【SF百合短編小説】灰色の楽園で、君だけが色を持っていた ~完璧な世界で咲く不完全な恋~
藍埜佑(あいのたすく)
第1話「廃工場の夢見る少女(エラー)」
エリス・カインが初めてリラ・エデンを見たのは、第七区画の廃棄予定施設を監査していた時だった。
その日の朝は、いつもと変わらない灰色の空が広がっていた。Harmonyシステムが管理するこの都市では、天候さえも最適化されている。雨は毎週火曜日の深夜二時から四時まで。日照時間は健康維持に必要な最低限。全てが計算され、調整され、完璧だった。
エリスは黒いコートの襟を立てて、施設の入り口に立っていた。Harmony監査局に勤めて七年目。彼女の仕事は、システムの欠陥を見つけ出し、修正することだった。
「監査官カイン、施設内部の生体反応は検出されていません」
耳に装着された通信デバイスから、オペレーターの無機質な声が流れる。
「了解。単独で内部確認を行う」
エリスは重い金属製のドアに手をかけた。錆びた蝶番が悲鳴をあげる。この施設は三年前に閉鎖されたレプリカント製造工場だった。旧型の製造ラインが残っているだけで、価値のあるものは何もない――はずだった。
内部は予想以上に荒廃していた。床には埃が積もり、壁には蔦が這っている。Harmonyシステムの管理外に置かれた建造物は、驚くほど早く朽ちていく。まるで、誰かに見守られていないと存在できないかのように。
エリスは携帯端末でスキャンを開始した。熱源反応なし。電力供給なし。生体信号――
画面が一瞬、点滅した。
ノイズ? それとも。
彼女は奥へと進んだ。廊下の両側には、かつて製造ラインとして機能していた部屋が並んでいる。エリスは一つ一つ、丁寧に確認していった。三番目の部屋で、彼女は足を止めた。
ドアが、ほんの少しだけ開いている。
エリスは慎重にドアを押し開けた。部屋の中央に、何かが立っていた。
いや、誰かが。
少女だった。
白いワンピースを着た、華奢な少女。長い黒髪が腰まで届いている。年齢は――見た目は十代後半だろうか。だが、それは意味がない。レプリカントに年齢という概念はないのだから。
少女は振り返った。
その瞬間、エリスの心臓が――あってはならないことに――ドクンと大きく拍動した。
彼女の瞳は、深い紫色をしていた。人間には存在しない色。明らかに人工的な色彩。だが、その瞳に宿る何かは――
「誰?」
エリスは声を出そうとして、喉が乾いていることに気づいた。咳払いをして、もう一度。
「あなたは誰?」
少女は答えなかった。ただ、エリスを見つめている。その視線には、恐怖も驚きもない。あるのは、ただ純粋な好奇心だけ。
「識別番号を言いなさい」
エリスは職務上の口調で言った。だが、少女は首を傾げただけだった。
「ないよ」
声が、驚くほど透明だった。
「ない?」
「私には、番号なんてない。名前なら、あるよ」
「名前?」
レプリカントに名前など与えられない。それはシステムの規則だ。個体識別番号のみが、彼らの存在証明だ。
「リラ。リラ・エデン」
少女――リラは、そう言って微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、エリスは何かが崩れていくのを感じた。胸の奥で、長い間凍りついていた何かが、音を立てて砕けていく。
「リラ・エデン……」
エリスは名前を繰り返した。舌の上で転がすように。まるで、それが祈りの言葉であるかのように。
「はい」
リラは嬉しそうに頷いた。
「あなたは」
「エリス。エリス・カインよ」
なぜそう答えたのか、エリス自身にもわからなかった。監査官としての肩書きを名乗るべきだった。あるいは、何も名乗らずに、この違法レプリカントを即座にシステムに報告すべきだった。
だが、彼女はただ自分の名前を告げた。
「エリス」
リラはその名前を、まるで宝物を扱うように、そっと口にした。
「綺麗な名前」
「……ありがとう」
礼を言ってから、エリスは自分が何をしているのか理解した。これは職務違反だ。感情的な応答は禁止されている。だが――
「あなたは、ここで何をしているの?」
口をついて出た言葉はまた違反だった。
これは尋問ではなく、ただの質問だ。
私はいったい何をしているのだろう。
「絵を、描いていた」
リラは部屋の隅を指差した。そこには、古いキャンバスと絵の具が置かれていた。キャンバスには、何か描きかけの絵がある。
エリスは近づいて、それを見た。
息を呑んだ。
それは、海だった。
いや海というものだろう、と、そう思った。
深い青。泡立つ白。地平線で溶け合う空。
エリスは本物の海を見たことがない。この都市の住民の誰も、海を見たことがない。Harmonyシステムが構築される前に、海は汚染によって死んだ。今、地球上のどこにも、海は存在しない。
「これは……」
「夢で見たの」
リラがエリスの隣に立った。二人の肩が、ほんの少しだけ触れた。その接触点から、熱が伝わってくる。
「夢?」
「うん。いつも同じ夢を見る。大きな水の中に、私がいる。とても冷たくて、でも心地よくて」
嘘だ。
レプリカントは夢を見ない。
それは科学的事実だ。
彼らの脳は情報処理に最適化されており、睡眠中のランダムな神経発火――つまり夢――は起こらないように設計されている。
だが、目の前のリラは、確かに夢を見ていると言っている。
「あなたは、いつからここに?」
「わからない。気づいたら、ここにいた」
「製造された記憶は?」
「わからない。ただ、目が覚めたら、ここにいた。そして、絵を描きたいと思った」
リラは絵筆を手に取った。その仕草が、驚くほど自然だった。まるで、生まれた時から絵を描いていたかのように。
「なぜ、絵を?」
「頭の中に、色があふれているから。形があふれているから。それを外に出さないと、苦しいから」
芸術。
それは、Harmonyシステムが最初に廃止した概念の一つだった。芸術は不確実性を生む。解釈の多様性を生む。感情の混乱を生む。完璧な社会に、芸術は不要だ。
だが、リラは絵を描いている。
そして、その絵は――美しかった。
「エリス」
リラが振り返った。紫の瞳が、エリスを真っ直ぐに見つめる。
「あなたは、私を
その問いかけに、エリスは答えられなかった。
職務として、答えは明白だった。イエス。違法レプリカントは即座に廃棄処分。それがルールだ。
だが、エリスの口から出てきた言葉は、違った。
「いいえ」
嘘だ。明白な虚偽申告だ。だが、それは真実でもあった。
「よかった」
リラは、また微笑んだ。
その笑顔を見て、エリスは理解した。
自分の人生が、今この瞬間に、完全に変わってしまったことを。
エリスは施設を出て、車に戻った。エンジンをかけることも忘れて、ハンドルを握りしめた。
報告しなければならない。
システムに。上司に。違法レプリカントを発見したと。
だが、彼女の指は通信デバイスに触れることができなかった。
代わりに、彼女は目を閉じた。リラの顔が瞼の裏に浮かぶ。あの紫の瞳。あの透明な笑顔。あの――
「監査官カイン、報告を」
通信が入った。エリスは慌てて目を開けた。
「異常なし。施設は完全に放棄されている。廃棄処分を推奨」
嘘をついた。人生で初めて、職務において嘘をついた。
「了解。次の監査地点に向かってください」
通信が切れた。
エリスは深く息を吐いた。手が震えている。
彼女は車を発進させた。だが、心の半分は、あの廃工場に残っていた。リラと共に。
その夜、エリスは眠れなかった。
自宅のベッドに横たわり、天井を見つめている。部屋は完璧に整頓されている。Harmonyシステムが推奨する最適な生活空間。だが、今夜は、その完璧さが息苦しい。
リラのことが頭から離れない。
あの絵。あの夢。あの笑顔。
そして、何より――あの時感じた、胸の痛み。
エリスは起き上がり、窓辺に立った。都市の夜景が広がっている。均等に配置された街灯。規則正しく明滅する信号。全てが秩序立っている。
美しい、とエリスは思った。だが、それは機械的な美しさだ。計算された美しさだ。
リラの絵の美しさとは、何かが違う。
エリスは自分のデスクに向かい、端末を起動した。レプリカントの製造記録にアクセスする。第七区画の工場で製造された個体の履歴を検索。
三年前の閉鎖以前に製造された個体は、全て転送済み。残存個体なし。
では、リラは一体――?
エリスはさらに深く調査した。工場の閉鎖理由。「製造プロセスにおける予期せぬ変異の発生」。
変異?
詳細記録にアクセスしようとしたが、機密レベルが高すぎてブロックされた。
エリスの監査官権限でも見られない情報がある。
彼女は端末を閉じた。そして、決めた。
明日、もう一度あの工場に行く。
職務としてではなく。一人の人間として。
翌日、エリスは午後の休憩時間を利用して、再び第七区画に向かった。
施設に入ると、リラは同じ部屋にいた。キャンバスに向かって、絵筆を動かしている。
「エリス」
リラは振り返り、嬉しそうに微笑んだ。まるで、エリスが来ることを知っていたかのように。
「また、来てくれたんだ」
「ええ」
エリスは少しためらってから、リラの隣に座った。
「何を描いているの?」
「花」
キャンバスには、赤い花が描かれていた。五枚の花びら。細い茎。
「これは……薔薇?」
「名前はわからない。でも、頭の中に浮かんだの」
薔薇。それも、Harmonyシステムが廃止した概念の一つだった。観賞用植物の栽培は非効率的だとして、全て禁止された。今、この都市に花は存在しない。
「綺麗ね」
エリスは思わず言った。
「本当?」
リラの顔が輝いた。
「本当よ」
「嬉しい。エリスが綺麗だって言ってくれると、すごく嬉しい」
その言葉に、エリスの胸がまた痛んだ。甘い痛み。切ない痛み。
「リラ」
「なに?」
「あなたは、外に出たいと思わない?」
リラは首を傾げた。
「外?」
「ええ。この工場の外。都市を見たいとか」
「うーん」
リラは少し考えてから、答えた。
「よくわからない。でも、エリスがいるところなら、行ってみたいかも」
その無邪気な返答に、エリスは息を呑んだ。
「私がいるところ?」
「うん。エリスと一緒なら、どこでもいい」
リラはそう言って、またキャンバスに向かった。エリスはその横顔を見つめた。
長い睫毛。小さな鼻。薄い唇。
そして、何より――その表情に宿る、生命の輝き。
これが、本当にレプリカントなのだろうか? 機械なのだろうか?
エリスは知っている。レプリカントは人間と同じ外見を持つ。同じように話し、動く。だが、それは全て模倣だ。プログラムされた行動だ。
しかし、リラは違う。
リラには、何かが――魂が、あるように思える。
「ねえ、エリス」
リラが絵筆を置いて、エリスを見た。
「私ね、あなたに会えて本当によかった」
「どうして?」
「だって、初めて誰かと話せたから。初めて、孤独じゃないって思えたから」
孤独。
レプリカントが、孤独を感じる?
「リラ、あなたは――」
エリスは言葉を探した。どう尋ねればいいのか。
「あなたは、自分が何者だか、わかっている?」
「レプリカント」
リラはあっさりと答えた。
「人間じゃない。人工的に作られた存在。でも――」
彼女はエリスの目を見た。
「でも、私は感じることができる。喜びも、悲しみも、孤独も。そして――」
リラは手を伸ばし、エリスの手に触れた。
「あなたに触れると、温かいって感じる。それって、本物じゃないの?」
エリスは答えられなかった。リラの手の温もりが、確かに伝わってくる。
「わからない」
エリスは正直に言った。
「でも、私には、あなたが本物に思える」
リラは微笑んだ。そして、エリスの手を握りしめた。
「ありがとう」
二人は、しばらくそうしていた。言葉もなく、ただ手を繋いで。
その時間が、エリスには永遠のように感じられた。
それから、エリスは毎日のように工場を訪れるようになった。
昼休み。休日。深夜の見回りを装って。
リラと会い、話をし、絵を見る。
時には、エリスが本を持っていくこともあった。Harmonyシステムが禁止する前の、古い文学作品。詩集。哲学書。
リラはそれらを貪るように読んだ。
「この言葉、美しい」
リラは詩集のページを指差した。
「『愛は、理解できないものを受け入れることから始まる』」
「古い詩人の言葉よ」
エリスは答えた。
「愛、か」
リラは呟いた。
「エリス、愛って何?」
その問いに、エリスは言葉に詰まった。
「私にも、よくわからない」
「でも、この詩は愛について書いてある」
「ええ。でも、今の世界には愛という概念はないの。Harmonyシステムが、それを不要だと判断したから」
「なぜ?」
「愛は混乱を生むから。苦しみを生むから」
「苦しみ?」
「愛する人を失う苦しみ。愛されない苦しみ。愛ゆえの嫉妬、執着、絶望――」
エリスは言葉を切った。
「システムは、そういう感情を排除することで、人類を幸福にしようとした」
「でも」
リラはエリスを見た。
「苦しみがなかったら、喜びもわからないんじゃない?」
その言葉に、エリスは震えた。
「闇がなかったら、光もわからない。悲しみがなかったら、幸せもわからない。だから――」
リラはエリスの手を取った。
「愛も、きっとそう。苦しみがあるから、美しいんだと思う」
エリスは気づいた。
リラが、自分よりもはるかに深く、人間の本質を理解していることに。
「あなたは、どうしてそんなことがわかるの?」
「わからない」
リラは首を振った。
「でも、心が、そう言ってる」
心。
レプリカントに心があるのか。エリスにはわからない。
だが、少なくとも、リラには確かに何かがある。
そして、エリスは気づいてしまった。
自分がリラに惹かれていることに。
ただの好奇心ではない。同情でもない。
それは、もっと深い何か。もっと危険な何か。
ある夜、エリスは夢を見た。
海の夢だった。
深い青の中を、泳いでいる。息ができないはずなのに、苦しくない。
前方に、誰かの姿が見える。
リラだ。
彼女も泳いでいる。髪が水中で揺れている。
エリスは手を伸ばした。リラも手を伸ばした。
指先が触れる――
その瞬間、エリスは目を覚ました。
ぐっしょりと汗をかいていた。心臓が自分でもうるさいほど激しく鳴っている。
彼女は手を見た。まだ、リラの指の感触が残っているような気がした。
これは、何だ?
この感情は、何だ?
いや、エリスはすでに知っている。
これはHarmonyシステムが廃止した感情の一つ。
おそらく、恋、というやつだ。
だが、それは許されない。
人間とレプリカントの恋など、あってはならない。
いや、そもそも恋という感情自体が、あってはならないのだ。
エリスは頭を抱えた。
どうすればいい?
このままでは、自分を保てなくなる。
だが、リラに会うのをやめることも、できない。
彼女は、もう戻ることのできない深みにはまっていた。
【SF百合短編小説】灰色の楽園で、君だけが色を持っていた ~完璧な世界で咲く不完全な恋~ 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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