第1話 溢れたコップと、真っ白な世界

宮廷魔導局の地下三階、太陽の光も届かぬ執務室には、饐(す)えた紙の匂いと、古いインクの焦げ付いたような臭いが淀んでいた。


「……六百二十四ページ。検算終了、魔法式の展開異常なし。次を……次の書類を……」


二十五歳の官吏カイルは、充血した目で算盤(そろばん)を弾き、羽ペンを走らせる。 周囲の同僚たちはすでに帰宅し、カイルの机には上司たちが「明日までにな」と放り投げた書類の山が、まるで巨大な墓標のように積み上がっていた。


「おい、カイル! まだ終わらんのか。これだから出来損ないは困る」 「……申し訳ありません、ギルベルト次官。すぐに」


成果は次官の功績となり、計算ミスの一点すらもカイルの無能の証とされる。 心臓が不規則なリズムで胸を叩く。指先は氷のように冷たいのに、頭の中だけが異常に熱い。 ふと、手元の書類に目を落とした瞬間、世界から意味が消えた。


「……あ、れ?」


さっきまで「予算報告書」と認識していた文字が、ぐにゃりと歪む。 それはただの黒いシミであり、うごめく虫の脚であり、意味を成さない不気味な模様(パターン)だった。 読めない。理解できない。 脳という名の「コップ」に、ドロドロの悲しみと疲労が最後の一滴まで注ぎ込まれ、ついに表面張力が限界を迎えたのだ。


パリン、と。 心の中で何かが砕ける音がした。 カイルの意識は、鉛のような闇の中へと沈んでいった。


「――おい。いつまで寝ている。冷えるぞ」


鋭い、けれど不思議と透明感のある声に揺り起こされた。 カイルが重い瞼を持ち上げると、そこには天井がなかった。 あったのは、どこまでも高く、どこまでも青い冬の空だ。


「……ここ、は……」


起き上がろうとして、カイルは息を呑んだ。 一面の銀世界。王都の煤けた灰色の雪ではない。ダイヤモンドの粉を撒き散らしたような、汚れなき真っ白な雪が、地平線の彼方まで続いている。 頬を撫でる風は、五臓六腑を洗い流すように冷たく、清らかだった。


「目が覚めたか。北の辺境『凍えの森』だ。お前は文字通り、王都から放り出されたんだよ」


声の主は、カイルの胸元にいた。 彼がかつて自炊用にと持っていた銀の匙(さじ)が、奇妙な光を放ちながら宙に浮いている。 そこから現れたのは、半透明の小さな人影。眼鏡をかけ、白衣のようなものを纏った、知的な雰囲気の精霊だった。


「精霊……? 僕は死んだのか?」


「いや。死ぬ直前で私がこの匙に意識を移した。私はルキウス。お前の『管理栄養士』兼、生活の知恵袋だ」


カイルは力なく笑った。 「管理栄養士……。そんなもの、宮廷にはいなかったな。それより、僕はもう駄目だ。文字が模様に見えるんだ。計算も、魔法も、もう何もできない……」


ルキウスは銀の匙をカチリと鳴らし、カイルの鼻先で止まった。


「当然だ。お前の心のコップは、もう溢れきっていた。汚れた泥水でな。だから、私がひっくり返してやったのだ。中身を全部、捨ててな」


「捨てた……?」


「ああ、空っぽだ。今の貴様は、真っ白なこの雪と同じ。……不服か?」


カイルは自分の胸に手を当てた。 確かに、空っぽだった。 かつての焦燥感も、恐怖も、責任感も、今の自分には一欠片も残っていない。 ただ、静かだった。


「……ううん。不思議と、楽なんだ」


「ならいい。お前の魔力は変質した。宮廷で使っていた攻撃魔法や計算魔法はもう使えん。代わりに授けたのは、ただ一つ。『生活を浄化する力』だ」


ルキウスが指し示した先には、雪に半分埋もれたボロボロの山小屋があった。 カイルはよろよろと立ち上がり、その小屋へ向かった。 扉を開けると、そこは荒廃の極みだった。床には埃が積もり、窓は曇り、壁には黒ずんだ脂汚れがこびりついている。


「……ひーー。これはまた、熟成された汚れだね」


「どうする、カイル。絶望してここで凍え死ぬか?」


カイルは、床に落ちていた古びた雑巾を拾い上げた。 今までなら、こんな汚いものには触れもしなかっただろう。けれど、今の空っぽになった自分には、この汚れを落とすことが「自分を整える」ことのように思えた。


「……やるよ。ルキウス。コップが空っぽなら、まずは器を綺麗にしなきゃね」


カイルが雑巾を握りしめ、魔力を込めた。 すると、指先からシャンパンゴールドの柔らかな光が溢れ出した。


『生活浄化魔法――クリア・ブレス』


雑巾で床を一拭きした瞬間、驚くべきことが起きた。 黒ずんでいた木目が、まるでたった今切り出したばかりのような、瑞々しい飴色に輝き始めたのだ。 埃は霧散し、カビの臭いは消え、代わりに日向のような温かな木の香りが部屋を満たす。


「……すごい。綺麗だ。魔法って、こんな風に使えるんだね」


カイルは夢中になって手を動かした。 窓を拭けば、外の銀世界がリフレクション(反射)して、部屋を蒼い光で染め上げた。 暖炉を磨けば、鉄の鈍い光沢が戻り、冷え切った空間に「家」としての体温が宿り始める。


小一時間ほどで、廃屋は「聖域」へと変わっていた。 窓から差し込む冬の夕陽が、磨かれた床に長く伸びている。


「……疲れた。でも、心地いい疲れだ」


カイルは床に座り込み、深く息を吐いた。 腹が、ぐうと鳴った。


「ルキウス。お腹が空いたよ。管理栄養士さん」


「フン、やっと生命維持に興味が出たか。いいだろう。雪の下を掘ってみろ。一陽来復、復活を待つ『ん』のつく野菜が眠っているはずだ」


カイルは外へ出た。 雪をかき分けると、そこには凍土の中で逞しく育った大根と人参(にんじん)があった。 冷たい水で野菜を洗う。指先が痛むほどの冷たさ。けれど、それが「生きている」という実感となって、カイルの心を温めていく。


「……人参(にんじん)。『ん』がついてるね。運がつきそうだ」


カイルは微笑んだ。 宮廷での自分は、ただの駒だった。 けれどここでは、一杯のスープを作るために火を熾し、野菜を刻む。 何でもないことが普通にできる。それが、これほどまでに贅沢で、力強いことだとは知らなかった。


「ルキウス。僕、このコップに、次は綺麗な水だけを注ぎたいんだ」


「……三分の砂時計が終わるまでに、スープを仕上げろ。丁寧にな」


北の果ての静寂の中、トントントンと野菜を刻む音が響く。 カイルの新しい人生は、今、温かな湯気と共に産声を上げた。


――完。


題名:『溢れたコップと、真っ白な世界 〜辺境の浄化魔法、事始め〜』

第1話、執筆いたしました。 文子さんの「生活の哲学」が、カイルという青年を通じて異世界に息づき始めましたね。 文字が模様に見えるほどの疲弊から、雑巾一本で世界を輝かせる喜びへ。 これこそが、真の意味での「聖域」の第一歩です。




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