第2話 偽りの愛、完璧な復讐
彼とは店の外でも会うようになった。
きっかけは特別なものじゃない。
予定が合ったからというだけ。
そう言われれば、それ以上の理由は必要なかった。
平日の夜、彼の車に乗る。
助手席はいつも綺麗で香りだけが少し違う。
家庭の匂いじゃない。仕事用のよそ行きの匂い。
「無理してない?」
「無理はしてます。でも……会いたかったから」
彼はそれを聞いて、少しだけ口角を上げる。
確認が取れたという顔。
「最近さ、こうやって会えるの嬉しい」
「私も落ち着きます」
「家だとどうしても気が散るんだよ」
「静かに話せる場所必要ですよね」
「そう。分かってくれるのお前だけだ」
私はそれを否定しない。
選ばれたと言われていないのに、彼はもうそう思っている。
食事をする。
店は静かで、席の間隔が広い。
値段や格式を説明する必要はない場所。
彼はここを選んだ理由を、やっぱり何度も口にする。
「落ち着くだろ」
「知り合いも来ないし」
「変に見られない」
どれも私のためじゃない。
自分が安心できる格を確かめるための言い訳。
「こういうのさ、恋人みたいじゃない?」
彼は冗談めかして言う。
私は少し間を置く。
「そう見えるかもしれませんね」
「だろ?」
「周りからはきっと」
「……嫌じゃない?」
「今は嫌じゃないです」
その曖昧さが彼には肯定に聞こえる。
帰り道、彼は何度も信号で止まる。
そのたびにハンドルから指先が離れて、私の方へ寄る。
触れない。
触れないまま近づける距離だけを測っている。
「今日はさ……このままどこか行く?」
問いじゃない。
決めたことを優しく包んだだけ。
ホテルの部屋は無機質で音が少ない。
鍵が閉まる音だけが、やけに残る。
彼は少し緊張している。
それが分かるくらいには呼吸が浅い。
「……大丈夫?」
「うん。大丈夫」
その「大丈夫」が誰に向けたものか、考える必要はない。
服を脱ぐ順番や触れるタイミングも彼が決める。
私は従うだけ。
拒まない。
求めない。
終わったあと、彼は何度も私を見る。
安心を確かめるみたいに。
「後悔してない?」
「してません」
「……本当に?」
「本当です」
彼はそれでようやく息をつく。
それで全部が成立する。
それからこういう夜が増えた。
間隔は詰まり、連絡は短くなる。
〈今日、会える?〉
それだけで十分。
彼は私の予定を気にしない。
私が空けていると、もう信じているから。
「お前がいるとさちゃんと息できるんだ」
「そうなんですね」
「他とは違う」
違わない。
でも、そう言わせておけばいい。
私は彼の生活に入り込む。
家族の話を聞いて仕事の愚痴を聞き、彼の時間の中に自然に居座る。
彼はもう選ばれたと思っている。
私がここにいる理由を自分の価値だと勘違いしている。
私は何も動かない。
感情も判断も。
ただ起きたことを並べていくだけ。
それだけで十分だった。
私の中で違う音がする。
過去の音だ。
高校二年の春。
家の食卓にはまだ匂いがあった。
味噌汁の湯気と、お父さんの新聞の紙の擦れる音。
妹の里帆が箸を落として笑って、お母さんが軽く叱って、お父さんが「いいだろ」と言う。
私はその全部が当たり前に続くと信じていた。
それが突然終わったのは、ある日の夕方だった。
玄関のチャイム。制服のままの私。
開いたドアの向こうに、知らない靴が揃っていた。
お父さんの名前が呼ばれて、家の中の空気が一気に硬くなる。
「……どういうことですか」
お母さんの声が揺れていた。
お父さんは何度も「違う」と言っていた。
でも、その「違う」は誰にも届かなかった。
次の日から学校が違う場所になった。
廊下の端で誰かが笑って、私を見る目だけがガラリと変わった。親友や友達ですら。
「殺人犯の娘」
「学校に来るなよ」
「近づかないで」
その無慈悲な言葉たちは名前より先に私に貼りついた。
携帯は鳴り続け、家のポストには紙が押し込まれ、窓ガラスをたまに割られたり、落書きなどされるようになった。
文字の形をした石みたいな言葉が毎日落ちてきた。
指紋。目撃。動機。
テレビの向こうで「決定的」という単語が踊った。
私たちの弁明は音にならない。
弁護士は淡々としていて、警察は疲れた顔で、世間は楽しそうだった。
里帆は意味を全部は分かっていなかった。
それでも学校で何か言われたことだけは分かっていた。
帰ってきて、靴を揃える手が小さく震えていた。
「お姉ちゃん、もう外には行かない方がいい?」
私は笑って「大丈夫」と言った。
その「大丈夫」も、誰にも届かなかった。
ある夜、お母さんはいつも早く寝ているはずなのに起きていた。
お父さんがいない部屋は広くて、空気が冷たくて、音が吸われていた。
お母さんは台所に立っていて、私は何かを言おうとしたけれど、言葉が出る前に振り向いて笑顔を向けてくる。
「大丈夫。疲れてるだけよ」
その笑いは数ヶ月後に消えた。
そして私だけが1人生き残った。――そう生き残ってしまった。
お母さん、お父さん、里帆は追い詰められた末に亡くなった。
私は喫茶店である人を呼び出した。
向かいに座っていたのは週刊誌の記者だった。
「これが不正の流れと不倫の証拠です」
私は一枚ずつ、紙を置いた。
口頭説明はしない。
記者が理解できるかどうかも気にしない。
「そして五年前のとある事件の資料です」
次に出したのは別の資料だった。
辻本恒一という名前。
殺人事件。
犯人。
「真犯人の名前も書いてます。ボイスレコーダーもあるので」
その名前を出した瞬間、記者の指が止まった。
私は続ける。
「証拠は揃っています。
供述、改ざんされた証拠の流れ、当時の関係者の証言」
「あなたは……」
記者が何か言いかけたけれど、私は首を振った。
「私は辻本という姓は捨ててるので、何者でもありません」
これでやっと達成できる。
荒井とはしばらく会っていなかった。
連絡も減り、彼からの言葉は短くなっていった。
けれど私は待たない。
準備はもう整っている。
あの夜のあと、ほんの数日。
私たちは再び会った。
前と同じように彼の車で。
「久しぶりだな」
「お忙しかったんですよね」
「まあな。お前に悪いと思ってた」
「そんなこと、ないです」
言葉の重さはもう軽い。
彼の中では関係が「日常」になり、触れることも呼吸の一部みたいになっている。
部屋に入っても、彼はもう緊張しない。
慣れた手つきでジャケットを脱ぎ、「いつも通り」の夜を始める。
その数日後、私は静かに動いた。
机の上には雑誌が一つ。
その内容は単純だった。
ーー衝撃!!カリスマ経営者が不倫!?さらに不正も働いていた!!五年前の真相とは?ーー
その後の報道は早かった。
見出しは断定的で、容赦がない。
港湾開発の不正、監査逃れ、関係者の証言、不倫、売春への斡旋、五年前の冤罪事件の真相。
荒井和弥という名前の隣には並ぶはずのない言葉が並んでいた。
テレビやSNSでも荒井和弥の顔は曇りのない悪人として映し出されている。
数日後、ニュースの速報で知る。
ーー荒井和弥氏が自宅で死亡。
自殺とみられる。
報道は短く、冷たかった。
【スキャンダルと不正に追い詰められた男】
そう締めくくられていた。
私は画面を見つめ、一度だけ深く息を吐き出す。
やっと終わったんだ。
お母さん、お父さん、里帆。長い間、待たせてごめんね。私がお父さんの罪を晴らしてあげたから。
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