは思えない。むしろ若葉さんの怒りの火に油を注いでしまったようだ。ますます表情が険しくなった。


「観念しろ!一郎!」


若葉さんは僕のズボンに手をかけ、力任せに引きずりおろし、僕の分身を左手で掴んだ。

僕は観念してギュッと目をつぶる。

さようなら。君はよく働いてくれたね。


ドンドンッ!!バンッ!!


その時、物置小屋の扉が強くたたかれ、次いで外から勢いよく蹴り破られた。


僕は片目を開けてそちらを見ると、肩で息をするスーツ姿のあまつかさんがいた。


「おめえ!あの女だな!よくここに面を出せたな!!」


若葉さんは振り返り、あまつかさんを鋭く睨みつける。


あまつかさんは一瞬ひるんだ様子を見せたけど、目をぎゅっと閉じながら叫び声をあげた。


「そ…それは、私の家畜じゃけぇ!!」


「ああん?」


「私の…家畜を…勝手に去勢するなんて許さんけぇ!」


両手で拳を握り、ブルブルと震えながら声を絞っている。


「あ、あまつかさん。逃げてください。こうなると若葉さんは手を付けられません。」


「おめえは黙ってろよ!そうだよ。あの女にも落とし前付けてもらわないと。おかしいと思ったんだ。あんなに私のことを好きで愛情を行動で示してくれていた一郎が、実は私を愛してなかったなんて嘘を言い出すなんて。きっとあの女の入れ知恵だな!!」


若葉さんは僕の頭に肘打ちを一発入れると、鋏を持ったまま、あまつかさんの方へ大股で歩み寄る。あまつかさんは、1、2歩だけ後ずさったけど、逆にそのまま若葉さんの方へ体当たりし、虚を衝かれた若葉さんは少しバランスを崩した。


「てめえ!!」


「一郎は私が守るんじゃ!守らなきゃいけないんじゃ!!」


気づけば、あまつかさんは僕の前で両手を開き、通せんぼしていた。まるで僕を守るみたいに。


「どけよ!こら!!」


若葉さんが、あまつかさんにつかみかかる。

パワーは普段から力仕事をしている若葉さんの方が圧倒的に強いはずだ。けど、あまつかさんも必死に抵抗している。


「このやろ~っ!」


若葉さんは、あまつかさんの顔に鋏の柄を振り降ろし、ガツッという大きな音がした。


「こいつは私が守るんじゃ。だって、一生分の色欲を私に渡すって契約したから!!」


あまつかさんがそう叫ぶと、若葉さんは少し我に返った表情になり、手を下ろした。


「それって…、一郎と結婚するってこと?」


「そうじゃない…。」


「そうです!!」


あまつかさんの声を遮り、僕はあらん限りの大声を張り上げた。


「もう、あまつかさんと、一生一緒にいるって契約しました。つまり婚約しました。さっきはわけわからないこと言ってすみません。本当は結婚するんです。だから若葉さんと結婚できません!」


「はっ?なんだよそれ…。結局、私はフラれたってこと…?」


若葉さんは呆然とした表情になりフラフラと揺れ始めた。


「ごめんなさい!」


僕が頭を下げると、なぜかあまつかさんも頭を下げてくれた。


「他の人と結婚しちゃうんだ…そっか、そうなんだ…。」


若葉さんはそうつぶやきながら、よろよろと歩き、物置小屋から出て行った。


僕たちは、呆然とそれを見送る。


若葉さんが物置小屋から出て行った後、どれくらい経っただろう。

ぼんやり立ち尽くしていたあまつかさんが僕の方を振り返った。


「大丈夫だった?」


その顔は優しく微笑んでいたけど、眉の横に傷口が開き、血が顎まで垂れ、地面にポタポタと落ちていた。

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