第16話
16、共同作業
あれから2人の共同作業が始まった。正確には3人である。山門で倒れていた大心を助けてくれた伊藤末吉さんも午前中の作業には毎日来てくれた。人数が増えた分いろいろな道具類も揃うようになってきた。たがねも末吉さんが何種類か準備してくれて、線の太さも変えられるようになってきた。国吉青年は次の仏様を彫る予定の岩肌をたわしで磨く作業をしてくれている。岩肌には苔がむしてるので、そのままでは下絵を描くことが出来ず、彼が磨いてくれたことは作業の効率が高まった。
午後の托鉢には国吉君は参加せず、永良寺のお寺の参拝や僧侶の話を聞いて禅宗を理解することに費やしたようだった。夕方には永良寺門前駅の軒下に集まり托鉢で頂いた米や野菜を使って食事を作り、2人で野宿生活を続けた。
細かく刻んだ野菜を入れただけのお粥を2人で啜っているとき、国吉君が大心に向かって
「大心さん、磨崖仏を彫ることであなたの罪の意識は薄れていくんですか。」
親の仇として大心を見ていた国吉君の目は既に大きく変化があった。憎しみの感情は薄れ、冷静に第3者として若い修行僧の姿を観察していた。国吉の質問に大心は
「難しい問題だな。罪の意識を薄れさせるために仏を彫ってるわけではないよ。罪の意識は僕の中にあるもので、僕自身の罪の意識の解放は僕がすることではなく、周りの人たちから評価されて得るものであり、それまでには長い年月がかかります。僕に出来ることは、僕が犯してしまった罪で被害を受けた被害者の皆さんに、私の謝罪の気持ちを表す事しか出来ないんです。私が大学で学んだ西田幾多郎教授の善の研究では、善とは純粋経験の中での究極の自己実現であるとしています。僕にとっての善の行為は自己と他者の融和の中での自己実現であり、仏を彫るという行為は、誰かほかの人のためにやっているのではなく、自分の存在意義を自分自身で確かめる行為であり、自分の中での満足かもしれません。そういう意味では罪の意識を薄れさせることにつながるのかもしれません。しかし大きな罪を犯してしまった僕が、この社会の中でわずかにでも存在した意義を自分自身で確認したかったんだと思います。善という行為のためにやっているとも思いませんが、善と禅はある意味、大変つながりが深いと感じています。」
と難解な表現で自分の行動を自己肯定している。
国吉君はその回答にわかったようなわからないような感じで理解を伴わなかったが、西田哲学は当時流行であった。倫理観と宗教観を総括的に理解しようという哲学で、西田教授が文化勲章を受けたのは1940年、昭和15年の事だった。
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