500年後の世界に転移したので、古代人として頑張ります。

ラズベリーパイ大好きおじさん

次元のずれ

その日、草壁蓮は大学の実験室で深夜まで研究に没頭していた。


「これで…最後の接続だ」


工学部三年生の蓮は、量子もつれを用いた新たな通信方式の実験装置に、細心の注意を払いながら配線を完了させた。時計は午前二時を回っている。キャンパスは深い静寂に包まれ、窓の外には都市の灯りが遠くに瞬いていた。


「起動試験、開始」


スイッチを入れると、装置中央の水晶が淡い青白い光を放ち始めた。設計通りだ。蓮はほっと肩の力を抜き、コーヒーカップに手を伸ばした。


その瞬間、装置が予期せぬ振動を始めた。


「え…?」


水晶の輝きが急激に強まり、周囲の空気が歪む。机の上の書類が舞い上がり、コーヒーカップが床に落ちて砕ける音が、奇妙に伸びて聞こえた。


「危な――」


蓮が後ずさろうとした時、光が全てを飲み込んだ。


視界が真っ白になり、身体が引き裂かれるような感覚。そして、意識が遠のいていく。


---


目を覚ました時、蓮が最初に感じたのは「柔らかすぎる寝心地」だった。


「ここは…?」


ゆっくりと体を起こす。頭が少し重い。記憶がぼんやりとしている――実験室、光、そして転落感。


彼の目に映ったのは、見知らぬ部屋だった。


壁は真っ白で、光源がどこにあるのかわからないのに、均一に明るい。窓らしきものはなく、代わりに一面のスクリーンが埋め尽くしていて、そこには流れるような幾何学模様が映し出されている。空調の音も、機械の作動音も一切聞こえない。完璧な静寂。


「病院…? でも、こんな病院あるか?」


蓮はベッドから降りた。床は温かく、足の裏に優しくフィットする。まるで生き物のような感触だ。


部屋のドアはノブも隙間もない一枚の壁のように見えたが、彼が近づくと、静かに滑るように開いた。


その向こうに広がる光景に、蓮は息を呑んだ。


「なんだ…これは…」


空中を、無数の浮遊ビークルが流れるように行き交っている。それらは金属と光の彫刻のようで、音もなく滑空する。建物はガラスと未知の素材でできており、有機的な曲線を描いてそびえ立つ。空は青いが、その青さがどこか人工的で、雲の動きが規則的すぎる。


人々は地上を歩いているが、その歩き方が「普通」ではなかった。皆、一定の間隔と速度で移動し、会話しているように見えても、口の動きが最小限で、表情の変化が少ない。服は皆同じようなデザイン――機能的なスーツのようなもの――で、個性を感じさせない。


「夢か…? それとも、実験の副作用で幻覚を見てるのか…」


蓮は自分の腕を摘んでみた。痛い。現実だ。


「とにかく…誰かに聞かないと」


彼は近くにいた中年の男性に声をかけた。


「すみません、ここはどこですか? どうやってここに来たのか――」


男性は蓮を見て、わずかに眉を上げた。それから、空中に指を滑らせるような仕草をした。何もない空間に、半透明のパネルが現れた。


「あなた、市民登録がされていませんね。初めてテクノポリスに来られたのですか?」


言葉は日本語だった。しかし、発音が少し平坦で、イントネーションが人工的だ。まるでAIが話しているような響き。


「テクノポリス…? いいえ、私は名古屋大学の学生で、実験中に――」


「名古屋?」男性の表情にほんの少しの混乱が見えた。「そのような地区名はデータベースにありません。あなたの服装も…古風ですね」


蓮は自分の格好を見た。大学のロゴ入りのジャージとジーンズ。周囲の人々と明らかに違う。


「ちょっと待ってください、今は何年ですか?」


男性はまた空中のパネルを操作した。


「西暦2525年です。もっとも、私たちは通常『新暦505年』と表現しますが」


蓮の脳裏に冷たい電流が走った。


2525年。500年後。


「そんな…馬鹿な…」


「あなた、おそらく『時空転移個体』ですね」男性の声に、少しだけ興味が混じった。「珍しい。過去十年間で七例目です。管理局に連絡しますので、その場でお待ちください」


男性が再び空中を操作すると、彼の目の前にもう一つのパネルが現れ、誰かとの会話が始まった。完全に蓮を無視している。


「あ、ちょっと――」


その時、遠くから低い音が聞こえた。見ると、流線型のビークルがこちらに向かって高速で接近している。銀色の機体に、青い灯りが点滅している。


ビークルが静かに着陸すると、側面が滑り開き、一人の人物が降りてきた。


女性だった。銀色の髪を肩までストレートに切りそろえ、青い瞳が冷たく澄んでいる。機能的なスーツを着て、左目に半透明のメガネのようなデバイスを装着している。年齢は十代後半だろうか。


彼女は蓮を見て、一瞬だけ目を見開いた。それから、空中にパネルを召喚し、何かを確認する。


「草壁蓮さんですね。私はアカデミア・テクノポリス管理局、第七課所属エージェントのアスカ・ミズハラと申します」


声は冷静で、感情の波立ちがない。


「あなたは時空転移現象によって、500年前の時代からこの学園都市へ転移したものと推測されます。身の安全のため、および時空パラドックス防止の観点から、あなたを保護させていただきます」


「ちょ、ちょっと待って!」蓮は思わず声を荒げた。「何の話ですか? 時空転移? パラドックス? 冗談でしょう、そんなこと――」


「冗談ではありません」アスカの声は変わらず平然としている。「あなたの服装、所持品、そして生体情報から分析した結果、99.87%の確率で21世紀初頭の人類です。今この場所で騒ぎを起こすと、市民に不要な混乱を与えます。どうか協力してください」


彼女の言葉は丁寧だが、その裏には「拒否は許されない」という意志が感じられた。


蓮は周囲を見回した。人々がちらほらと視線を向け始めている。彼らは一様に興味深そうな、しかしどこか冷淡な目で見つめている。


「…わかった」蓮は諦めたようにうなずいた。「でも、説明をしてくれますか?」


「管理局へ移動した後、詳細な説明をいたします」アスカはビークルへと手招きした。「こちらへどうぞ」


---


ビークルの内部は、外見から想像するより広かった。座席は人間工学に基づいて設計されているようで、身体に自然にフィットする。窓はなく、代わりに周囲の風景が360度映し出されている。


「目的地まで三分です」アスカが淡々と言った。「その間に、いくつか質問させてください」


彼女はメガネ型デバイスに触れながら、空中に情報パネルを表示させた。


「まず、転移前の最後の記憶について。具体的な状況を教えてください」


蓮は実験室での出来事を話した。量子もつれの実験、装置の暴走、光――。


アスカは無表情に聞き、時折パネルにメモを取る。


「了解しました。次に、あなたの所持品について」


彼女は蓮のポケットを指さした。


「あの中にある物体は何ですか?」


蓮はポケットからスマートフォンと財布、鍵を取り出した。


「スマホと、財布、家の鍵です」


「『スマホ』…『スマートフォン』のことですね」アスカは初めて、わずかに目を輝かせた。「実物を初めて見ました。歴史資料では頻繁に登場しますが、現存する実物は極めて稀です」


彼女は慎重に、しかし興味深そうにスマートフォンを見つめた。


「この『家の鍵』も…金属製の物理鍵ですか。現在では全て生体認証か量子暗号鍵に置き換わっています」


蓮は自分の持ち物が「歴史的遺物」として扱われている事実に、複雑な気持ちになった。


「他に所持品は?」


「ええと…」蓮はジャージのポケットを探り、ライターと一冊の文庫本を見つけた。「これくらいです」


「ライター…」アスカは一瞬、理解できない様子だったが、すぐにデータベースを検索した。「ああ、『局所的な酸化反応を手動で制御する原始的な発火装置』ですね。実用性はありませんが、文化的価値は高いでしょう」


そして彼女の目が文庫本で止まった。


「これは…紙の書籍ですか?」


「夏目漱石の『こころ』です」蓮は本を差し出した。「読みかけでした」


アスカは文字通り息を飲んだ。彼女は慎重に本を受け取り、表紙を撫でるように触れた。


「紙の質感…インクの匂い…」彼女の声に、初めて感情の揺らぎが現れた。「デジタル化されたテキストでは再現できない要素です」


彼女は一瞬、我を忘れて本に見入っていたが、すぐに咳払いをして冷静さを取り戻した。


「失礼しました。これらは全て重要な証拠品となりますので、一時的に預からせていただきます。分析後、可能な限り返却いたします」


ビークルがゆっくりと減速し、着陸した。


「到着しました。管理局・第七課支部です」


ドアが滑り開くと、そこには白色を基調とした、清潔で無機質なロビーが広がっていた。人々が忙しそうに行き来し、空中には無数の情報パネルが浮かんでいる。


アスカが蓮を案内しながら説明する。


「まずは医療検査を受けていただきます。500年の時間差があるため、病原体に対する免疫がない可能性があります。また、生体情報の登録も必要です」


検査室では、ベッドに横たわるだけで、全身スキャンが完了した。痛みもなく、ほとんど感覚すらなかった。


「異常なし。免疫系は若干脆弱ですが、隔離措置は不要と判断します」医師らしき人物が告げた。


次の部屋では、アスカが椅子に座るよう指示した。


「では、このデバイスをお借りします」


彼女は蓮のスマートフォンを取り出し、特殊な接続端子につないだ。


「データの抽出を行います。あなたの個人情報、連絡先、保存されているメディアなどは、あなたの出身時代を理解する貴重な資料となります」


画面が点滅し、無数のファイルが流れていく。蓮は自分のプライバシーが全て公開されることに不安を感じたが、今更抗っても仕方ない。


「興味深い…」アスカが呟いた。「あなたの『SNS』と呼ばれるコミュニケーションツール、『インターネット』の利用履歴…これらは私たちの『ニューロネット』の原始的な形態ですね」


彼女は一心不乱にデータを分析している。その様子は、科学者が珍しい標本を観察しているようだった。


分析が終わると、アスカは少し間を置いてから言った。


「草壁さん。あなたはおそらく理解しているでしょうが、あなたの存在はこの世界にとって極めて特殊です」


「…そうですね」


「500年の時を超えた転移は、歴史上七例確認されています。しかし、その全てが『一方向』です。戻った者は一人もいません」


蓮の胸が締め付けられる。


「つまり…私はもう、元の時代には戻れない?」


「現時点の技術では、不可能です」アスカの声は冷たいが、その目にはかすかな同情のようなものが浮かんでいた。「しかし、あなたのようなケースに対しては、『時空転移個体保護法』が適用されます。この学園都市で生活し、研究に協力していただく代わりに、衣食住と最低限の権利が保証されます」


「研究に協力…?」


「はい。あなたの知識、特に『失われた技術』に関する知見は、私たちの歴史研究にとって貴重です。また、あなた自身の『古の思考パターン』が、現代の問題解決に新しい視点をもたらす可能性もあります」


アスカは空中にパネルを表示させ、いくつかの条文を示した。


「明日からは、あなたの適性を評価するためのテストが始まります。その結果によって、学園への編入や研究機関への配属が決定されます。今日はこちらの宿泊施設で休んでください」


彼女は廊下を案内し、一つの部屋の前で止まった。


「これがあなたの一時的な部屋です。必要なものは全て揃っています。夜食は自動配膳システムで提供されます。何かあれば、このインターホンで呼び出してください」


ドアが開き、中を見せた。先程の部屋と同じく、無機質で清潔な空間だ。


「アスカさん」蓮は振り返って尋ねた。「一つだけ聞いていいですか?」


「何でしょう?」


「この世界…人々の様子がどこか変です。感情の起伏が少ないというか、まるでロボットのように見えます。それはなぜですか?」


アスカは少し考え込む様子を見せ、それから答えた。


「私たちは『ニューロリンク』によって常時ネットワークに接続しており、感情の最適化が行われています。不必要な感情的乱れは、思考効率を下げるため、抑制されるのです」


「感情を抑制する…? それで幸せなんでしょうか?」


その質問に、アスカはわずかに目を見開いた。彼女の表情に、ほんの一瞬だけ、何かがよぎった。


「『幸せ』という概念も最適化されています。無駄な苦しみがないことが、最大の幸福だと定義されています」


しかし、彼女の声にはどこか空虚さが漂っていた。


「では、お休みください。明日の九時に迎えに来ます」


アスカが去り、ドアが閉じた。蓮は部屋の中央に立ち尽くし、周囲を見渡した。


全てが完璧に設計され、効率的に配置されている。しかし、そこには「生活の匂い」がなかった。人が住むというより、製品が展示されているようだ。


窓代わりのスクリーンには、人工的な星空が映し出されている。本物の星々は、この都市の光害と大気制御システムによって、もう見ることができないのだろう。


蓮はポケットを探った。ライターだけは返してもらっていた。


「ふう…」


彼はライターを手に取り、チャッカ音を立てて火を点けた。小さな炎が、真っ白な部屋の中で揺らめく。


この世界では「局所的な酸化反応の手動制御」が失われた技術だという。そんな当たり前のことが、特別なことになってしまう。


炎を見つめながら、蓮は考えた。


500年先の未来。全てが効率化され、最適化された世界。


しかし、その完璧さの裏側に、何かが失われている。火を手で灯す温もり。本のページをめくる感触。待ち合わせに遅れそうになって走る焦り――そんな「無駄」や「非効率」が、実は人間らしさの核心だったのではないか。


彼には、まだわからない。この世界でどう生きていけばいいのか。


ただ一つ確かなのは、彼が持っている「古の知識」が、ここでは稀有な価値を持つということだ。


スマートフォンが取り上げられ、財布の中身も没収された。しかし、彼の頭の中にある知識――インターネットの仕組み、プログラミングの基礎、電気回路の理論、そして何より「試行錯誤する能力」――これらは誰にも奪えない。


窓の外では、浮遊ビークルが音もなく行き交い、人々が最適化された歩調で移動している。


蓮はライターの火を消し、暗闇に目を慣らした。


「とにかく…生き延びないと」


彼はベッドに横たわり、天井を見つめた。


眠れそうにない夜が始まることを、彼は知っていた。


---


一方、管理局の分析室では、アスカ・ミズハラが一人、蓮の所持品を検査していた。


スマートフォン、財布、鍵、ライター、そして『こころ』。


彼女は特に本に目を留めていた。歴史資料では何度も見たが、実物を手に取るのは初めてだった。


彼女は周囲を確認し、ドアをロックした。それから、机の下の隠しパネルを開ける。中には、彼女の秘密のコレクションが収められていた。


20世紀の音楽が記録された「CD」、紙の写真、手書きの手紙、さらには「漫画」と呼ばれる印刷物まで。


彼女は蓮の『こころ』を、そっとコレクションの隣に置いた。


「草壁蓮…」


彼女は呟きながら、分析データを見つめた。


生体情報、脳波パターン、そしてスマートフォンから抽出された膨大な個人データ。


そこには、感情の起伏に満ちた、非効率で、矛盾だらけの人生が記録されていた。SNSでの愚痴、友人とのくだらない会話、深夜の食欲に負けて注文したラーメンの写真――全てが、この世界では「最適化によって排除されるもの」ばかりだった。


アスカはメガネ型デバイスを外し、目頭を押さえた。


彼女の目には、人工的な青い光彩が消え、本来の深い藍色が現れた。


「失われた時代の人間…」


その声には、職務としての冷静さではなく、個人的な興味がにじんでいた。


彼女は再びデバイスを装着し、表情を無に戻した。管理局の優秀なエージェントとして。


しかし、心の奥底では、ある期待が芽生え始めていた。


もしかしたら、この「古の人間」が、この完璧すぎてどこか空っぽな世界に、何かをもたらしてくれるかもしれない――。


そんな非合理的な希望を、彼女は密かに抱き始めていた。


分析室のスクリーンには、テクノポリス学園の全景が映し出されている。完璧に設計された都市が、静かに夜を迎えようとしている。


その街のどこかで、500年の時を超えてきた青年が、初めての未来の夜を過ごしている。


二つの時代の出会いが、やがてこの世界に小さな、しかし確かな波紋を広げていくことを、まだ誰も知らない。


---


次話予告:蓮は管理局のテストを受けることになる。そこで彼の「古の知識」が初めて発揮される時、アスカはある重大な決断を下すことになる――。第2話「管理対象M-07」へ続く。

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500年後の世界に転移したので、古代人として頑張ります。 ラズベリーパイ大好きおじさん @Rikka_nozomi

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