プロダクトX~開拓者たち~「駆けろ!ロボットフルマラソン」

技術コモン

1. 技術的難題

42.195kmという条件

42.195kmは、距離ではなかった。

ロボットフルマラソンの主催委員会が世界に差し出したのは、勝敗でも速度でもない。

条件だった。


最初に決められたのは距離だけだった。

制限時間も順位表も、まだ存在しない段階で、その数字だけが机の上に置かれた。


42.195km。


人間にとってはマラソンの距離だ。

だが主催者にとって、それは運動能力の象徴ではなかった。


止まらずに判断を更新し続ける時間を、距離という形に押し込めた数字だった。


会議室には装飾がなかった。国旗も企業ロゴもない。

机の上に並んでいるのは、規定案、監査手順、公開記録の雛形だけだ。


日本接続担当者、朝倉蒼太は紙束の端を揃え、淡々と言った。


「距離は42.195kmにします」


理由を問う声が上がるのは予想していた。

だが彼は顔を上げなかった。


「同じ動作を続けるという意味で、最も象徴的な数値です」


朝倉は長年、安全規格を作ってきた人物だった。

止める条件を文章で定義し、現場に渡す仕事。

異常が出たら止める。安全とは、そういうものだと教えられてきた。


だが現実は違った。

災害現場、工場ライン、医療の最前線。

止まれない状況は増える一方だった。


最後は必ず、同じ言葉で片付けられる。


「人が判断する」


その一文を、朝倉は削りたかった。


安全とは、止めることではない。

条件を明示することだ。

止まれないなら、止まれない前提で判断させるしかない。


競技監査責任者のマルティン・シュヴァルツが規定案を読み上げる。

声に感情はない。


「外部操作、通信介入は禁止。途中修復、再起動、再配置は認めない」


その瞬間、この大会はイベントではなくなった。

実験でもない。逃げ場のない条件提示だった。


止まれない。やり直せない。例外はない。


シュヴァルツは続けた。

「救済措置は設けません。起きたことだけを、記録します」


宇宙探査で培われた姿勢だった。

途中介入不可。失敗前提設計。

例外は設計を甘やかす。


運営統括のリサ・M・オコナーは、別の資料を脇に置いた。

実況案と演出案だ。


「称賛は不要です」


彼女ははっきり言った。

「距離と停止理由と時刻だけを公開します」


盛り上がらない。感動もない。

だが、それでいい。


これは成功談を集める大会ではない。

理解のための公開だ。

止まった理由を、言い訳なしで残すための装置だった。


朝倉は条文を追加する。

二足歩行限定。車輪は禁止。人型として認識できない構造は不可。


過酷さの演出ではない。問いの純度を守るためだ。


形を変えれば、問いが変質する。

外部に逃げれば、判断は測れない。


会議の終盤、シュヴァルツが一度だけ顔を上げた。

「止まったら、終わりです」


朝倉は頷く。

「止まれる設計が、社会で何を生むかを見ます」


書類は静かにまとまった。

42.195kmという数字は、距離の仮面を被った問いだった。


ロボットにとって、長距離は部品の問題に見える。

関節。電源。摩耗。


だが本質はそこではない。


歩くたびにセンサーはずれる。

床の摩擦は変わる。

熱で構造は伸び縮みする。


止まって測り直す時間はない。


動きながら、自分のズレを測り直し続ける。

オンラインキャリブレーション。

それ自体が走行になる。


人間はそれを無意識にやっている。

違和感を捨て、歩幅を変え、姿勢を崩しながら帳尻を合わせる。


機械はどこまでそれを続けられるのか。


42.195kmは、その問いを一つの数字に圧縮した。

主催者は条件だけを固定し、世界に差し出した。


結果は後に記録として並ぶ。

止まった理由と、時刻と、距離だけが残る。


競技は、ここに始まった。

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