王様、それ絶対に脅し文句じゃなくて口説き文句ですよね?

桜庭 りつ

王様、それ絶対に脅し文句じゃなくて口説き文句ですよね?


私は、今まさに人生の岐路に立たされていた。

正面には玉座に片肘を預け、黄金の瞳で面白くもなさそうにこちらを見下ろす王様の姿がある。

一方、その右側には――脇の卓の上に鎮座した毒杯と立て札。

天井近くまで届く大きな窓から差し込む光が、王様をまばゆく照らし、グラスは光をはじき返している。


「選べ。俺の妃となるか、女神ユニスの御許みもとへ旅立つ栄誉を受けるか」


落ち着き払った声は無駄によく通り、玉座の間に反響する。

王様の後ろに護衛の騎士が二人立っている以外、人がいない。

沈黙が落ち、玉座の間はさらに広く感じられた。


……いや、待って。

ついさっき“託宣だ”とか言われて、半ば強制連行されたばかりなんだけど?

この二択ってどういうこと?

なんとなく理解はできる。

けれど、したくはない。


さっきまで、神殿で掃除していたというのにいきなり城に連れてこられ、湯浴みや着替えの世話を焼かれ、神官長に玉座の間まで引っ張ってこられた。

王様の顔なんて初めて見たし、妃だとか言われても実感の湧きようもない。

格好いいけど怖いんだよ、圧が。

神官長なんてどっかに消えてるしさー。

大体、これ二択じゃなくて一択じゃない?

私、まだ死にたくないし。

だって、十八歳よ?

人生まだまだこれからじゃない。


「驚きで声も出ぬか。わからぬではない。俺もまさか俺の妃が貴様のような小娘だとは思わなかったからな」


王様、普通に口悪いな。

顔はいいけど、そんなんじゃ女にモテないよ?

私もタイプじゃないよ?


冷たい眼差しが突き刺さって痛い。

好きでこんなところにいるんじゃないのに。

嫌ならやめればいいじゃない。

王様なんだから。


「なぜ自分なのだという顔だな。俺も知らぬ。巫女の託宣で、俺の妻は貴様だと出たと聞いた。だから呼んだ」


王の妃は、いつも女神ユニスに仕える巫女が受ける託宣により決められると聞いてはいたけれど、今までは貴族令嬢の中から選ばれていたはずだ。

なのに、なぜ孤児の私?

その託宣、間違っているのでは?


「……何度も確認させた。嘘ではない。貴様、すぐ顔に出るな。その癖は早々に直しておけ。見苦しい」


なんか、心の中全部見透かされてるんですけれど。

そして、やっぱり口が悪い。

既に乙女心がズタボロですよ。


「……あの、そのほかの選択肢は?」


私の言葉に、王様の右眉が上がった。

口角が上がっている。


「小娘。面白いことを言うな。それが今生最後の言葉で悔いはないのだな?」

「ないわけないでしょう!」


――終わった。

王様にツッコんでしまった。

私は視線を毒杯に向ける。

普通さ、毒杯ってわかっていてもワイン風とかそんな風にセットしない?

毒杯って札、立てておく必要ある?

入れ物は素敵なグラスだと思うけど、そこじゃないんだよ!


「あのグラスに入っているの、本当に毒なんですか?」


透明なグラスに注がれた赤い液体を見つめる。

少量しかないのが、やけに上品。

実は、高級ワインだったりとかしない?


「試してみるか? 止めぬぞ?」


王様の口元が弧を描く。

でも、金色の目が笑っていない。

冷ややかだ。むしろ、吹雪だ。


「いえ、遠慮します」

「賢明だな。これからは、己の発言に対して責任を持つようにせよ」


私はそっと上目遣いで王様の姿を観察する。

白いシャツにベルベットの赤いジャケット。

黒いパンツ。

細身ながら、鍛えられた体つきだとわかる。

私が掃除婦として働いていた神殿にも騎士団があったから。

背中あたりまである、首の後ろで一つに束ねた明るいブロンドの髪と、少し濃い金色の瞳。

美しい、とは思う。

そして、その美しさが余計に怖い。


「十分に時間は与えた。さぁ、選べ、小娘。選択するのは貴様だ。その後は保証せぬがな」


この『俺を選ぶのが当たり前だろう』感がむかつくのだが、それしか選択肢がない私は


「じゃあ、王様で」


と答え、


「小娘。王を相手に随分と不敬だな」


と、言いながらも不敵に笑う王様から目が離せなかった。



*  *  *



王様との結婚は、過酷以外の何ものでもなかった。

まず、孤児の私と結婚式を行うという。

それも、諸外国のゲストも招いて。


「王様、私マナーとか知らないんですが」

「知らないなら覚えれば良い。簡単なことだ」


いや、孤児の私になに要求してくれてんの?


「そりゃ、お貴族様は既に教養がおありでしょうから難しくないかもしれませんが、私、せいぜい字が書けたり読めたりする程度ですよ? わかってます?」

「覚えるまで寝られぬと思え。その場限りの作法で十分だ。すぐ終わる」


あれから私たちは王様の執務室へ移動した。

さすがに玉座の間ほど豪奢で広くはないが、一枚板の厚いテーブルや猫足のティーテーブル。

ふかふかそうな大きなソファー。

どれもが傷つけたら首が飛びそうだと思えるものばかりだった。

今も、王様は目の前で机の上に積まれた書類に目を通していて、私に目を向けようとすらしない。


「それは、できる人の言葉ですよ。言っておきますが、私は孤児にしてはできる方です。王様とは物差しが違います」


この男、偉すぎて本当になにもわかっていない。

私は、目の前にいる私の夫になるらしい人間の正式な名前すら知らないのだ。

怖すぎて言えないだけで。


「やかましい。孤児だと連呼しなくても知っている。貴様の身辺調査書にも目を通した。その上で言っている」


意外だった。

王様、本気で私と結婚する気だったのか。


「文句を言う暇があれば、まずは式の順序を覚えろ。必要な書類はそこに用意してある。明日からは講師もつけるゆえ寝坊するなよ」


いつの間に来たのか、私の隣にいた王様の側近らしい男性が、私にそっと書類の束を渡してくれる。

私はその書類を素直に受け取り、目を通してみた。


「……字が難しくて読めません」


聞こえる深いため息。

それでも、こちらに目を寄越さずに書類にサインし続ける王様。


「今夜中に貴様でも読めるように書き直させる。今日はもう下がって良い」


私たちの結婚は、どうあっても覆らないようだった。



*  *  *



人間って、限界を迎えると言葉を失うのね。

知らなかった。

講師がつけられてから私が口にした言葉は、


「おはようございます」

「ごきげんよう」

「さようでございますか」

「素敵ですわね」


そして、


「申し訳ありませんでした」


多分、これだけ。

おしゃべりで神殿内でも有名だった私がよ?

講師だという、化粧が濃く、香水の匂いがきついおばさんも、王様みたいに圧が強い人だった。


「そこは、先ほどお伝えしたはずですが?」

「まぁ、とても器用に転ばれるのですね」

「淑女に必要なものは微笑みですよ。顔芸ではございません」


そりゃまぁ、散々だったね。

王様に深いため息をつかれた後、今まで触れたことすらないくらいふかふかの温かいベッドでぐっすり寝た私。

仕方ないしやるかー!と、昨日読めなかった結婚式の順序について書いてある紙を眺めても、ちんぷんかんぷん。

確かに読めるようにはなっていたけれど、書いてあるものの意味がわからない。


儀典ってなに?

迎賓?

これは聞いたことはあるような……?


与えられた広い部屋で、弾力のある布製のソファーに座りながら辞書を片手に意味を調べる。

書類と一緒に辞書が用意されていた意味がわかったわ。

かえって用意が良すぎて怖いよ、王様。


書類を眺める私に、器用に着替えをさせる侍女たち。

そして、見たことがない料理がいっぱい並んだテーブルに、どうやって使えばいいのか分からないナイフやフォークをなんとか駆使して朝食完了。

片付けが終わった途端、やってきたのが講師のおばさんだった。

デュポン夫人とか言っていたけど、貴族の偉い人なんだろうなーってことしかわからない。


「ナイフやフォークは、外側に配置されているものから使うものです」


昼食時。

テーブルマナーの授業だと言って、小さめの食堂で眼光鋭いデュポン夫人の向かいに座らされた私。

ダメ出しの嵐に、食欲を完全に失う。


「ソースを口の端に残すなんてはしたない」

「申し訳ございません」

「食事中は極力音を出さぬようお伝えしませんでしたか?」

「申し訳ございません」


黙礼し、口の端がわずかに上がる程度に微笑……めない!

いや、もうなんかおなか一杯です。

テーブルの上にあるもの全てが拷問器具に見えてくる。

まだメインのお肉も出てこないけれど、既に胃もたれしているよ。


「申し訳ございません、デュポン夫人。私、今はあまり食欲がないようでして」

「……そうですの。でも、その方がよろしいかもしれませんわね。ドレスを着ることを考えたら今のままでは……苦しそうですものね」


なに、そのテーブル越しの私の腹回りに向ける視線は。

庶民はこれくらいが普通なのよ!

私は特別やせているわけじゃないけれど、悲観するほど太ってもいないのよ!


ほとんどなにも食べられないまま昼食を終え、デュポン夫人は、


「では、また明日。ごきげんよう」


と言い残し去って行った。

夫人を見送った私は、口角をわずかに上げたまま、ぎこちない笑みを貼り付けて部屋に戻る。

鏡を見たら、ハーフアップなるものにセットしてもらった茶色い髪に、同じく茶色い瞳をした私の顔が映っていた。

口角を上げているつもりが、中途半端で我ながら面白い顔になっている。

でも、笑う気力も出ない。

目が、死んでいた。

……これで『妃』になれって、無茶にもほどがある。


「今からでも毒杯を飲めるのかな……」


思わず口にして、口元を手で覆う。

なんてことを言ったの、私!

私の背中を同じ孤児院出身の子たちが見るのだ。

こんな考え方、絶対ダメ!


「そうよね。その前に逃げ出せばいいんだものね!」


神殿には戻れなくても、私は読み書きができる。

それだけで、街中では働けるはずだ。


部屋に備え付けられているベランダに出て、まだ空高い太陽を仰ぐ。

城からは、町並みが見下ろせた。

私が育った孤児院も、昨日まで働いていた神殿も遠目に見える。

そこに住んでいる人たちの営みが感じられて、呼吸が楽になった気がする。


振り返れば、白い壁紙にベージュのキャビネットやダークブラウンのテーブル、天蓋付きのベッドが備わった部屋が見える。

壁にはドアがあり、その向こうは夫婦の寝室につながっているのだという。

昨日開けようとしたら、鍵がかかっていて開かなかった。


「広いな……」


こんな部屋に、一人でいたことがない。

孤児院でも神殿でも私は大部屋で生活していた。

ベランダの向こうとは違い、音のない空間にいたたまれなくなったとき、ガチャリとドアが開く音が聞こえた。


「まさか、そこから飛び降りる気ではあるまいな?」


昨日、鍵のかかっていたドアから王様が出てきた。

私を観察するように上から下まで目線を動かす。


「そんなところに立っていないでこっちへ来い。俺の休憩に付き合え」


王様は相変わらず偉そうで。

でも、心なしか口調が柔らかかった。

今日は白の上下に金色の装飾が施されている。

なにを着ても似合う人なのだろう。


「よもや俺の言葉が聞こえなかったのか?」


不審げな眼差しに私は慌てて王様の側へ行く。

まだ、名前も知らない王様。

ベランダからの光を浴びた金色の髪は三つ編みにされていて、思わず触ってみたい気持ちが疼く。


「チョコレートを用意させてある。食べたことはあるか?」

「ないです」

「だろうな」


知っているなら聞くな!

そう思ったとき、一人じゃないことを実感する。


「まずはそこに座れ」


部屋にセットされていたソファーに座った王様が、テーブルの向かいにある席を目で示す。

私が大人しく座ると、ベルを鳴らして侍女を呼んだ。

彼女たちは、私が無言のうちにチョコレートを並べた皿に紅茶を入れたカップを並べ去って行く。


「俺の妃になるのだ。無理をしてもらわねばならぬ。だが、無理に笑う必要はない」

「え?」


一々言い回しが難しいって、王様。

もっとわかりやすく言ってよ。


「無理を強いているのは承知している。そして、その見返りを貴様は求める権利がある」

「どういうことですか?」

「多少は、息抜きに付き合ってやると言っている」


不機嫌そうに眉間に皺を浮かべて、チョコレートをほおばる王様。

私もチョコレートをつまみ、口に放り入れる。

甘くて苦い、不思議な味。


「息抜き……。じゃあ、髪を触らせてもらっていいですか?」

「髪?」

「そうです。王様の髪。サラサラで綺麗そうなので」


胡乱げに私を見つめる彼に、私は教えられた口元を緩く上げる動作をしてみる。

私、頑張っているでしょ?

そう、訴えかけるように。


「だから、無理に笑うなと……。まぁ、良い。好きにしろ」

「ありがとうございます!」


努力がちょっと認められたようで。

気になっていた三つ編みを解いてみたくて。

私は迷いなく王様の髪に手を伸ばし、解いた。


「うわーっ、やっぱり綺麗! サラサラ!!」

「耳元で騒ぐな、小娘!」


王様はやっぱり俺様だったけど、私の手をふりほどこうとはしなかった。



*  *  *



三つ編みを解いたあの日から、私は王様のヘアメイク係に就任した。

王様の髪はサラサラでツヤツヤで、触っていて心地が良い。

私がヘアメイクしている間、王様はいつも不機嫌そうだけど「やめろ」とは言わなかった。

だから、私は今日も椅子に座った王様の後ろに立ち、背中まである金色の髪を櫛ですく。


「今日はどうしましょうか?」

「任せる」

「えー? たまにはなにかないんですか? ハーフアップにしたいとか」

「小娘、俺は貴様の遊び相手をしている暇はないのだが?」


眉間に皺を寄せながら、王様が冷たく言い放つ。

まぁ、もう慣れたもんだけれどね!

彼が、私を気に掛けてくれているのも気づいている。

だから、もう少ししたら言おうと思っているのだ。


「私、実は白馬に乗った優しい王子様がタイプなんです」


と。

少しは性格直んないかな?

――直んないな。


「今日もデュポン夫人が来るんですよ」

「そうだな」

「私、ちゃんとナイフとフォークでお肉切れるようになったのに」

「当たり前だ」


一か月。

私はデュポン夫人の講義を受け続けている。

正直、メンタルが死ぬかと思った。

でも、私にはご褒美がある。

王様の髪を好きにできる豪華特典だ!

しかも、マナーにこだわらなくてもいい、おやつの差し入れもある。

だから、今日まで頑張れた。


「デュポン夫人、お庭のバラが好きなんだそうです」

「そうか。では今日手土産に持たせてやれ。庭師に伝えておく」

「ありがとうございます!」


デュポン夫人だって、他に社交もあるはずなのに私に付き合い続けてくれた。

これも、王様が私に教えてくれたことだ。


「貴族の夫人は茶会の主催など家の仕切りの他にもやることは山ほどある。本来は、貴様のような小娘に手を割かせるような者ではない」


王様の氷のような声で言われたときはショックだったけど、この言葉のおかげで私は夫人の言葉に従えるようになった。

時間は有限なのだ。

私も、相手も。


「ねぇ、王様」


私は王様の髪を結局束ねるだけにして、リボンを選びながら話しかける。


「なんだ」

「もし、また女神様の託宣が来て、実は王様のお嫁さんは違う人だったって言われたら、私は神殿に戻れますか?」


王様の顔は見なかった。

窓から入る陽光を浴びた横顔。

シトラスの香り。

どれもが私には眩し過ぎる。


「そのようなことは起きぬ。起きぬ話をするのは時間の無駄だ」


その物言いが王様らしくて、私は安心してしまった。



*  *  *



「……あなた、本当にシリウス様のお名前をご存じなかったの?」


私の部屋のテーブルの前。

呆れて口が開きっぱなしのデュポン夫人の言葉に、私はただただ縮こまっていた。

今日、意を決して聞いてみたのだ。

王様の名前を。


「シリウス・アークライト様です。あなたの未来の夫ですよ? これまでどうやって会話していらしたの?」

「私が『王様』と呼んで、王様は私のことを『小娘』か『貴様』としか言いません」


デュポン夫人の目が見開かれた。

口元を押さえることすら忘れている。

でも、これが事実。

そして、不思議とこれで会話が成立するのだ。


「多分、王様も私の名前は知らないんじゃないかと思います」

「そのようなわけがないでしょう!」


即座のツッコみに私はびくっとしてしまった。


「でも、呼ばれたことありませんし」

「それは……私が口を出すことではありません」


逃げたな。

そっと顔を背ける夫人を私はじっと見つめる。


「ともかく。自分の妃となる方の名前を知らぬなど、あの方にとってはあり得ません。そもそも、巫女の託宣で告げられているのですから」

「そうなんですか?」


初めて聞いた。

でも、考えてみればそうか。

私は巫女の託宣で城に連れてこられた。

託宣の内容が『王の妃は神殿に掃除婦として勤めている十八歳の女』とは考えにくい。


「知ってたんですか」

「知っているでしょうね」


なら、なんで私はいつまでたっても『小娘』なのだろう?

チクリと、胸が痛んだ気がした。



*  *  *



考えたって答えは出ない。

鏡の前で夜のお手入れをしながら、私は王様の部屋へ行くことに決めた。

だって、気になる。

王様は本当に私の名前を知っているのだろうか?

知っていて、今まで一度も口から出たことがないってあり得る?

――あり得るな、王様だから。


「いいや、考えても無駄だって王様も言ってたし」


多分。

私は夜着にガウンを着て廊下へ出る。

長い廊下は、ろうそくの明かりだけが揺れていて、不気味だった。

たまに巡回の人が来るらしいのだけれど、私は寝ているので気づいたことがない。


自分の部屋の隣の隣が王様の部屋だ。

普通は結婚前の私みたいな人間は客間を使うそうなのだが、王様が『手間が増えるだけだ』と、今の状態にしたらしい。


「シリウス・アークライト様」


小さく、呟いてみる。

ちょっと格好いいかもしれない。

ちりちりと燃えるろうそくの音を聞きながら、私は夫婦の寝室の前を通る。


夫婦。

寝室。


今まで意識したことはなかったけれど、これはもしかしてもしかしたらもしかするんじゃないの!?

だって、夫婦って――


「いや、考えなくていい。使うと決まったわけじゃないし」


あんなに綺麗な人が私に触れるだなんて、どうにも実感湧かないし。

ドクンと大きく響いた胸の音を無視して、私は廊下を歩く。

長い、長い廊下。

王様の部屋のドアの前に立ち、深呼吸をする。

来たのはいいが、これからどうすればいいだろう?

ノックをする?

声を掛ける?

もしかしたら、政務で疲れているかもしれない。

寝ている可能性だってある。


「やっぱり、帰ろうかな」


王様が私の名前を知っていようといまいと、なにかが変わるわけじゃない。

呼ばれなければ、意味はないのだ。


「ばっかみたい」


呟いて、踵を返す。


「その通りだな。人の部屋の前でなにをしている。不審者め」


ガチャリとドアが開き。

振り返ると王様が目の前に立っていた。


ろうそくの明かりの下でも艶の分かる金の髪。

猫みたいな綺麗な金色の瞳。

背が高いから、完全に見下ろされている。


「え? なんで!?」


私はデュポン夫人のもとで必死の努力をした結果、淑女としての歩き方で合格点をもらっている。

しかも、廊下のカーペットはふかふかだ。

それなのに、どうして?


「貴様の雑な気配に気付かぬわけがなかろう」


腕を組んでドアに寄りかかる王様。

休む前だったのか、シャツにズボンとラフな姿だった。

夜着がひらひらのフリルとかじゃなくて良かった……って、なにを考えているんだ私は。


「用があるなら入れ。少しなら時間を割いてやる」


顎でクイと自室を示し、私を促す。

本当に偉そうだ。

いや、偉いんだけど。


「それでは、失礼します」

「随分行儀が良くなったな。小娘」


鼻で笑われた気がしてちょっとカチンと来たが、夜に押しかけたのは私の方だ。

入れてくれただけで良しとしなくては。


「なんで、あんなに書類が積まれているんですか?」


ここ、執務室じゃないよね?

私室の机であろう場所の上には、羊皮紙が存在感を放っていた。

ダークブラウンでまとめられた家具。

チェストの中には、立派な船の模型やお酒の瓶も見える。

カーテンはまだ開かれていて、お月様が見えた。

王様の部屋なのに王様っぽくない。

不思議と、そこに安堵する。


「仕事が終わらぬからに決まっておろう」

「まだ仕事してたんですか?」

「少しだけだ。あとは朝に目を通すだけで間に合う」


それって、働きっぱなしってことですよね?

確かに式が近くなってきて、私も忙しくなってきたけれど。


「それで、どうした? よもやなにも用がないのに来たなどとぬかさぬよな?」


だから、そこで圧を出さないでよ!

こんなに忙しくしてるなんて思ってなかったんだから!


「そこに座れ。酒……というわけにはいかぬか。水くらいは出してやろう」


王様の部屋の椅子に腰掛けるよう指示され、大人しく座る。

目の前に差し出されたお水も、王様が手ずからグラスに入れてくれたのだと思うとありがたさが増す気がする。

向かいでは、王様がグラスを傾けていた。

そんな姿すら様になる。


「なにがあった?」


私の迷いを確信しているかのような口ぶり。

冴えた眼差し。

私は目を伏せ、両手でグラスを掴み水を喉に流し込んだ。



*  *  *



「王様は、私の名前を知ってますか?」


よし、噛まずに言えた!

私は心の中でガッツポーズをする。

視線は、両手の中のグラスに落としたまま。


「なんだ? 今さら」

「いえ、呼ばれたことがないので、もしかしたら知らないのではないかと」

「そういう貴様こそ、俺の名を知らぬだろう」

「えっ!?」


びっくりして顔を上げてしまった。

つまらなさそうに酒を仰ぐ王様の姿がある。

そんなに勢いよく飲んで明日大丈夫なのだろうか?

ちらりと、机の上に重ねられた羊皮紙に目を向ける。


「ちゃんと、知ってますよ」


今日、デュポン夫人から聞いたから。


「ならば、なぜ呼ばぬ」


グラスになみなみと酒を注いでいる。

王様、さすがに飲み過ぎでは?


「恐れ多いので」

「なんだ、それは」


冷たい眼差しが私を貫く。

でも、しょうがないと思うの。

だって、私は孤児で神殿の掃除婦で王様と関わることなんて本当ならなかったのだから。


「貴様は、俺の伴侶になるということを本当に理解しているのか?」

「えーっと、多分」


理解しようとしかけて、止めた。

あまりそこをほじくり返さないでほしい。


「……そういえば、貴様ばかりが俺の髪に触れるのも公平ではないな」

「は?」


髪が今、なにか関係あった?

なんだか今夜の王様、ちょっと違う?

私が疑問に思っていると手が伸びてきた。

日に焼けた大きな手。

私の髪に触れて、口元に寄せる。


「ちゃんと手入れされているようだな」


王様が満足そうに呟く。

私は言葉を返せなかった。

え? なに? どうした?

私の髪の手入れを確かめるのに、なぜ口づけが必要なの?


「王様、もしかして酔ってます?」

「これくらいで酔うか」

「でも、もうその瓶半分くらいなくなってません?」

「構わぬ。次がある」


そういう問題じゃないと思うんだけどな。

私は、私の髪に口づけた王様の唇に視線が向かってしまい、慌てて逸らす。

王様にとっては大したことじゃないんだろうけど、神殿暮らしの私には破壊力が高すぎる。


「それで、王様。私の名前を知っているんですか?」

「知っている」


ドキドキうるさかった胸が静かになった。

そうか。

知っていて呼ばれなかったのか。

私は王様にとって『小娘』でしかなかったのか。


「マリアンヌ・アークライト」


優しい声音に、息が止まるかと思った。

さっきまで偉そうだった王様が、真っ直ぐに私を見ている。


「いえ、私の名前は……」

「これが、そなたの名だ」


揺るがぬ瞳、声。

頬杖ついて私を見て。

偉そうなのに、嬉しいのはどうしてだろう。

庶民に名字などない。

ただのマリアンヌだった私に、寄り添ってくれる人ができた証。


「本当は、まだ呼ぶつもりはなかったのだがな」


そう言って酒を仰ぐ頬が赤いのは酒のせいなのか、それとも――。


「王様って、意外と可愛いですね」

「貴様、鈍いと言われぬか? ここまでして、なぜわからぬ」


褒めたのに、なぜ貶される?

解せぬ。


「俺の名を呼んでみろ」


蠱惑的な笑み。

甘い声。

偉そうじゃないのに、不思議な圧がある。


「シリウス・アークライト様」


自然と、口が動いた。

目の前の笑みが、一段と甘くなる。


「今後はシリウスと呼ぶように。『王様』は禁止だ」


もしかして、もしかして。

王様ってば――


「拗ねてました?」

「貴様、死にたいのか?」


視線が一気に冷気を纏う。

けれども、そんなの気にならない。


「私、結婚式までにちゃんとマナーとか覚えますからね!」

「当然だ。俺の妻なのだからな」


呆れたようなため息。

そして、私の髪に再び伸びる手。


「!?」


手は、髪ではなく後頭部を包んだ。

私は前へと引っ張られる。

目の前には、深い笑みを浮かべたシリウス様の顔。


「忘れるな。女神の託宣は必然だ」


耳に届くその優しさが、甘さを含んだ毒のようにじわじわと私の体を蝕んでいく。


私たち、女神様に誓う前なんだけどな。

でも、シリウス様ならいいかな。

そう思いながら、私は静かに目を閉じた。


ねぇ、シリウス様。

もし、また玉座の間に引っ張られてあなたの前に立たされたら。

今度は、私から飛びついてあげる!




※本作は、小説家になろう様にも掲載しています。

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