恋愛小説の書き方
愛崎 朱憂
プロローグ 取るに足らない朝の、取るに足る鼓動。取っ手の熱さだけが理由を知っている。
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・出来事は架空であり、実在のものとは関係ありません。
※作中に登場する商品名・サービス名は、各社の商標または登録商標です。
工業街口(こうぎょうがいこう)駅のスターバックスは、閉店が近づくと店の呼吸がゆっくりになる。
ブレンダの氷を砕く音が、昼間より少しだけ澄んで聴こえる。
レジの声は角を落として、マストレーナのスチーム音は短く、静かに終わる。
カップにスプーンがぶつかる音も、カップルに言葉がぶつかる音も、急かすためじゃなく──店がちゃんと片付いて行くための必要な音になる。
ガラスの向こうの駅前は、未だ人並みに人の波が流れている。
駅へ向かう人、タクシを待つ人、スマホを見ながら歩く人。
誰かの生活が、ここでは映像みたいに通り過ぎて行く。
店内の照明が、ほんの少しだけ色を変える。
白っぽい明るさが引いて、柔らかい影が増える。
その変化に一々気付くのは、多分、昔から待つのが得意だったからだと思う。
バーの向こうで、パートナーがペンで何かを書いている。紙に触れる音が、コーヒーの匂いと同じくらい自然に混ざる。
別の人が、シンクのところでバイタミックスの蓋を洗っている。水の音が店の奥まで届く。
──ここは、いつも誰かの一日の終わりに立ち会っている気がする。
カップの取っ手に指を掛けて、熱さを確かめる。未だ熱い。
けれど、取っ手の熱さは、飲みものの熱さとは違う。
指先だけが覚えている、生活の温度だ。
昔は、物語は書き始めるモノだと思っていた。ノートを開いて、言葉を並べて、後から意味を拾い集めるモノだ、と。
今は、多分少しだけ違う。
映画も、物語も座るところから始まる。
席を選んで、息を落として、音を受け取って、それから──言葉にするか、しないかを決める。
今日は、言葉にしない日だった。
ノートもiPhoneも出さずに、ただ座って窓の外を見る。
人の流れの中に、もしも。
もしも、ほんの少しだけ、見覚えのある気配が混ざっていたら。
それだけで、ちゃんと笑える気がした。
例えば、歩き方。
例えば、ドアを押すときの間。
例えば、店の空気が一瞬だけ整う感じ。
最後の数人のお客さんが席を立つ。
カップの底がテーブルに触れる音がする。紙袋が擦れる音。コートの布が鳴る音。
ドアが鳴って、冷たい外気が一瞬入ってきて、直ぐに閉じる。
その音だけで、『あぁ、今日が終わるんだ』と分かる。
閉店前のスターバックスには、変な優しさがある。
誰も、誰かを見ていない振りが出来るのに、誰かのことはちゃんと見えている。
泣いてる人がいれば分かる。
疲れてる人がいれば分かる。
無理して笑ってる人がいれば、もっと分かる。
だから、ここに来る。
特別な日じゃなくても。理由を言葉に出来無くても。
ここなら、何かを上手くしようとしなくて良い。
上手く出来ない自分も、ちゃんと座らせてくれる。
取っ手を持ち、カップの縁に唇をつける。
甘さがほんの少しだけ舌に残る。
熱さが喉を通って落ちて行く。
その落ち方まで含めて、今日という日の手触りみたいだと思う。
ガラスに映った自分の顔は、思っていたより大人だ。
でも目だけは時々、昔のままになる。
何かが来るのを待っている目。
来ないかも知れないのに、それでも待ってしまう目。
店の奥で椅子を整える音がする。
マストレーナを消毒するためのスチーム音がする。
店が少しずつ『終わる準備』をしている。
その準備の中に、一人分の余白として座っている。
今日がどんな日でも。
今日が少しだけ良い日でも。
今日がただの一日でも。
この店はいつも同じ顔でそこにある。
そういう場所は、時々人を救う。
ふっと笑う。
未だ、何も起きていないのに。
ただ、席に座って居るだけなのに。
閉店前のこの薄い時間に、過去が勝手に滲んで来る。
言葉になる前の感情が、音の隙間から顔を出す。
捕まえようともしない。逃がそうともしない。ただ、そこに居させる。
それから、漸く思う。
あの日の朝のことを、ちゃんと思い出そう、と。
工業街口駅のホームで。電車が来る前の、あの息の白さから。
カップを置く。取っ手の熱さだけが、未だ理由を知っている。
ドアが開く。
風が入る。
顔を上げる。
──物語はいつも、モバイルオーダーみたいに突然、始まる。
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恋愛小説の書き方 愛崎 朱憂 @Syu_Aizaki
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