聖書知ってる? 過去と未来は円の如く V.1.1

@MasatoHiraguri

第1話 第1話 中国(人)の強さ 


自分の過去に正しく向き合い・行き着いた者だけが、正しい未来へ向かうことができる。新約聖書における 「19:19父と母とを敬え。」の『父と母』とは『過去』のこと。


自分たち民族の歴史(過去)から学び、それを未来へ生かそうとしている中国人。そんな彼らは、専門家や大学の教授といった特定の人間だけでなく、個人個人で・国民一人一人・中国人全員が、中国人らしい感性・ものの考え方で生き、政治・経済・文化といったあらゆる分野で「自分なりの中国人らしさ」を発揮している。

これすなわち、中国人としての(物心両面における)血の濃さに由来した、個人としての・国家としての生き方というものなのです。


<引用始め>

伝統文化は枯渇することのないイノベーションの源泉

人民網日本語版 2025年12月09日14:42

https://j.people.com.cn/n3/2025/1209/c206603-20400135.html


  約1000年にわたり造営が続けられた敦煌の石窟は、絵画、塑像、建築物、装飾が一体となった「芸術の殿堂」で、文化に奥深い影響を及ぼし続けている。敦煌には、私の芸術家としての人生のルーツがあり、生涯続く研究のテーマであり、教育者として基盤でもある。(文・常沙娜 中央工芸美術学院元院長)


1943年、12歳だった私は父である常書鴻と共に敦煌に行った。そして、その後の数年間、大人達と共に、洞窟の中で壁画を模写した。下書きをして、輪郭を描き、着色し、色をぼかすなどの各プロセスにおいて、私は敦煌芸術の美しさを感じ、その「栄養」をしっかりと吸収した。敦煌芸術の深い味わい、奥深い伝統文化が、私が一生にわたって芸術の創作活動やデザイン、芸術の教育に携わり続けるための思想のベースを築いた。そのベースとは優れた伝統文化芸術をしっかりと学び、それを理解した上で、伝統を継承し、発揚し、イノベーションすることだ。


1952年、アジア太平洋地域平和会議が北京で開催された。林徽因氏の指導の下、私が敦煌壁画からインスピレーションを得てデザインした景泰藍による作品「和平鴿大盤」やシルクのスカーフのデザインが贈呈品として各国の代表に贈られた。それが、私がデザインに携わるようになる重要な起点となった。その後、私は首都「10大建築物」のデザインを担当するようになった。例えば、人民大会堂の宴会ホールの天井の図案は、敦煌の唐代の藻井の模様からインスピレーションを得た。蓮の花を中心として、建物の構造や照明、換気といった機能の必要性も考慮し、敦煌の花型の図案と近代的な機能を組み合わせ、民族的な雰囲気を備えた空間装飾に仕上げた。


敦煌芸術は、ほぼ全ての時期の私のさまざまなカテゴリーのデザインに影響を与えてきた。優れた中華伝統文化は枯渇することのないイノベーションの源泉であって、近代的なデザインのインスピレーションの宝庫だ。敦煌の各種装飾図案の要素とスタイルは、どれも現代の生活に必要な各種装飾品のデザインに取り入れることができる。敦煌芸術は優美で、そこには古代の労働者の知恵や思いが込められており、生活の真・善・美だけでなく、民族のスタイルや気質も体現されており、近代的なデザインにおいて伝承し、発揚し続ける価値がある。


敦煌の壁画における装飾図案は、部分的内容や装飾であるものの、不可欠なものであり、それは敦煌の石窟芸術全体の歴史と作風を反映しているほか、非常に高い参考と応用の価値がある。例えば、髪飾りや仏具の図案は、現代のアクセサリーや器具のデザインにインスピレーションを与える。また、王座の図案や幾何学模様は、近代的な建物の内装や織物のデザインの参考になり、手の仕草や動物、樹木、雲紋といった図案は、近代絵画や平面デザインの応用要素となる。


「民族的、合理的、大衆的」というのは、いつの時代においても、デザインにおいて発揚すべき原則となる。数十年にわたるデザインに関する授業と実践において、私は常に、「源と流」という観念を強調してきた。「源」とは伝統、つまりは敦煌の芸術を指し、「流」というのは応用、今の時代の生活に順応するのに必要なアートデザインのイノベーションと発展を指す。優れた中華伝統文化を源として、それに根差さなければ、芸術の「流」は、バイタリティや創造力を備えることはできないと、私はひしひしと感じている。


あっという間に、私は90歳を超えてしまった。これまでずっと、父親と林徽因氏の教えや期待を心に銘記してきた。2人は私が図案デザインの授業と近代的なデザインの応用のニーズを結びつけ、敦煌の図案を系統的に整理して研究することを願っていた。私はそれをずっと行い、先達との約束を守ってきた。ただ、それは始まりに過ぎない。私もその教えと期待を次の若い世代に託している。一人でも多くの若い学者、デザイナー、芸術家が、敦煌芸術の保護や研究、学習、発揚を地道に、かつ着実に行っていくことを願っている。代々伝承し、発揚することで、中華文化は必ずさらに輝きを増していくに違いない。(編集KN)


「人民網日本語版」2025年12月9日

<引用終わり>




第2話 日本の現状と未来

翻って我が日本の現状を見るに、「伝統文化の研究」はしても、外来種偽日本人政治屋・マスコミ屋・警察屋・戦争屋といった日本の支配層は、自分たちの過去について研究・学習することはない。

いまや、在来種純粋日本人である縄文人の理性・知性・感性を持つ者は各界から完全に排除され、かつての奈良・平安時代という弥生人による偽物の時代に回帰しつつある。


外来種偽日本人による政治・マスコミ・警察を含む司法による日本の経営では、先が見えている。100年前の昭和天皇(大日本帝国)による中国・アジア侵略と同じように、国家として誤った進路を取り、正しい天の裁きによって、再び自滅していくことだろう。


<引用始め>

「23:25偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。・・・


23:27偽善な律法学者、パリサイ人たち(平栗注:外来種偽日本人(弥生人))よ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。

23:28このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。


23:2「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。

23:3だから、彼らがあなたがた(平栗注:在来種純粋日本人(縄文人))に言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。

23:4また、(平栗注:外来種偽日本人とは)重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。

23:5そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、

23:6また、宴会の上座、会堂の上席を好み、 23:7広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。・・・

<引用終わり>


第3話 私の未来

未来と過去とは円のようにつながっている以上、自分の長生きを志向・思考するよりも、過去に生きた自分の生を確実に思い出すことで、豊かな未来と確実に手をつなぐことができる。ですから、これから先の天下国家のことなど興味も関心もない。平栗雅人というこの私自身に関して、ただひたすら縄文人らしく生きようとするだけ。


物心両面における私自身の縄文人の血を濃くしていくことで、大いなる過去という魂の遺産に出会えることができれば、私の未来が見えてくる。来年どうするか、なんていうことではありません。そういう未来のことではなく、私自身の中に存在する縄文人の記憶(理性・感性)を追求する(思い出す)ことで、「何億、何光年分の物語(RADWINPS 「君の名は。」主題歌)」という未来へつないでいく。それは同時に、自分の中に存在する精神的な弥生人の血(の比重)を低めるということでもあるのです。

早い話が、自分らしく・自分に成り切って生きることなのです。




私にとってmake sense(筋が通る・意味をなす・よくわかる・もっともである)言葉

7:21『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天の御旨を行う者だけが、はいる。


「22:14(天国へ)招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(新約聖書)




第4話 日本の歴史

○ 原始時代・古代・縄文時代と、在来種純粋日本人だけで平和に豊かに生きていた時代

それが、

○ 弥生人(外来種偽)に侵略されて以来、

○ 天皇や貴族という外来種偽日本人による奈良・平安時代という偽物時代となった。

○ そんな偽の日本(人)から目覚めた、源頼朝による鎌倉時代

○ 縄文人による鎌倉幕府が再び天皇と武士に滅ぼされ、縄文人と弥生人が拮抗した室町時代

○ 縄文人同士の切磋琢磨によって、天皇・貴族の存在感が弱まった戦国時代

○ 江戸時代という、縄文人による縄文人のための政治・経済・文化の全盛時代

○ 国際金融資本家の力を借りて再び外来種偽日本人が力を盛り返そうとした明治時代

○ ヒロヒトによる外来種偽日本人支配の復活(昭和の大日本帝国)


盆踊りを含む「日本の祭り」という縄文人文化の精華(物事の真価とすべきすぐれたところ)と、様々な日本独自の文明は江戸時代に花開いた。

その名残は、十五年戦争後の1935年~1980年代頃まで一時的に復活しましたが、やはり国際金融資本家たちのマペット(操り人形)である外来種偽日本人政治屋・マスコミ屋・警察屋によって、再び追い払われてしまったかのようです。


第5話 日本の未来は「韓国」にあり

これから先、ますます在来種純粋日本人(縄文人)の血は、物心両面にわたり薄くなり、韓国化した社会になっていくでしょう。

韓国流社会 → 月刊HANADA連載中、室谷克実氏「隣国のかたち」



第6話 私の好む死生観・天国への道

○ 月下推敲で名を成した唐の詩人賈島


<引用始め>

賈島

閒居少鄰並,

草徑入荒園。

鳥宿池邊樹,

僧敲月下門。

過橋分野色,

移石動雲根。

暫去還來此,

幽期不負言。


李凝(りぎょう)の幽居(ゆうきょ)に題(だい)す   賈島(かとう)

閑居(かんきょ)鄰竝(りんぺい)少(すく)なく

草径(そうけい)荒園(こうえん)に入(い)る

鳥(とり)は宿(やど)る池中(ちちゅう)の樹(き)

僧(そう)は敲(たた)く(私平栗は「推」を好む)月下(げっか)の門(もん)

橋(はし)を過(す)ぎて野色(やしょく)を分(わ)かち

石(いし)を移(うつ)して雲根(うんこん)を動(うご)かす

暫(しばら)く去(さ)って還(ま)た此(ここ)に来(き)たる

幽期(ゆうき)言(げん)に負(そむ)かず



詩の大意

隣家も稀な李凝の幽居。草径を通り池畔を過ぎて、

僧は月に照らされた門を敲く。橋を渡れば、一面にあふれる野色。

岩を動かせば、雲が湧くかと思われるほどだ。

今夜はこれでお別れしますが、そのうちにきっとまたお伺いしますよ。

この約束はかならず果たします。

『中国の故事と名言五〇〇選』(平凡社版)

<引用終わり>



○ 曹操

<引用始め>

「曹操の詩の新解釈」

 曹操(そうそう:155~220年)とは、中国後漢末期の武将で三国時代の魏の基礎をつくった人物である。中国の評価としては古来、悪智恵の働く奸雄(かんゆう)とされ、大衆受けをねらい、おもしろおかしく脚色された『三国志演義』の影響により、現代でも極悪人の一人とされている。しかし、私が理解する曹操は、迷信や邪教を禁ずる合理的精神の持ち主である。また、勝利した曹操に対して、敗軍の将が「金銀財宝、食料は国家の持ち物である」として燃やすことなく引き渡したことがあったが、曹操はその「無私の精神」に感じ入り、侯爵位を授けたうえに、その娘を息子の嫁に迎えた。誠に度量が広い人物だと思う。私は、彼の詩作品から民衆や兵士の苦しみを憐れむ気持ちや乱世平定への志をも感じている。

 以下に私の好きな曹操の詩、「歩出夏門行(ほしゅつかもんこう)」を紹介する。


「歩出夏門行」

神亀雖寿           神亀は寿(いのちながし)と雖(いえど)も

猶有竟時           なお竟(おわ)る時有り

騰蛇乗霧           騰(のぼ)る蛇は霧に乗れども

終為土灰           終(つい)には土灰(どかい)と為る

老驥伏櫪           老驥(ろうき) 櫪(れき)に伏すとも

志在千里           志(こころざし)は千里にあり

烈士暮年           烈(たけ)き士(おとこ)は暮年にいたれど

壮心不已           壮(さか)んなる心を已(とど)めあえず

盈縮之期           盈(なが)きと縮(みじか)きの期(さだめ)は

不但在天           ただ天のみに在らず 

養怡之福           怡(よろこび)を養い之(これ)を福すれば

可得永年           永年を得べきなり

幸甚至哉           幸(さいわい)は甚(なははだ)しくいたれるかな            

歌以詠志           歌いて以って志(こころざし)を詠まん


神亀は長い寿命を持つといっても

それでも命の尽きる時がある

龍は霧に乗って飛び回るも

最後には土と灰に還っていく

しかし駿馬というものは老いて厩(うまや)で横たわっても

志は衰えることなく千里の彼方を目指そうとする

熱い思いをもつ男児は年老いても

若々しく元気な気持ちは失われないものだ

寿命が長いか短いかは

ただ天の命ずるところだけで決まるのではない

平和を維持・拡大し、天すなわち万民に幸福をもたらすこと、

それは限られた命しか持たない私でも実現可能なことであり、

万民に幸福をもたらすことは私にとっては永遠の命を授かったことと

同じ喜びなのだ、

これ以上の幸福があろうか。

歌によせてわが志を詠った。



『歩出夏門行』は曹操が烏桓(うがん:東胡とよばれた遊牧民)を征伐する頃に詠んだ詩であり、五篇作成され、五篇目は『「神亀寿」の詩』と表記される。ちなみに「歩出夏門行」という楽曲にあわせて作成された詩なので、題と詩の内容には関係がない。また「幸甚至哉 歌以詠志」は、はやし言葉であり、五篇の各末尾に添えられている。


 西暦200年、曹操は、冀州(きしゅう:中国北部)から南下してきた袁紹(えんしょう)と戦い、大勝利をおさめた(官渡の戦い)。そして204年には袁氏の本拠地を陥落させた。207年に袁氏の残党とそれを擁護する烏桓を討伐するため出征した。征戦は5月から翌年の1月におよび、結果的に勝利したが大変な困難を伴なった。冬の寒さのうえに日照りのため水不足となり、水を得るために三十余丈(約72メートル)もの地面を掘らなければならなかった。食糧も不足して数千頭もの軍馬を殺して兵糧としたという。


 私は、「神亀寿」の詩を読んで、「老驥(ろうき)櫪(れき)に伏すとも志は千里にあり」という文句に感動した。かの毛沢東氏もこの詩を愛唱したと聞いている。

 この詩のなかの「養怡之福 可得永年」の訳「平和を維持・拡大し、天すなわち万民に幸福をもたらすこと、それは限られた命しか持たない私でも実現可能なことであり、万民に幸福をもたらすことは私にとっては永遠の命を授かったことと同じ喜びなのだ」は、私の解釈である。ほとんどの研究者は「養生に努めれば、長生きできる」という趣旨に訳されており、「之」を「天」と解釈した人はいない。私の新解釈である。

 例えば、東京大学名誉教授の竹田晃氏は著書「曹操 三国志の奸雄(講談社学術文庫)」の中で、「盈縮之期 不但在天 養怡之福 可得永年」を

「長く短く定めなき命の期(かぎり)

 されどただ天運とおきらめむな

 身も心も安らかに養えよ

 永久(とわ)なる命得べからん」

と訳され、その解説にも

「・・・人間の寿命は天の定めのみによるのではない。人間の努力如何によっては、不老長寿の道をも会得することができるのだ・・・・・・まことに、曹操の意気盛んなり、というべきであろう。

 曹操という男は、その盛んな意気によって着々とその地歩(ちほ)を固め、野望を達成していったのであろうが、はたして、人生に対して終始このように、あたかも恐れを知らぬごとく強気に走り続けたのであろうか。」

とされている。曹操を奸雄と決めつけての解釈である。


 他に、中村愿(すなお)氏は「三國志逍遥(山川出版社)」の中で「神亀寿」以下を次のようにわかりやすく訳されている。

神亀(かめ)は寿(ながいきする)とは雖(いえ)、

猶(かならず)竟時(しぬとき)が有(やってく)る。

騰蛇(りゅう)は霧と乗(たわむれ)ても、

終(いつか)は土灰(つちくれにかえって)ゆく。

老驥(おいためいば)は櫪(うまや)に伏(ふす)とも、

志(こころざし)は千里(どこまで)も在(たか)く、

烈士(きがいあるじんぶつ)は暮年(おいさきみじかく)とも、

壮心(うつぼつたるきもち)を不已(おさえきれぬ)。

盈縮(ひとのいのちのちょうたん)は

不但在天(てんのおもうがままなのか)、

養怡之福(ようじょうをうまくたもてば)

永年(ながいき)も可得(きっとてにいれられよう)。

幸甚至哉(ああなんとしあわせ)、


歌以(うたって)志(おもいのたけ)を詠(あらわさ)ん。


 中村愿氏は曹操を奸雄とはみなさず、

「献帝と曹操が心から願ったこと・・・それは単に権力や国家を奪う、奪われるという次元ではなく、“天下(よのなか)”を立派に治め“天下(よのなかのひとびと)”に平和と安定をもたらすということに尽きよう。」

と曹操の壮大な志を説明している。しかし、その中村愿氏でさえ「養生に努めれば、長生きはできる」という趣旨に訳している。


 なぜ、竹田晃氏や中村愿氏が「養生すれば長生きできる」という趣旨の訳をほどこしたのか。

「養怡之福」が、他にどのように訳されているのかインターネットで調べてみたが、この詩を訳したほとんどの人は、次のように「養生すれば長生きできる」という趣旨として理解している。

『(自らが)和らぎよろこぶ幸福を培うように心懸ければ。』

『心に喜神を含めば遂には長久せざるなし。』

『生活や活動に調和を心がけ、幸福を目指せば、』

『生きる喜びを知り、幸せに暮らすことができれば長生きできるものだ。』

 さらにインターネットで検索したところ、作者不明だが注目すべき文を発見したので紹介する。

『《歩出夏門行》,黄節はじめ多くの碩學が,曹操の烏桓征伐時の作として異論が無い。とくに四解だが,「盈縮之期,不但在天,養怡之福,可得永年」の部分について,黄節は烏桓征討戰を終えて帰還した軍を還したあと曹操がおのれをいましめたことをいう,としている。曹操が軍旅を起こす前に,ムチャだ,と,曹操を諌めた部下を確かにその通りだったとして厚く褒賞した,という有名なエピソードである。

『樂府正義』(朱乾)を引用すると

 朱秬堂『樂府正義』曰:魏武烏桓之伐,覆危踏險。殊非怡養之福。

 軍還之日,科問前諌者,衆莫知其故,人人皆懼。公皆厚賞之,

 曰:「孤前行,乘危以徼倖,雖得之,天所佐也,顧不可以為常。

 諸君之諫,萬安之計,是以相賞,後勿難言之」(三國志武帝紀)』


 ここで碩学と紹介されている「?節(1873年-1935年)」とは、中国の詩人で、かつ歴史学者である。曹操の詩の解釈書も《魏文帝魏武帝詩注》、《曹子建詩注》等多数著しているので、竹田晃氏も中村愿氏も?節の解釈に従ったのではないかと思われる。

インターネットでは、「?節」が、「朱乾」が著した『樂府正義』の文中の「魏武烏桓之伐,覆危踏險。殊非怡養之福。」を根拠として、この詩の作成時期は烏桓征伐後であり、「養怡之福,可得永年」の解釈については「殊非怡養之福。」の文章があることをもって「養生すれば長生きができる。」と解釈する根拠としているようなのである。

「魏武烏桓之伐,覆危踏險。殊非怡養之福。」は「武帝曹操は烏桓征伐の際、非常な危険をおかした。養生するどころではない。」とでも訳するのだろうか。

 しかし、「朱乾」の『樂府正義』では、出典を「三國志武帝紀」としているのだが、私が「正史 三国志(ちくま学芸文庫)」の「武帝紀」調べた限りでは、「魏武烏桓之伐,覆危踏險。殊非怡養之福。」に該当する訳が記載されていないのである。

『樂府正義』の中の

「軍還之日、科問前諌者,衆莫知其故,人人皆懼。公皆厚賞之,

曰:「孤前行,乘危以徼倖,雖得之,天所佐也,顧不可以為常。

 諸君之諫,萬安之計,是以相賞,後勿難言之」(三國志武帝紀)」

にかかわる内容を「正史 三国志(ちくま学芸文庫)」の「武帝紀」から引用すると次のとおりである。

「『曹瞞伝』にいう。その時、気候は寒いうえにひでりであった。二百里にわたって水はさらになく、軍はそのうえ食糧に欠乏し、数千匹の馬を殺して食にあて、三十余丈も地面を掘ってやっと水を手に入れた。帰還ののち、前に[烏丸征伐を]諫めた者の名を書き並べて報告するように求めた。人々はその理由がわからず、皆、心配した。公は手厚く彼らに恩賞を与えて述べた、「わしの先の遠征は、幸運によって危険をのりきった。うまくいったのは、天が助けてくれたからこそだ。したがってこれを常例とするわけにはいかぬ。諸君の諫言は、万全の計である。そのために恩賞をとらすのだ。今後、発言をひかえたりしないでくれよ。」

「『曹瞞伝』にいう。」以下の文章は「裴松之の注」である。

「裴松之の注」について説明する。陳寿は『三国志』を記述するにあたって信憑性の薄い史料を排除したために、『三国志』は非常に簡潔な内容になっていた。そこで、宋の文帝は裴松之に注釈を作ることを命じ、裴松之は西暦429年に提出した。裴松之の注の特徴は、陳寿の触れなかった異説や詳細な事実関係を収録した点である。陳寿の『三国志』完成後の出来事も補われている。「曹瞞伝」などすでに失われた書物からの引用も多く、貴重な史料である。また、信憑性に欠けるが話としては面白い逸話も数多く収録されていた。


「曹瞞伝」についても説明する。作者不明だが、魏の敵国であった呉の人という。曹操の悪行集といえる内容が多い。そもそも表題からして曹操を卑しめている。曹操の幼名は「阿瞞」といい、ここから「曹瞞伝」と名づけられたというが、この「瞞」の意味は「だます、あざむく、くらます」であり、ようするに彼の幼名は「嘘つき小僧」だったと言っているのである。成人して「曹操」という名に変わったにもかかわらず、幼年時代の「阿瞞」を表題としているのは曹操をおとしめるためとしか考えられないのである。

 武帝紀の注に引かれた「曹瞞伝」の「諫言に対する恩賞」のエピソードは、曹操の評価を高めたエピソードと思える。しかし、見方によっては、「先見の明がないため危うく敗北しそうになり、部下に詫びる情けない将軍であった」というエピソードとして、「曹瞞伝」に取り上げられたのかもしれないのである。いづれにしても「曹瞞伝」は信憑性に欠ける逸話を集めたものと理解しておく必要がある。しかし、その「曹瞞伝」にも「魏武烏桓之伐,覆危踏險。殊非怡養之福。」の文章は記載されていない。勿論、「ちくま学芸文庫」のみで断定するのは早計とは思うが、インターネットで調べる限り、「魏武烏桓之伐,覆危踏險。殊非怡養之福。」を記載した「三國志武帝紀」は見当たらない。したがって?節の引用が間違いでなければ、「朱乾」の『樂府正義』のみが記載していたと思われる。

しかし?節も「正史 三国志」には記載されていないと知っていたはずである。もし「魏武烏桓之伐,覆危踏險。殊非怡養之福。」が「正史 三国志」に記載されているのなら、「朱乾」の『樂府正義』を引用する必要がないからである。

「魏武烏桓之伐,覆危踏險。殊非怡養之福。」は「朱乾」の『樂府正義』が曹操の詩「養怡之福 可得永年」を参考にして作成された文章だとすると、?節の「養生すれば長生きができる。」という解釈は、『樂府正義』を出典としていることから、その根拠がなくなるのである。したがって改めて「養怡之福 可得永年」が何を意味しているのかを考える必要が出てくる。


「怡」の意味を辞書(大修館書店 漢語林)で調べると、「よろこぶ(喜)、たのしむ(楽)、やわらぐ(和)」とされている。前述の?節も「怡」を「和」と解釈している。したがって?節は「和を養い、福をめざせば長生できる」、つまりは「養生すれば長生きできる」と解釈したようである。しかし、曹操は、『「神亀」や「騰蛇(龍)」でさえも死をまぬかれない』と嘆いているのである。つまり神獣であっても寿命は永遠ではないと理解しているのである。したがって、曹操がこの詩で唱える「永年」とは「永遠」を意味している。その曹操が、養生することによって得られる年月が、たとえ数十年であろうとも、「永遠」にくらべれば一瞬にすぎない時間であり、「永年」などと思うはずがないのである。したがって「養生すれば長生きできる」とする解釈は間違いである。


 ではどう解釈すべきであろうか。

 私の「盈縮之期,不但在天,養怡之福,可得永年」の解釈は次の通りである。

 まず、「怡」は?節の唱えるように「和」と同義であると解釈するが、「之」は前にある「不但在天」の「天」を指す代名詞と考えた。

 「天」については、中村愿氏は「三國志逍遥」の中で、曹操の意味する「天下」は、「皇帝・群臣・諸将・貴族・民衆」すなわち「よのなかのひとびと」の意味としている。したがって「天」も同様に「世の中の人々をつつみこむもの」というより、「よのなかのひとびと」と同義と考え、訳としては「和を養い、天に福をもたらせば」となるとした。その結果、この文の初めに紹介した以下のようになる。


盈縮之期           盈(なが)きと縮(みじか)きの期(さだめ)は

不但在天           ただ天のみに在らず 

養怡之福           怡(よろこび)を養い之(これ)を福すれば

可得永年           永き年を得べきなり


寿命が長いか短いかは

ただ天の命ずるところだけで決まるのではない

平和を維持・拡大し、天すなわち万民に幸福をもたらすこと、

それは限られた命しか持たない私でも実現可能なことであり、

万民に幸福をもたらすことは私にとっては永遠の命を授かったことと

同じ喜びなのだ、


 私の解釈によればこの詩は、中村愿氏が述べたように、「曹操の願いは、権力や国家を奪う、奪われるという次元ではなく、“天下(よのなか)”を立派に治め“天下(よのなかのひとびと)”に平和と安定をもたらすということに尽きよう。」を表現したものとなるのである。私は曹操の立派な志を多くの人々に知ってもらいたいと願う。

 世の中の常識として、曹操は悪知恵を働かして出世した「奸雄」であり、中国では約1800年の間、極悪人として嫌われている人物である。その人物を擁護するのは学者でもない、作家でもないただの人の私には荷が重い。しかし、孟子のいう「自(みずか)ら反(かえり)みて なおくんば千万人といえども吾往(われゆ)かん」の志だけは持っている。14億の中国人、さらにはそれ以上のアンチ曹操派を相手にして曹操を擁護する覚悟である。

<引用終わり>



○ 日本人の死生観・天国への道

「雨は降れども身は濡れやしまい。さまの情けをかさに着て散りゆく花は根に帰る。再び花が咲くじゃない。」花らしく・花に成り切ることで根に還ることができる。


2025年12月21日(日)

V.1.1

平栗雅人

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