変わらない日々
明くる日、私は昨日と同じ場所で彼と再会した。木立の間から差し込む光は柔らかく、足元の土にはまだ湿り気が残っている。森は静かで昨日と何一つ変わっていないように見えた。
「また会ったね、ウィル」
木にもたれかかったまま、彼はちらりとこちらを見る。
「今日もお婆さんのお見舞いか?」
私は少しだけ頬を緩めて、頷いた。
「そうだよ、今日もお見舞い」
「そうか」
短い返事。それでも、彼はその場を離れなかった。
「ねぇ、今日も送っていってよ」
にこやかに言うと、ウィルは鼻を鳴らす。
「昨日、あんな事があったのにか?」
「関係ないよ。昨日の事はあなたの優しさだから。私はあなたのことを嫌いにならないし、あなたは私のことを思いやる程度には私のことが好き。はい、お話終わり」
強引に言い切ると、彼は困ったように苦笑した。
「……そうだな。昨日は悪かった。あんな強引な真似をして。都合がいいのは分かっているが、申し訳なかった」
そう言って、彼は頭を下げる。
「ち、違うの。そんな、頭を上げて」
私は慌てて胸の前で手を振った。
「大丈夫、大丈夫だから。ほら、手首にあざだって無いよ。ね?」
彼は一瞬、私の手首に視線を落とす。
「……まぁ、君のことが好きなわけじゃないがな」
ぼそりとした一言。
私は逃さず拾った。
「ふふっ。それはどうかな」
少し挑むように笑うと、彼は居心地悪そうに視線を逸らした。
それから私たちは、毎日のように森を歩いた。
朝の森では、まだ人を恐れることを知らないリスを追いかけて息を切らし、私が転びそうになるたびにウィルは呆れた顔で手を差し出した。昼には街の外れまで足を延ばし、石畳の隙間に咲く小さな花を見つけては、名前も知らないまま二人で眺めた。
森の奥にある湖では、私が先に水を掬って彼にかけ、仕返しだとばかりに容赦なく水を浴びせられた。冷たい、と笑って、走って、最後には二人とも息が上がって、その場に座り込んだ。
言葉がなくても平気な時間が増えていった。並んで歩き、同じものを見て、同じ速度で呼吸をする。それだけで、胸の奥が静かに満たされていくのを私は知ってしまった。
そんな穏やかな日々の中で、考えるのは彼のことばかりだった。
彼は優しい。彼は賢い。彼は、私の話を面倒くさそうに聞きながらも、決して途中で遮ったりはしない。森のことも、道のことも、動物のこともよく知っている。
彼は……彼は……。
ふと、歩きながら思う。彼は本当は、何をしているんだろう。
あの日、ウィルは自分は絵描きだと言っていた。けれど、私は彼が絵を描いているところを一度も見たことがなかった。それどころか、画材道具を持っているところさえ、見た覚えがない。
おかしい、と断じるほどのことではない。ただ、言葉と現実のあいだに、小さなずれがある。それだけのこと。
笑い声の合間や、並んで歩く沈黙の中で、そのずれは、影のように静かについて回っていた。
だからある日、私は本当に何気ないふりをして、口にしたのだ。
「ねぇ、ウィル。今度、あなたが描いた絵を見せてよ」
軽い調子で言ったつもりだった。
本当に、ただの思いつきみたいに。そうでなければ、彼はきっと、またはぐらかすと思ったから。
ウィルは足を止めた。
振り返りはしない。木々の間から差し込む光の中で、彼の背中だけが見えている。
「あぁ……そうだな」
すぐには言葉が続かなかった。
沈黙が一拍、森に落ちる。その間に、私は自分の胸が不安に軋むのを感じていた。
「最近は観察ばかりで、絵を描けてなかった」
理由としては、十分すぎるほど自然だった。
けれど、彼の声には、いつもの気怠さとは違う硬さが混じっている。
「しばらく、ここには来ない」
その言葉は、私の足元の地面を抜き取るみたいだった。
――どうして?
問いは喉まで来ていたのに、音にならない。
「今日は、ここまででいいか?」
彼はようやくこちらを振り返る。
その目は、私を見ているのに、どこか遠くを見ているようだった。
「えっ……」
一歩、無意識に踏み出していた。
「それは、いいけど……ちょっと、待って」
声が、思ったよりも弱く震える。
伸ばした手は、彼の背中に触れる前に止まってしまった。
ウィルは何も言わない。
ただ、ほんの一瞬だけ視線を逸らして、それから踵を返した。
「またな」
それだけ言い残して、彼は森の奥へと歩いていく。
私は、その背中が木々に紛れて見えなくなるまで、動けずに立ち尽くしていた。
胸の奥に残ったのは、理由の分からない不安と、言葉にしなかった問い。
追いかけるべきだったのかもしれない。でも、なぜか――追いかけてはいけない気がした。
それから私は待ち続けた。風の日も雨の日も、来る日も来る日も、同じ場所で彼を待ち続けた。森を抜ける風の音に耳を澄まし、木々の影が揺れるたびに振り返る。足音が聞こえた気がして胸が跳ね、違ったと分かっては小さく息を吐く。そんなことを、何度も何度も繰り返した。
気づけば、彼と過ごした日々は私の中で当たり前になっていた。森を歩き、言葉を交わし、笑い合う時間が、これからも変わらず続いていくものだと、疑いもしなかったのだ。失ってから初めて、それがどれほど大切なものだったのかを思い知る。あまりにも遅すぎると分かっていながら、それでも思わずにはいられなかった。
ある朝、目を覚ますと白銀の世界が広がっていた。冬が来て、この森にも初雪が降ったのだ。枝に積もった雪は音を吸い込み、森はいつもよりずっと静かだった。私はいつもの場所に立ち、彼が来るはずのない方向を見つめた。足元に残る私の足跡は、ほどなくして雪に埋もれて消えていく。
「来年は君と見られるかな?」誰に向けるでもなく、知らず呟きが零れた。
返事はなく、冷たい空気だけが頬を撫でていった。
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