プロローグ

 俺は、メイドが好きだった。


 いや、好きという言葉では足りない。

 尊敬、崇拝、感謝、愛情──それらを全部まとめて、さらに三倍くらい濃縮したものが俺の“メイド観”だ。


 仕事に誇りを持ち、誰かの生活を支え、影で努力し、笑顔で働く。

 そんな姿を見ているだけで、胸が熱くなる。

 休日はメイド喫茶に通い、動画サイトではメイドの所作解説を見漁り、給料の一部はメイド服の歴史本に消えていった。


 友人には「お前の人生、メイドで回ってるよな」と呆れられたが、俺は胸を張って言えた。


 ──そうだとも。俺の人生はメイドで回っている。


 そんな俺の人生は、ある日あっけなく終わった。


 仕事帰り、深夜の交差点。

 信号待ちの間にスマホで“メイドの歴史”の記事を読んでいた俺は、横断歩道を渡りながらも続きを読んでしまった。

 そして、視界の端に光が走った。


 ブレーキ音。

 叫び声。

 浮遊感。


 ああ、やっちまったな……と、妙に冷静に思ったところで、俺の意識は途切れた。


 次に目を開けたとき、俺はふかふかのベッドの上にいた。


 天蓋付き。

 レースのカーテン。

 壁には金の装飾。

 部屋全体が、まるで貴族の寝室のように豪華絢爛。


「……え、ここどこ?」


 寝起きの頭で状況を理解しようとしたが、理解が追いつかない。

 とりあえず上半身を起こし、周囲を見回す。


 見たこともない家具。

 見たこともない天井。

 見たこともない世界。


 そして──


「お嬢様、目を覚まされましたか?」


 聞こえてきたのは、澄んだ女性の声。


 振り向くと、そこには──


 黒と白のクラシカルなメイド服を着た少女が立っていた。


 完璧な姿勢。

 丁寧な所作。

 控えめな微笑み。


 俺の脳内で、何かが爆発した。


(メイドだああああああああああああああああああああああ!!!!!)


 叫びたい衝動を必死に抑え、俺は震える声で返す。


「き、君は……?」


「私はメイドのリリアでございます。お嬢様のお世話を任されております」


 メイド。

 メイドがいる。

 俺の目の前に、リアルなメイドがいる。


 夢か?

 天国か?

 いや、これは……。


 俺は震える手で、自分の髪を触った。


 さらり、と長い髪が肩を滑り落ちる。


 鏡を見ると、そこには──

 銀色の髪に紫の瞳を持つ、美しい少女が映っていた。


「……誰?」


 いや、誰って俺なんだけど。

 俺じゃないんだけど。

 いや、俺なんだけど。


 混乱しながらも、リリアが差し出した手鏡を受け取る。


 映っているのは、どう見ても“悪役令嬢”のテンプレートのような美少女。

 高貴な雰囲気、整った顔立ち、気品ある佇まい。


 そして、リリアが言った。


「ルクレツィアお嬢様。ご気分が優れませんか?」


 ルクレツィア。

 その名前に、俺の脳内で何かが繋がった。


(……あれ? この名前、どこかで……)


 そうだ。

 俺が前世で読んでいた乙女ゲームの悪役令嬢だ。


 主人公をいじめ、王子に嫌われ、最後は国外追放か処刑。

 そんな悲惨な未来が待っているキャラ。


 つまり──


(俺、悪役令嬢に転生してる!?)


 メイドがいる世界に転生したのは嬉しい。

 嬉しいどころか、人生で一番テンションが上がっている。

 だが、悪役令嬢はまずい。

 非常にまずい。


 破滅フラグが山ほどある。

 王子との婚約破棄イベントもある。

 主人公に嫌われたら終わりだ。


 でも──


 俺はリリアを見た。


 完璧な所作でお辞儀をするその姿。

 控えめでありながら、誇りを持って働く気配。

 その一挙手一投足が、俺の心を鷲掴みにした。


(……いや、悪役令嬢でもいいかもしれない)


 だって、メイドがいるんだ。

 こんなに素晴らしいメイドが、俺の目の前にいるんだ。


 破滅フラグ?

 そんなものより、メイドの尊さの方が大事だ。


 俺は深呼吸し、決意した。


(よし……メイドを守り、メイドを愛し、メイド文化を発展させる悪役令嬢になろう)




 リリア──そう名乗ったメイドは、俺が混乱しているのを察したのか、そっとベッド脇に膝をついた。


「お嬢様、本当にご気分が優れないのですね。お水をお持ちいたします」


 そう言って、静かに部屋を出ていく。


 その一連の動作が、完璧だった。


 背筋の伸びた姿勢。

 歩くたびに揺れるスカートの裾。

 ドアを閉めるときの、あの無駄のない手首の返し。


 俺はベッドの上で、ひとり震えた。


(……すごい。プロだ。プロのメイドだ……!)


 前世で何度も動画で見た“理想のメイドの所作”が、今、目の前で生きている。

 いや、動画よりもずっと美しい。

 これは本物だ。

 リアルだ。

 俺の人生、転生して大正解では?


 そんな浮かれた思考をしていると、ふと、部屋の鏡に映る自分の姿が目に入った。


 銀髪の少女。

 紫の瞳。

 白い肌。

 どう見ても、乙女ゲームの悪役令嬢・ルクレツィアそのもの。


(……いや、待て。俺、悪役令嬢なんだよな?)


 ようやく現実が追いついてきた。


 このキャラは、確か──

 主人公をいじめて、王子に嫌われて、最後は国外追放か処刑。

 そんな悲惨な未来が待っている。


(メイドがいる世界に転生したのは最高だけど……悪役令嬢はマズいだろ……)


 俺は頭を抱えた。


 だが、次の瞬間。


 ドアがノックされ、リリアが戻ってきた。


「お嬢様、お水をお持ちしました」


 銀のトレイに載せられた水差しとグラス。

 その持ち方が、また完璧だった。


 俺は思わず見惚れてしまう。


「……ありがとう」


 声が震えた。

 感動で。


 リリアは小さく微笑む。


「お嬢様が目を覚まされて、本当に安心いたしました」


 その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。


(……ああ、もうダメだ。俺、この子を守りたい)


 悪役令嬢としての破滅フラグ?

 そんなものより、目の前のメイドの笑顔の方が大事だ。


 俺は水を一口飲み、深呼吸した。


「リリア。……その、私は少し記憶が曖昧で……」


「はい。お医者様も、しばらく安静にと仰っていました」


 リリアは心配そうに眉を寄せる。


「ご無理なさらず、何でも私にお申し付けくださいませ。お嬢様のお世話をするのが、私の務めですから」


 その言葉に、俺は決意した。


(……よし。俺はこの世界で、メイドを守り、メイドを愛し、メイド文化を発展させる悪役令嬢になる)


 破滅フラグ?

 そんなもの、全部へし折ってやる。

 メイドのためなら、俺は何だってする。


 そう思った瞬間、部屋の扉が勢いよく開いた。


「ルクレツィアお嬢様! ご無事と聞いて……!」


 入ってきたのは、黒髪をきっちりまとめた長身の女性。

 その背筋は一本の槍のように真っ直ぐで、歩く姿はまるで軍人のような威厳がある。


 彼女は俺を見るなり、深々と頭を下げた。


「メイド長のセラフィナ・グレイスロッドでございます。お嬢様が目を覚まされて、本当に……本当に良かった」


 その声は冷静でありながら、どこか震えていた。


(……メイド長!?)


 俺の心臓が跳ねた。


 この世界のメイド長は、ただの管理職ではない。

 屋敷の秩序を守り、使用人たちを導き、貴族の生活を支える“影の主役”だ。


 そんな人物が、俺に頭を下げている。


(……やばい。尊い。尊すぎる)


 俺は思わず涙ぐんだ。


「お嬢様……? 本当にご気分が……?」


「だ、大丈夫……! ただ……その……メイドが……」


「メイドが?」


「……尊い……」


 セラフィナとリリアが、同時に首を傾げた。


 だが俺は真剣だった。

 この世界のメイド文化は、前世の俺が夢見た理想そのものだ。

 それを守るためなら、悪役令嬢だろうが何だろうが関係ない。


 セラフィナは、そんな俺の様子をじっと観察していた。

 その瞳は鋭く、まるで心の奥を見透かすようだ。


(……やばい。メイド長、迫力ある……)


 だが、その迫力すら心地よい。

 プロのメイド長の視線を浴びるなんて、前世では絶対に経験できなかった。


「お嬢様。しばらくは安静にしていただきます。体調が戻られましたら、改めてご予定を確認いたします」


「う、うん……」


「リリア。お嬢様のお世話を頼みます」


「はい、メイド長!」


 リリアが元気よく返事をする。

 その声がまた可愛い。


 セラフィナは一礼し、静かに部屋を出ていった。


 残された俺は、ベッドの上で天井を見つめた。


(……すごい世界に来てしまったな)


 悪役令嬢としての未来は不安だ。

 だが、それ以上に胸が高鳴っている。


 メイドがいる。

 プロのメイドが、俺の周りにたくさんいる。


(……よし。やるしかない)


 俺は拳を握った。


(この世界で、メイド文化を守り、発展させる悪役令嬢になる!)


 その瞬間、俺の新しい人生が本格的に動き出した。

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2025年12月22日 12:00
2025年12月23日 12:00
2025年12月24日 12:00

悪役令嬢に転生した俺。王子よりも伯爵よりもメイドが好き!! aiko3 @aiko3

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