あなたは常夏の国で冬を待つ

未来屋 環

その冬は、ほんのりと暖かい。

「――今年の冬も、あっという間に終わっちゃうなぁ」


 薄手のコートに身を包んだあなたがぽつりとつぶやくのを、僕はただ見つめていた。

 膝下まであるスカートからは白い素肌がのぞいている。

 12月という時期に不似合いな黒いサンダルが、その足元を彩っていた。


 ふとあなたはこちらを振り向く。

 寂しげな色に染まったその微笑みを見ながら、僕はあなたと初めて逢った日のことを思い出していた。



 『あなたは常夏とこなつの国で冬を待つ』/未来屋みくりや たまき



 日本から夜行便で6時間――飛行機から降りた瞬間、形容しがたい異国の香りが全身にまとわり付く。

 4月とは思えない高い温度と湿度に、いやおうにも自分が東南アジアに来たことを思い知らされた。


 そう、ここはタイの首都、バンコク。

 日系企業が多く進出しているこの地で、僕は1年間ローカルスタッフに新製品の設計指導をするよう言い渡されている。



 Wi-Fiをつないでメールボックスをチェックすると、日本人の上司からお詫びの連絡が入っていた。

 空港まで上司が迎えに来てくれる予定になっていたが、急遽仕事の都合で工場に向かうことになったらしい。


 仕方なく慣れない英語とジェスチャーを駆使し、何とか指定されたホテルまでタクシーで辿り着いた。

 生まれてこのかた日本を出たことがなかった僕にとっては、これだけでもかなりの大冒険だ。


 そもそも僕はこの国のことをろくに知らない。

 タクシーの中から街中を眺めた時には、想像よりも都会であることに驚いた。


 しかしその新鮮な驚きは、そこかしこで電線が垂れ下がり、二人乗りでノーヘルのバイクが道路を埋め尽くす情景であっという間に上書きされる。

 狂犬病を含め複数のワクチンは打ってきたものの、道端で寝転んでいる多くの犬の姿にも不安感が煽られた。


 そうなると数珠じゅずつなぎでネガティブな記憶が次々とよみがえってくる。

 一度同期の女子が企画した飲み会でエスニック料理を食べに行ったが、正直あまり自分の好みではなかった。

 甘いんだか酸っぱいんだかよくわからない味、やたら辛いソース、そして好きになれそうもないパクチーの香り。

 職場の同期や先輩たちには今回のタイ行きを羨ましがられたが、それなら今すぐにでも代わってほしいと未練がましく思う自分がいる。


 必死の思いでチェックインを終え、部屋に入るなり汗だくの革靴を脱ぎ捨ててベッドに倒れ込んだ。

 飛行機の中ではろくに眠ることができなかった。

 時刻はまだ7:30、住居探しの業者との約束は9:30だ。


 少し仮眠を取ろうと、僕は引き摺り込まれるように眠りに落ちていき――



 ――やがてけたたましい電話の音で即座に現実に引き戻される。

 慌てて部屋の時計を見ると、時刻は9:50を回っていた。


 完全なる寝過ごしにぐうのも出ない。

 やってしまったものは仕方がないと、僕は鳴り続ける部屋の電話を冷静に取って、すぐに向かう旨を伝えた。


 明け方よりも数段レベルアップした暑さに物怖ものおじしつつも、先方に失礼のないようジャケットを羽織り、最低限の荷物を持って部屋を出る。

 本当に会社指定なのか不安の残る古びたホテルは小さく、ロビーまでの距離は遠くない。

 それでも擦れ違うのは現地の人々ばかりで、改めて自分が外国にいることを実感する。


 ロビーに到着するがそれらしき人影はなく、フロントで電話をしてきたスタッフに話しかけようか迷っていると――背後から、凛とした声が響いた。



「恐れ入りますが、遠野とおの様でいらっしゃいますか?」



 半日振りに聴く日本語だった。

 振り返ると、そこには長い黒髪を一本に束ね、明るい色のジャケットを上品に着こなした女性が穏やかな笑顔で立っている。


 ――この国に降り立ってから、自分以外の日本人に初めて逢った。

 その事実だけで、僕は図らずも少し感動してしまった。


 雛鳥は生まれて初めて見たものを慕うというが、僕にも同様の性質があったとは。

 30年近く生きてきて初めて知る事実に、我ながら驚く。


 遅刻を丁重ていちょうに詫びると、彼女は「お気になさらないでください。夜行便だと疲れますよね」と眉を下げながら笑った。

 そして、笑みを残しながらもすっと表情を引き締め、名刺を差し出す。


「担当の五十嵐いがらしと申します。本日はよろしくお願いいたします」



 ***



 五十嵐さんはてきぱきと候補物件を案内してくれた。

 元々1年後には帰る予定だ。

 そこまで住む場所にこだわりもない。


 スーパーと日本食屋が近くにあり、小さなジムのついたコンドミニアムをこの1年間のねぐらにすることを決めると、彼女は少しだけ驚いたように目を見開いた。

 あくまで口は笑ったままであるところにプロ意識を感じる。


「こちらですと遠野様の会社の方はいらっしゃいませんが、よろしいですか?」

「特に問題ありません。通勤用のバンは隣のコンドミニアムに住んでいる上司の所に来るので、そこまで歩けばいいだけの話です」


 実は上司からは同じ建物に住むことを勧められていた――が、冗談じゃない。

 通勤車の関係で同じ通りに住むことは致し方ないが、プライベートまで侵食されるのはまっぴらだ。


 僕の回答から滲み出る意図を感じ取ったのか、五十嵐さんは「承知いたしました」とだけ言って、その会話を締めくくる。

 用意された申込書にサインをして、このあとの契約手続きについての説明を受けた。


 ひとまず今日のメインの仕事は終わりだ。

 あとはホテルで待機し、戻ってきた上司と合流後に携帯電話の契約と日用品の買い出しに行くことになっている。

 人心地ひとごこちが付いたせいか、僕の胃が途端とたんに空腹を主張し始めた。


 時計を見ると時刻は11時。

 少し昼飯には早いが、何か食べたい。

 しかし、どの店に入れば良いのか見当も付かない――そう思い悩んでいると、五十嵐さんから「遠野様」と声をかけられる。


「まだ時間もありますし、よろしければこの周辺をご案内いたしましょうか? ご迷惑でなければ、お昼ごはんもご一緒に」


 願ったり叶ったりの提案に、僕が即座に「是非お願いします」と答えると、彼女はめいっぱいの笑顔で「かしこまりました」とうなずいた。



 ――そして僕たちは今、小さな店の中で向かい合い座っている。


 スタッフに聞いたことのない言語――恐らくタイ語で注文する彼女を、僕はただ見つめることしかできなかった。

 周囲に日本人を含む外国人は一人もいない。

 ローカル感あふれる店内に僕は少々怖気おじけ付いていた。

 気を紛らわせようと卓上のメニューを開くと、申し訳程度に英語と写真が掲載されている。

 どの写真もいかにもなタイ料理で、僕は内心ため息をいた。


「遠野さんはタイ料理、お好きですか?」


 不意に声をかけられ顔を上げると、五十嵐さんが穏やかな笑顔のまま僕を見ている。

 さすがに『遠野様』と呼ばれ続けるのはむずがゆく、普通に呼んでくださいとお願いしておいて良かった。

 そのやわらかさになんだか救われたような気持ちになり、僕はつい本音を吐き出す。


「いえ、実はあまり。一度日本で食べたことがあるんですが、その――おいしさがいまひとつわからなくて」

「……私も実は、この国に来るまでまったく好きではありませんでした」


 驚きが顔に出ていたのか、彼女はくすりとかろやかに笑った。


「きっとこれから歓迎会でタイ料理をたくさんお召し上がりになると思いますが、最初だけです。普段は駐在者も日本食屋で食べるケースがほとんどですよ。幸いこのエリアには日本のチェーン店も多いですし」

「そうですか」

「でもせっかくなので、今日はこちらのお店にお連れしました。このお店は写真があるので注文もしやすいですし、日本食と比べるとかなりお安いんです。それに――」


 彼女の言葉の途中で、机の上にドリンクが置かれる。


「――あまりタイ料理が得意でない遠野さんに、食べやすいお料理をご紹介できればと思いまして」


 目の前の真っ赤なシェイク状のドリンクには、上にスイカの切れ端が載せられていた。

 つまりはスイカジュースなのだろう。

 出自がしっかりしているのでまだ抵抗感は少ないが、そもそもスイカなんてほとんど味がしないのではないか。


 ちらりと五十嵐さんをうかがうと、彼女はにこにことこちらを眺めている。

 仕方ないのでストローを一口吸って――次の瞬間、僕は思いがけない言葉をこぼしていた。


「――おいしい……」


 そのジュースからは、これまで味わったことのない凝縮されたスイカの味がした。

 自然な甘さが口いっぱいに広がりつつも、後味はさっぱりしていて確かにスイカを感じさせる。

 上に載っていたスイカを一口食べると、口の中で優しくほろほろとほどけた。


「五十嵐さん、おいしいです、これ」


 そう伝えると、五十嵐さんは「お口に合って良かったです」とウインクしてみせる。

 その茶目っ気のある振舞いを見て、この国を訪れてからずっと張り詰めていた何かがふっと緩んだ。

 思わず小さく笑った僕の元に運ばれてきたのは、青菜の炒め物だ。


「中華料理でもよくある空心菜くうしんさい炒めなので、きっとお口に合いますよ」


 そう言われてみれば、何となく味のイメージもできる。

 食べてみるとニンニクが効いていて、これもうまい。

 続けて運ばれてきたパリッと香ばしく焼かれた鶏といい、今日が平日の昼でなければビールを注文しているところだ。


「五十嵐さん、いいお店を教えて頂いてありがとうございます。お蔭さまでタイ料理アレルギーが払拭ふっしょくできそうです。正直今回の赴任も不安しかなかったんですが、少し勇気が出てきました」


 この店のメインメニューだというお粥を食べながらそう言うと、五十嵐さんは柔和にその顔を綻ばせた。


「少しでも遠野さんのお力になれて良かったです。私もこの国に来た頃は右も左もわからなくて、他の日本人の方々にたくさん助けてもらいましたから」


 そう言って、彼女はマンゴーを切り分けて口に運ぶ。

 その仕種しぐさは灼熱のこの国に似合わず、とても涼やかに見えた。


「確かに日本に比べれば不便なこともありますけど、タイの人たちはとても親切ですし、綺麗な風景もおいしいものもたくさんあります。せっかく来たんですから、この国での生活を楽しまないと勿体もったいないですよ」


 彼女に言われると、本当にそうなんだろうと思えるから不思議だ。

 どちらかといえばひねくれ者の自覚がある僕だが、気付けば素直に頷いていた。


「そうですね。ところで、五十嵐さんはいつバンコクにいらしたんですか?」

「もう2年になりますね」

「2年ですか。帰任時期は決まっているんですか?」

「……いえ、今のところは、まだ」


 そう答えて、彼女は静かに目を伏せる。

 気のせいか、ふと彼女の纏う空気の質が変わったように感じた。

 迷った挙句あげく、僕は「そうですか」と芸のない答えを返し、グラスの底に残ったスイカジュースを飲み干す。


 視線を戻した時には、五十嵐さんは何事もなかったかのように、穏やかな笑みを浮かべていた。



 ***



 気付けばあっという間に2ヶ月程が経過していた。


 僕はタイでの生活に少しずつ馴染なじんでいた。

 昼は工場の食堂でローカルめしを食べているが、五十嵐さんに教わった空心菜炒めを中心に乗り切っている。

 たまにとんでもなく辛い味付けにされてしまうのも、段々と許せるようになってきた。

 夕食は近所に住む駐在者たちと日本食を食べに行くことが多い。

 これも五十嵐さんの言う通りだった。


 平日を駐在者たちと過ごす代わりに、週末は一人で色々な場所に出かけた。

 ゴルフに付き合わない僕のことを上司は苦々しく思っているかも知れないが、せっかくタイにいるのに日本人との付き合いに時間を使うことがなんだか僕には勿体なく思えた。

 そんなマインドになれたのも、五十嵐さんの言葉のお蔭かも知れない。

 確かにこの国には、日本にいては知り得なかったようなものがたくさんある。


 そして、週末の内のどちらかは、僕は五十嵐さんに教わった店に行くようにしていた。

 特に理由などなく――もしかしたら彼女に逢えるような、そんな気がして。

 写真を見ながら色々と注文する内に、食べられるタイ料理のレパートリーも増えてきた。

 氷の入った味の薄いビールを飲みながら、僕は約束も交わしていない待ち人を待つ。

 それもなんだか、この日常と化した駐在生活のスパイスのように感じられた。



 帰りの通勤車の中で動画を観ることにも飽きて、僕は窓の外を眺める。

 雨期と聞いてはいたが、熱帯のスコールは日本のそれとは桁が違う。

 今日も笑ってしまう程の大雨で、車は少しずつしか進まない。

 普通に通えば30分もかからないであろう道のりを、2時間かけて渋滞の中のろのろ帰る。

 それでも雨に濡れるよりはマシだと上司は隣の席で寝こけていて、僕もそれを気にしなくなってきた。


 ――ふと、視線の先に目を惹く柄の傘がゆっくりと進む様子を捉える。

 大輪たいりんの花をあしらったデザインはカラフルながらも上品で、良くも悪くも派手派手しいこの街の中ではなんだか浮いて見えた。


 何となく目が離せずにその傘の行方を追っていると、傘は或る店の前で立ち止まる。

 そこは、五十嵐さんに教わったあの店だった。

 まさか――と身体を起こした時、傘がすっと閉じられ、持ち主の顔が夕闇に晒された。


 2ヶ月振りに見たその姿は、雨期の湿った空気の中においても確かな輪郭りんかくを持ってそこに息衝いきづいている。


 気付けば僕は運転手に声をかけ、通勤車を降りていた。

 寝惚けた声で話しかけてくる上司に「おつかれさまでした」とだけ言い残し、僕は土砂降どしゃぶりの雨の中を急ぐ。

 店の前に辿り着いた時には靴の中がじっとりと濡れていたが、そんな不快さも気にならないような静かな高揚感が僕を包んでいた。



「――お久し振りです」


 店内でメニューを眺める彼女に声をかけると、静かにその顔がこちらを向く。

 彼女――五十嵐さんは、その長い睫毛まつげをぱちぱちと揺らしながら穏やかに微笑んだ。


「遠野さん、お久し振りです。偶然ですね」

「はい、本当に」


 思わず偶然を装いつつも、覚えられていたことにほっとする。

 僕は彼女の許可を得て、同じテーブルの席に腰を下ろした。

 聞けば、明日は休みだという。

 それを良いことに、二人分のビールを注文した。


「実は、この店結構使わせてもらっているんです」


 お酒の勢いでそう白状すると、五十嵐さんは「そうですか」と微笑む。

 その笑顔が嬉しそうに見えるのは、僕の思い込みではないと信じたい。


「気に入って頂けて良かったです。私もよく朝食を食べに来るんですよ」


 ――ほど、来る時間帯が違ったのか。

 それでは逢えないわけだ。


 その後も様々な料理をつまみながら、僕たちは話に花を咲かせた。

 週末に巡った場所の写真を見せると「結構コアな所も行かれたんですね」と彼女が驚く。


「どこかおすすめの場所ありますか?」という僕の問いに、彼女は自分のスマホを軽くいじってこちらに向けた。

 画面に映し出されたのは、ドラゴンが巻き付く巨大なピンク色の塔――あまりに突拍子とっぴょうしのない建造物に唖然とした僕を見て、彼女は少女のような笑い声を上げる。


 穏やかで大人びた様子の彼女が見せたその一瞬の無邪気さに、僕の心が捉えられてしまうのも無理はないだろう。

 僕はこの日、彼女の連絡先を聞き出すことに成功した。



 ***



 ――そして今、僕の隣には薄手のコートを羽織った五十嵐さんが座っている。


 時が経つのは早い。

 僕の左手首のスマートウォッチは12月もなかばを過ぎたことを告げている。

 先週末くらいから半袖で朝を過ごすのは少し肌寒く感じるようになってきた。

 それでも日中は30℃近くまで上がるのだから、12月だと言われても不思議な感覚でならない。

 こんなにも暖かい冬を過ごすのは、人生で初めてのことだ。



 五十嵐さんとふたりで逢うようになってから、もう半年近くが過ぎていた。

 といっても、頻度はそこまで高くない。

 彼女の職業柄休みは不定期で、月に2回も逢えれば御の字だ。


 大体は食事を共にするくらいだが、一度だけ会社の車を借りて遠出したことがある。

 目的地の水上マーケットは彼女がいつか行きたいと言っていた場所だった。


「ひとりだと、少し行きづらくて」


 そう控えめに笑う彼女に「僕も行ってみたいです」と合わせ、何とかデートに漕ぎ付けた。


 ふたりで小舟に乗り、睡蓮が咲き誇る湖を背景に写真を撮り合っていると、まるで恋人同士であるかのような錯覚を覚える。

 現に船頭の男性に記念撮影を頼んだ際に、彼からはふたりの指でハートマークを作るよう要求され、僕たちは苦笑いをしながらそれに応えた。


 一方、僕たちの関係性はそれ以上の進展を見せることはない。

 五十嵐さんは僕といる時、いつも穏やかに笑う。

 連絡をすればきちんと返ってくるし、誘いを断られたことも今のところ一度もない。

 あくまでトリガーは僕からで、彼女からコンタクトはないものの嫌われてはいないはずだ。


 しかしふとした瞬間、彼女はその笑顔に憂いを滲ませることがあった。

 そういう時は決まって、彼女はどこか遠い所を見つめている。

 僕がトイレから戻ってくるまでの間や、店員に話しかけている時など――彼女の心はどこか遠い世界に旅立っているように感じられ、意識が戻ってくるまでに少し時間を要した。

 勿論、僕を認識すると、また穏やかないつもの笑みを浮かべるのだけれど。


 そんな時の彼女はまるで見えない膜に隔てられているかのようで、それを打ち破れる程僕は勇敢でも無遠慮でもない。


 それでも、僕は五十嵐さんに連絡を取ってしまうのだ。

 彼女がいつか、僕に本当の笑顔を見せてくれればいいと――心のどこかで祈りながら。



「――遠野さんは、冬って好きですか?」


 五十嵐さんの声に、僕は意識を引き戻される。

 隣の席に座る彼女は穏やかな眼差しでこちらを見つめていた。


 僕達はホテルのルーフトップバーでグラスを交わしている。

 南国にしては涼やかな風が僕たちの頬を撫でた。

 たった2週間の短い冬の季節を必死で主張するかのように。


「寒いのが苦手なので、あまり得意ではなかったですね。でも、これだけ暑い国に来てしまうと、なんだか冬の寒さが懐かしく感じます」


 正直に答えると、五十嵐さんは「私もです」と笑い、そして続けて言った。


「実は私、この国に来てから一度も帰国していないんです。だから余計に冬が恋しいのかも知れません」


 初対面の時の会話を思い出す。

 あの時彼女はここに来てもう2年と言っていたから――次の4月で3年になる。

 僕は上司から駐在者は最低でも年1回ペースで帰国すると聞いていたので、会社によって方針が違うのだろう。


「そうですか。まぁ会社の方針もありますよね。五十嵐さんの会社は皆さんそうですか?」


 すると、彼女は僕から視線を外し、手に持ったグラスをじっと見つめ――そして「私だけなんです」と呟く。

 続けて放たれたのは、僕の予想の範疇にはない台詞だった。


「日本に帰るのが怖いんです――逃げるようにここまで来てしまったから」


 彼女はぐいっとグラスの中身を煽ったあと、近くを通った店員にワインをオーダーする。

 そして僕に顔を向けず、正面の夜景に視線を戻した。


 そう――時折見せる、憂いを含んだ眼差しで。


「――私、好きなひとがいたんです」


 彼女はぽつりと呟く。

 その言葉には似つかわしくない程、温度が感じられない声だった。

 僕は淡々と事実を受け入れるように、放たれた言葉を飲み込む。

 暫く沈黙が流れたのち、彼女は観念したように乾いた笑みを浮かべた。


「同じ会社の先輩で、入社した時の指導員だったんです。一緒に仕事をすることも多くて、たくさんの時間を過ごす内に恋人関係になっていました。彼も私も海外志望でしたが、年次的にも先に彼が海外に行くだろうと、誰もが思っていました。その時は結婚して、私も休職してついていこうかなんて話していて――でも」


 そこまで言ったところで、店員が白ワインを運んでくる。

 彼女はそれを受け取り、少しだけ口に含んだあとで一息吐いた。


「あの日――何故か海外駐在の辞令を受けたのは、私の方でした」



 そのあとの話は、推して知るべしだ。

 自分の思い描いていたキャリアとのギャップに絶望したのか、それとも自分よりも後輩である恋人に先を越されプライドを傷付けられたのか――いずれにせよ、彼は彼女に別れを告げた。


 彼女も海外勤務志望だったことから社内では色々な噂が飛び交い、そして――彼女は追い立てられるように、ここまで辿り着く。


「すべてを忘れたくてここに逃げてきただけなのに――この国は人も気候もあたたかくて、まるで夢でも見ているみたい」


 五十嵐さんの表情からは笑みが消えていた。

 その瞳に映る夜景は、ただただ綺麗だ。

 まるで彼女の心の中の『この国』を体現するかのように。


「でも、私って薄情なんです。冬が来ると日本を思い出してほっとして――そしてたった2週間の冬を待ち焦がれてしまう」


 五十嵐さんはもう一度ワインを口にして――そして僕に視線を戻す。


「自分でも未練がましいと思います。それでも――私はこの限られた冬がいとおしくてたまらないんです」


 そう言って、寂しげに微笑わらってみせた。



 僕は黙って目の前のグラスを空ける。

 その様子を五十嵐さんはただ見つめていた。


「――五十嵐さんは、薄情なんかじゃないですよ」


 僕は敢えて五十嵐さんから視線を逸らし、正面の夜景を視界に収めた。

 先程彼女がそうしたように。


「僕は初めてこの国に来た時、不安でいっぱいでした。五十嵐さんと違って僕は海外志向もなかったし、そもそも日本を出たことすら初めてです。言葉もわからなければ食事も合わない。知らないことだらけでどうしようもなかった」


 隣から五十嵐さんの気配を感じる。

 彼女は変わらず、じっと黙ってそこにいた。


「そんな僕が、今や毎週末行ったこともない場所に出かけて、今日もこうやってこの国の食事や夜景を楽しんでいる――それってすごいことだと思いませんか?」


 僕はそこで言葉を切って、五十嵐さんに向き直り――ぐっとはらに力を入れ、覚悟を決める。


「――全部、あなたのお蔭ですよ」


 五十嵐さんの目がゆっくりと見開かれた。

 その瞳に光ったものは、何だったろう。

 僕にはそれを推し量る余裕もない。

 ただ、自分の素直な感情を彼女に伝えるだけだ。


「何故先輩が選ばれず、あなたが選ばれたのか――勿論僕には本当の理由なんてわかりません。でも、事実として僕はあなたに救われました。ここに来てくれたのがあなたで、本当によかった。だって、あなたがあの時あの店に案内してくれなければ、僕はいまだに鬱屈とした日々を送っていたかも知れないから。あなたは自分の仕事に誇りを持って、ただ大手を振って日本に帰ればいいんです」


 僕の言葉が、少しでもあなたの背負う荷物を減らせたらいい。

 傲慢な思い込みかも知れない。

 一方的な気持ちの押し付けかも知れない。


 それでも――僕はただ、伝えたかったのだ。

 目の前の、たったひとりのあなたに。


「僕が保証します――あなたは本当に素晴らしいひとだって」


 ――ここにいてくれて、ありがとうと。

 そう伝えたかった。



 そこまで言い切ったところで――僕を不意に恥ずかしさが襲う。

 らしくもなく熱くなってしまった僕を、彼女はどう思っただろうか?

 五十嵐さんは、その澄んだ瞳で僕を見つめていた。


「――ま、まぁ僕に保証されてもって感じでしょうけど……」


 言い訳がましく続けて、僕は近くにいた店員からビールを受け取り、一息に飲む。

 アルコールが頬の火照ほてりを加速させた。

 我ながらなんだか情けない。


 ――そんな後悔を打ち消したのは、少女のように透き通った笑い声だった。

 顔を上げると、そこには満面の笑みを浮かべた五十嵐さんがいる。


「いえ、遠野さん、ありがとうございます。あなたに保証してもらえたのなら、私はきっと大丈夫ですね」


 いつもにも増して穏やかで――あたたかな表情に、僕は言葉をうしなった。

 彼女の瞳がきらきらと光る。

 眼下に広がる夜景と、カウンターの上の蝋燭と――そして、まなじりに滲む何かが混ざり合って。


「夢はいつか終わるけれど――私、ここに来てよかった」


 彼女は穏やかに――それでいて凛とした声で、そう呟いた。



 ***



 ――翌日、僕は変わり映えのしない朝を迎える。

 結局昨日は、あれから少しだけふたりで過ごしたあとまっすぐ帰路に着いたのだった。


 まぁ、それでもいい。

 あの笑顔を見られたのだからそれだけで十分だ。

 願わくば、もっと気の利いたことが言えればよかったのだろうけれど。

 口下手な僕にはあれが限界だ。


 とはいえ――さて、次はいつ五十嵐さんに逢えるだろう。

 何か誘う口実はないかと考えながら、僕は通勤車に乗り込む。


 いつものように上司に挨拶を終えて携帯電話を開くと、一件の通知が届いていた。

 何の気なしにそれを開き、そして――表示された差出人の名前を見て一気に脳が覚醒する。



『昨日はありがとうございました。よろしければ、次の週末どこか行きませんか?』



 高鳴る胸を抑えながら、僕はすぐに了承の言葉を返す。

 脳裡のうりには昨夜見た笑顔がよみがえっていた。



(了)

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