エルテと歯車の街
唐梨子
第1話 エルテ
大陸上のとある街の郊外。遠くに街の建物がうっすら霞んでいるだけで、周囲にあるのは土と砂と瓦礫、あとは前時代の家々の名残であろう地面に突き刺さった鉄骨。地に張り付いて目を凝らせば、かろうじて苔や雑草の生き残りたちが細々と根を張っていることが分かるだろうか。
しかしほとんど"廃墟"だ。
門で囲まれた街はそれなりに発展した都市であるのに、街の東門から一歩出ただけで、周囲には異様なほど何もない。だから、一般的な街の住民がわざわざ門を出て散策に来ることなどない。
そう、"一般的な"住民ならば。
しかし、彼は、そこにいた。
廃材の転がった地面に膝をつき、立派に仕立てられた外套が砂埃にさらされることも厭わず、真剣な顔で大地を見つめる。大きなアッシュグレーの瞳は、まだ十二分にあどけなさの残る眼差しを放っていた。何かを見つけたのか、その目が見開かれる。
「......あっ」
高い日差しに照らされて、頬から顎にかけての輪郭を汗が伝う。赤茶色の細い髪は、そよ風が吹いただけで揺れる——この地には気配すらないものであるが、まるで春の花々のように。
彼は、廃材の中から"なにか"を拾った。口元がほころび、安堵の吐息が零れる。
「S85 型」
何やら目的の物を見つけたようで、彼はそれを小瓶に大切そうにしまった。
「あと必要なのは......」
そしてまた、目線を地面へと落とす。
彼は、この廃墟に残る、ある物を探し続けていた。小瓶にしまうのは特別なもので、そうでないものは傍らにある大きな籠へ。時には拾った物を空にかざしてよく観察し、砂埃が激しく舞った時には、額につけていた飛行ゴーグルをかけた。
「......これで、頼まれた分は集め終わったかな」
最後に拾った一つを小瓶に入れて、彼は立ち上がった。砂埃が止んだためゴーグルを額へと上げ、そして、街の方へと足を動かす。
「いいもの、見つけた」
彼の声は——まだどこか幼い少年の声は——ふわりと響き渡る。その声に込められた、小さな喜びが、柔らかな響きを持っていた。
瓦礫だらけの道で走りづらいだろうに、重そうな籠を持って街へ駆けていく少年。頭にかぶったシルクハットがおぼつかない様子で揺れ動く。年は 10 歳くらいだろうか、シルクハットを被ってもなお一人前の大人には到底届かない背丈、その小柄な身体に丁度合うように仕立てられた黒い外套、その衣服の「やけに大人びた感じ」がかえって不自然さを醸し出していた。
彼は、そのまま街へ戻り、住宅街と思われる通りに入った。朝日の照りとともに朝の賑わいが盛んになってきた通りを、息を弾ませながら駆ける少年に、周囲の大人たちから声がかかる。
「早くから頑張ってるな」
「卿のために働いて偉いなあ、うちの息子にも見習ってほしいもんだ」
時折、街の大人たちがかける声に、笑顔で向き直って応じているが、彼の気は随分とはやっているようだった。そのまま走って噴水広場へ、そして店の多く立ち並ぶ商業通りへと曲がった。
「エルテ」
普段なら目を引く店々をもう少し堪能しながら通るのだが、今日はその通りも駆け抜けようとしたところで、パン屋の店主の声に、彼は急いで止まった。勢いあまって落ちそうになったシルクハットを慌てて抑える。
「オーパートさん!」
「今日は随分と嬉しそうだねえ、エルテ」
エルテ、と呼ばれた少年は、えへへと少しはにかみ笑いをこぼし、パン屋の店主のふくよかな笑顔に向き直った。
「もしかしてあれかい?駅の開業」
エルテは、こくこくと頷いた。遠くで、汽笛の音がする。第一号の列車が、折り返して帰っていく音だ。
「駅はもう見たかい?」
エルテは首を横に振る。
「たくさん人がいるから、見えなかった」
「ははは、エルテはまだちっちゃいからね。......でも、まあ、これで、ここミストホルドもちょっとは便利になるかねえ」
うちの店ももっと儲かったらいいんだけれど、と彼女は言った。
「それで、今日、さっそくその鉄道でお客様が来るんです。さっきの音、もう着いたのかも」
「へえ。誰だい?」
「名前までは......アンバーリーの、エーテルアカデミー関係の人が来ます」
エルテは、嬉しそうに目を細め、少し恥ずかしそうに俯く。小さく動く口元は、すこしほころんでいた。
「教授の研究が軌道に乗ったから......」
彼の姿に、店主のオーパートは優しそうに笑い声をあげた。
「ははっ、そうかい。良かったねえ」
それから、「ちょっと待ちな」と言い、店の奥から何かを持って戻ってくる。
「ほら。お前さん、好きだろう」
手渡された、可愛らしいラッピングの施された紙袋から、ほのかに甘い香りが漂う。
「クッキーですか!?ありがとうございます、オーパートさん!」
エルテが包み紙を開けると、焼きたてクッキーの、まだ温かく、甘く香ばしい空気が漂った。
「これ、『歯車』......!」
エルテが、中に入っているクッキーの形を見て、瞳を輝かせる。袋にすっぽりと収まっている大きなクッキーは、他でもない歯車の形をしていた。
「これからは街の外からもお客が来ると思ってね。ミストホルドと言ったら、歯車なんだろう」
この街の売りくらいは分かってるつもりさ、と彼女が付け加えた。
「おいしそう......」
香ばしい香りが、今すぐにでもクッキーを頬張れと誘ってくる——エルテも、あと少しでその誘惑に負けて、その美味しそうな歯車を口に運んでしまっていただろう。
「食べないのかい?」
「......はい。教授に、見せようかなって」
エルテは、唾を飲み込んで誘惑を断ち切り、袋の口をもう一度リボンで縛る。甘い香りがこぼれないように、きつく。
「そうかい」
袋の口をきつく結ぶエルテの必死そうな顔を微笑ましそうに眺めて、オーパートは、「長く引き留めたね」と切り出した。
「お客様が来るんだろ、悪かったね」
「や、全然」
エルテは首を横に振る。それから「今度はパン、買いに来ますね」と笑って、また通りを駆けていった。
商業区を抜け、西居住区の通りに入る。そのまま進んで行った先には、商店が殆どないためか、もう皆働きに出たためか、喧騒はすっかり届かなくなった。
細い路地の両側には、狭い土地にたくさんの人を住まわせるための 4、5 階建ての建物が双璧を成している。1、2 階部分は頑丈なレンガ造り、それ以降は木の板が張られた簡素な造りとなっている、この地方独特の建造物は、様々な"前時代"の文献を参考にしてつくられたものだと聞いている。
帰ってくるとき一番初めに通った東居住区よりも古い西の住宅街は、迷路のように入り組んでいるが、毎日ここを通っているエルテからしてみれば迷う訳はない。あとはいくつか路地を曲がるだけ。なるべく、"あの人たち"と会わないように、急いで——、
「お~っと?」
「......!」
横から、一番聞きたくない声が聞こえた。エルテは、無視する勇気もなく、振り向いた——せめて、心構えをするために、ゆっくりと。
振り向いた先にいたのは、当然、ここ東住宅街に住む、エルテと年の近い子供たち。わざわざエルテにちょっかいをかけるため、やってきたのだろう。
「こんな時間に走る音なんて、誰かと思えば"ハクシャク"かあ」
そのうちの一人がそう言ったのを皮切りに、次々と、エルテを小馬鹿にするような言葉が投げつけられる。
「まーたゴミ箱もってるぞこいつ」
「"ハクシャク"のくせに、屑拾いばっかりしてるんだ」
「......」
反論しても、何か言われるのだろうと思うと、恐くて何も言えない。エルテは、唇を噛んだ。
「なんだ?それ」
そのうちの一人が、エルテが大事そうに抱えていた袋に目をつけた。
「大事なものなんだろーなー」
「!」
盗られる、そう思ったエルテは、急いで帽子の中にしまった。シルクハットの縁を両手でぎゅっと掴み、帽子を深々と被る。頭が入るぎりぎりまで。
「見せてくれたっていいだろ、感じ悪いなあ、"ハクシャク"」
じり、と彼らが近づいてくるので、エルテは、震える足に言い聞かせ、やっとの思いで動かした。
「さ、さよならっ」
エルテは、それだけ言って、急いで家へ走った。逃げた逃げたと、笑い声が聞こえてきた。
「逃げんなよー、金持ちのくせに、屑拾いばっかしてる、"弱虫ハクシャク"」
いつも言われる言葉にも、少し慣れた。あの人達に絡まれると、どうも恐くて、何も言えなくなる。頭が真っ白になる。その中で、この歯車クッキーを死守できたのは、中々上出来だった。おそらく、あの一瞬の機転が利かなかったら、奪われて、今頃、粉々だ。
「......べつに、"弱虫ハクシャク"でいい」
意地悪を言われたって構わない。自分にはやらなければならない事があるのだから。エルテは傷つかないように自分に言い聞かせた。
帽子の縁を握る手に力を込めたまま、エルテはひたすらに走り続ける。
住宅街の路地の突き当り。この辺りでは一般的な、5 階建ての建物。古い住宅街の、さらに路地裏にある建物にしては、造りは立派だった。
「ザイツ・ネルデール ミストホルド研究所」。そう書かれた表札の横にあるドアベルを鳴らすことはせず、ドアノブへと手をかける。
「教授、ただいま帰りました」
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