役を降りる春

役を降りる春

わたしは、小学生の頃、声が出ない子どもだった。


感情がないわけじゃない。考えていないわけでもない。ただ、名前を呼ばれると、教室の空気が先に固まって、言葉だけが置いていかれた。分かっている答えほど、喉の奥で重くなる。


沈黙が長くなると、笑いが起きる。

それは責める音じゃない。授業を前へ進めるための、軽い合図だった。だから、わたしは役を引き受けた。少し遅れて、少しずれた答えを出す。そうすれば友達は笑って、先生は次へ進む。誰も困らない。笑われる役は、わたしにとって一番安全な居場所だった。

友達にだけ、気を使った。


自分が先に傷つけば、同じ場所に立たなくて済む人がいる。それで教室は回る。気づかれなくていい。わたしが引き受ければ、すべてが静かに収まった。


中学生になる春、

理由のない違和感だけが残った。この役を、これからも続けるのか。続けない選択は、あるのか。変われるかどうかは分からない。でも、変わらないままではいられないと、初めて思った。


その頃、初恋をした。

特別な言葉はなかった。優しくされた記憶もない。ただ、その人の前に立つと、笑われる役に戻れなかった。戻りたくなかった。それが、わたしにとっての初恋だった。

両思いにはならない。


きっと、向こうは気づいていない。それでも、確かなことが一つある。わたしにも、願っていい気持ちがあると知ってしまったこと。その気持ちを、もう切り捨てられなくなったこと。

その人が、わたしを変えたわけじゃない。

わたしが、自分の役を降りると決めただけだ。


声が急に出るようになったわけじゃない。

笑われなくなったわけでもない。

それでも、わたしはもう、同じ場所には戻らない。


報われない初恋は、

わたしを救わなかった。

でも、わたしを前へ押し出した。

誰にも見えないところで、確かに、わたしは一歩を選んだ。


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