第4話 失踪届:存在しない住民
朝の庁舎は混んでいた。年末の窓口は、急ぎの用件が増える。住民票、印鑑証明、転出入。番号札の紙が切られる音が止まらない。人の声が重なり、空気の温度が上がる。
夢葬相談室は静かだった。静かだが、静けさは隔離の静けさだ。壁時計は三時三十三分のまま。見ないようにしても、そこにある。
係長が僕を呼んだ。
「警察に行く。同行」
「はい」
同行の理由は口にしない。理由を口にすると、制度の外側へ寄る。寄りすぎると、引き返せない。
庁舎を出て、署へ向かった。距離は短い。車で十分ほど。冬の空は白く、道路のアスファルトが乾いている。乾いていると、タイヤの音が軽い。軽い音は、遠くまで届く。
警察署の入口は、区役所より冷たい。ガラス扉の向こうに待合の椅子が並び、掲示板に尋ね人の紙が貼ってある。紙は整っていて、写真もはっきりしている。制度が扱える失踪だ。
受付で要件を伝えると、番号札を渡された。番号は普通の数字だった。ゼロではない。ゼロが出ないだけで安心するのは、制度の癖だ。安心はすぐ薄くなる。
待合の椅子に座る。椅子のビニールが硬い。硬い椅子は長く座れない。長く座れない椅子は、ここが滞在する場所ではないと言っている。
やがて、番号が呼ばれた。呼ばれたのは母親の番号だった。母親は僕らの少し前に来ていた。三十代後半に見える。髪は束ねているが、束ねた輪が緩い。コートの襟が少し歪んでいる。歪んだまま直さないのは、直す手が足りないときの癖だ。
母親は立ち上がり、窓口へ向かった。係長が僕に目線を投げ、僕らも後ろに付いた。付き添いは前に出ない。前に出ると、制度の別の箱になる。
窓口の警察官は若い男性だった。制服の袖がきれいで、机の上の書類が揃っている。揃っている机は、揃えられる範囲の案件しか置かない。
「失踪届のご相談で」
母親が言った。声は小さい。小さいが、声の芯はある。芯があるのに小さいのは、強く言うと壊れると知っているからだ。
「行方不明の方のお名前と、生年月日、ご住所をお願いします」
警察官は淡々と聞いた。淡々と聞くのは仕事だ。仕事の淡々は、相手の生活を削る。
母親は口を開き、閉じた。舌が一度だけ上顎に当たり、音がした。次に、また口を開く。喉の奥で何かが引っかかる。引っかかっているのに咳は出ない。
「……夫です。昨夜、寝ていて」
名前が出ない。名前が出ないのに、続きの説明は出る。名前だけが足場になっている。
係長が短く言った。
「区役所の夢葬相談室からです。連携として同行しています」
警察官は係長の名刺を見て、ほんの少しだけ眉を動かした。部署名を読んだ目だ。読んでも意味が乗らない目。
「わかりました。ご住所を」
母親が住所を言った。住所は言える。番地まで言える。言えるが、番地を言う声が途中で途切れる。途切れたところで、息を吸い直す。吸い直した息が乾いている。
警察官は端末に入力し、照会をかけた。画面が切り替わるまでの数秒が、長い。待つ時間は、相手の生活を引き延ばす。
警察官の目が画面に止まった。止まったまま、瞬きが一度だけ遅れる。遅れる瞬きは、理解が遅れたときに出る。
「……登録がありません」
警察官はそう言った。声の高さは変わらない。変わらないのが怖い。変わらない声は、制度の声だ。
「登録って」
母親は一語だけ言い、口を閉じた。閉じたあと、顎が少しだけ震える。震えは声にはならない。声にならない震えは、体が支えを探している。
「その方は、住民票上の登録が確認できません。照会上、該当なしです」
警察官は言い直した。言い直しは丁寧だが、内容は変わらない。変わらない内容を丁寧に繰り返すと、暴力になる。
母親は怒鳴らなかった。机を叩かなかった。代わりに、椅子の脚を探すように膝が折れた。椅子に座ろうとしたのではない。椅子があるという前提を探した。前提が見つからないと、体は落ちる。
係長が母親の肩に手を置いた。手は強くない。支える程度。支える手は、制度の中で許される最小限の介入だ。
「こちらで確認します。落ち着いて」
係長はそう言った。落ち着いて、という言葉は便利だ。便利な言葉は、何も解決しない。解決しない言葉を、制度は使う。
警察官は、机の上の紙を一枚取り出した。行方不明者届の用紙。だが、母親に差し出す手が途中で止まった。止まるのは、受理の条件が揃っていないからだ。条件が揃っていないなら、紙は渡せない。
「登録がない場合、受理の手続きが」
警察官は言いかけて止めた。止めたのは、自分でも説明がしにくいからだ。制度が想定していない欠落がある。
係長が聞いた。
「戸籍の照会はできますか」
「同一世帯としての情報が取れないと……」
警察官は言い、画面をもう一度見た。画面の白さが、目に刺さっている。刺さる白は、該当なしの白だ。
母親の指が、自分の鞄の持ち手を強く握った。革が軋む。軋む音は小さい。小さい音ほど、耳に残る。
「夫は、いるんです」
母親が言った。声は大きくない。大きくないのに、言い切る形だ。言い切ることで、足場を作ろうとしている。
「家に、歯ブラシも、コップも、靴も。あるんです。いつもの場所に」
母親は言葉を並べた。並べるのは証拠の形だ。証拠は制度が理解できる言葉だと思っている。だから並べる。
「昨日、寝ていて。布団は」
母親の喉が一度だけ詰まった。詰まったのに涙は出ない。涙が出る前に、口が閉じる。閉じた口の端が白くなる。
「布団の熱だけ残ってた」
熱だけ残る。熱は現実だ。現実が残っているのに、人がいない。残っている現実は、誰の現実にもならない。
係長が母親に言った。
「写真は」
母親は鞄からスマホを取り出した。画面を開き、アルバムを出す。指が震えていない。震えていない指が、滑る。滑るのは、指先が乾いているからだ。
「これが、家族写真で」
母親は画面を係長と警察官に向けた。
画面は白かった。
白い背景に、撮影日時だけが残っている。顔も、服も、背景もない。撮影日時だけがある。日時だけが現実にしがみついている。
警察官は画面を見て、口の端が少し動いた。言葉にならない動き。言葉にすると、仕事が壊れる。
母親はスマホを引っ込めず、画面の白さを指でこすった。こすっても変わらない。ガラスの上を指が滑る。滑る指が、白い画面の上で落ち着きなく動く。
「昨日までは、見えたんです」
母親は言い、言い終えてから口を閉じた。閉じた口の中で、舌が動いた。名前を言おうとしている動き。出ない。出ないから、舌が絡む。
「夫の名前は」
警察官が聞いた。
母親は口を開き、音が出かけて、止まった。出かけた音が喉の奥で崩れ、別の音になる。言葉の形にならない。発音の途中で足が滑るみたいに、音が転ぶ。
係長が短く言った。
「無理に言わなくていい。書けますか」
母親は頷いた。頷きは遅い。遅い頷きは、頷くまでに距離がある。
警察官が紙とペンを差し出した。母親はペンを握り、氏名欄に書こうとする。ペン先が紙に触れた瞬間、止まる。止まるのは躊躇ではない。紙の上で、線を引く前に手が固まった。
「……書けない」
母親は小さく言った。小さく言ったのに、言ったことで腕の力が抜ける。力が抜けると、ペン先が紙に点を作る。点は小さい。小さい点が、ここで唯一の形になる。
係長は母親からペンを受け取り、紙を戻した。警察官には何も言わない。言うと、制度の境界が硬くなる。硬くなると、母親が折れる。
「今日は一旦持ち帰ります。こちらで確認して、また連絡します」
係長は警察官に言った。警察官は「はい」とだけ答えた。「はい」は会話を閉じる言葉だ。閉じると、ここでの手続きは終わる。
母親は立ち上がろうとしたが、すぐには立てなかった。膝に手を置き、力を入れて、椅子の脚を目で探す。椅子の脚はそこにある。あるのに、探す。探す動作が、足場のなさを示す。
係長が母親の肘を支え、僕も反対側に回った。支える手は温かい。温かい手は現実だ。現実は支えになる。だが、支えても、登録が戻るわけではない。
署を出ると、外の空気が冷たい。冷たい空気は肺の奥に入る。入ると、胸骨の裏が少し痛い。痛みは現実。現実があることだけが、今の唯一の確認になる。
区役所に戻る車の中で、母親はほとんど喋らなかった。窓の外を見ている。見ているが、焦点が合っていない。焦点が合わない目は、現実を見ているようで見ていない。
相談室に戻ると、係長は母親を応接の椅子に座らせた。椅子の座面は布で、警察の椅子より柔らかい。柔らかい椅子は、長く座らせる椅子だ。長く座ると、現実が戻ることがある。
係長は水を出した。紙コップ。紙コップの縁が少し歪んでいる。歪みは人の手の痕跡だ。
母親は紙コップを両手で持った。持つだけで、飲まない。飲むと、喉が動く。喉が動くと、言葉が出る。言葉が出ると、名前が出る。名前が出ると、足場が崩れる。そういう順番が、体に染みているみたいだった。
「夫が消えたのは、いつですか」
係長が聞いた。淡々としている。淡々が母親の呼吸を壊さない。
「昨夜です」
母親は答えた。声はまだ小さい。
「寝てる間に」
「寝る前は」
「いつも通り。テレビ見て、歯磨きして。布団に入って。寝返りの音もしてた」
母親は言いながら、手元の紙コップを見た。紙コップの白さを見ていると、白さが戻ってくる。白さは現実の白さだ。
「朝起きたら、隣が空いてて。でも布団は」
母親の指が紙コップの縁をなぞった。なぞる指先が少し乾いている。
「布団の熱だけ残ってた。そこだけ、温かい。枕も、形が残ってる」
枕の形。布団の熱。物が残る。人が残らない。残るのはいつも物だ。物は制度に登録しなくても存在できる。
「服も、靴も。歯ブラシも。コップも。全部ある。夫だけがない」
母親はそこで口を閉じた。閉じた口の中で、舌が動く。名前を出したい動き。出ない。出ないから、舌が絡む。
係長は追わなかった。追わないことで、言える範囲の事実が残る。
僕は記録票を開き、淡々と書いた。失踪対象は夫。夜間睡眠中。朝、消失。寝具の熱残存。生活用品残存。写真白紙。氏名発音不可。筆記不可。警察照会:登録なし。
母親が帰る時間になり、係長が見送った。僕は相談室に戻り、机の上のファイルを片付けた。片付ける作業は現実の作業だ。現実の作業は、手順がある。手順があると、頭が落ち着く。
係長が戻ってきて、僕に言った。
「古いファイル。裏表紙、見て」
係長は一冊のファイルを僕の机に置いた。背のラベルは薄い。年月日が古い。ラベルの角が剥がれている。剥がれは時間の痕跡だ。
僕はファイルを開き、最後のページまでめくった。添付資料。点検報告書。白紙の写真。該当なしの照会結果。最後のページの裏。そこに、走り書きがあった。
鉛筆のような薄い線。急いで書いた字。字は乱れているのに、癖がある。癖は筆跡の個性だ。個性は隠せない。
走り書きは短かった。
夢の中で死んだ人間だけが触れられる
記録者が最後
僕はそこで手を止めた。止めたのは驚きではない。文字の形に既視感があった。
僕の字に似ている。
似ているのは、字の上手さではない。線の引き方。払いの角度。句読点の位置。小さな癖。自分が無意識にやる癖。癖は、真似しようとして真似できるものではない。
係長が言った。
「筆跡、どう見える」
「僕に似てます」
係長は頷いた。頷きは短い。
「そういう報告は前からある。筆跡が、今の担当に寄る」
寄る。時刻が寄るのと同じ言い方だ。原因を言わないための言葉。
僕は走り書きを指でなぞらなかった。触れると、痕跡が増える。増えると、次の手順が壊れる。
「記録者が最後って」
僕が言うと、係長は言葉を選ぶ間を置いた。
「最後に残るのが記録者、という意味で使われてる。残るのか、残されるのかは書いてない」
書いてない。書かない。書くと、確定する。確定はここでは避ける。
僕はファイルを閉じ、係長に返した。返すとき、指先がファイルの角に触れた。角が冷たい。冷たい紙は現実だ。現実の冷たさが、ここにある。
帰宅したのは遅かった。庁舎の空気は乾いていて、喉が乾く。乾いた喉は、帰宅後に水を飲ませる。水は現実。現実は喉を通る。
風呂に入り、シャワーを浴びた。湯が腕を流れる。皮膚に当たる温度は、現実を固定する。固定しないと、夢が現実へ滲む。
布団に入る前に、腕に違和感があった。左腕の内側。肘の少し上。皮膚が少しだけ突っ張る。突っ張ると、そこに何かがある。
部屋の明かりを点け、腕を見る。
痣があった。
紫色。まだ新しい。輪郭がはっきりしている。ぶつけた痣にしては、形が整いすぎている。整いすぎた痣は、模様みたいに見える。
僕は指で軽く押した。押すと鈍い痛みが返る。鈍い痛みは現実だ。現実の痛みがあるなら、痣は現実にある。
痣の形は、丸に見えた。丸がひとつ。角度によって、数字に見えた。ゼロに。
見間違いだと言える程度の形。言える程度だから、言えない。言える程度の曖昧さが、いちばん残る。
僕は痣をこすった。こすると皮膚が熱を持つ。熱は現実だ。現実の熱で、痣が薄くなるなら安心できる。
薄くならなかった。
こすっても消えない輪郭が、皮膚の下に残った。残った輪郭は冷たい。冷たいのに、そこにある。
こすっても消えない0が、皮膚の下で冷えた。
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