七つ星の災厄

水石悠

第1話 灰色の日常

 私立獅子ししおう学園の三大アイドルに数えられる星宮ほしみやあやにとうとう恋人が出来たらしい。下校前のホームルームを待ちながら読書にふけっていた俺、黒塚くろづかそうの耳に飛び込んできたのはそんな青春色のゴシップだった。

 クラスメイトの女子達が大きな声で展開する、いつもなら気に留める事の無い二年二組の噂話に俺の耳は勝手に意識を持っていかれてしまった。おかげでラノベの中身に集中出来ず、一ページも進まなかった。

 やがて女子達が話題を変え、ようやく焦点がラノベに戻ってきたのとほぼ同時に教室のドアがゆったりと開いた。眠そうな切れ長の眼で生徒達を見渡しながら現れた女性は担任のぬかきりである。

「はい、お待たせしましたー。それじゃ、ホームルーム始めますよー」

 やや高い、ベルみたいな声で桐絵がそう言うと、先の女子達もそれぞれの席に戻っていった。窓から見える斜陽をぼうっと眺めながら桐絵の事務連絡を聞き流し、ホームルームが終わるのを待つ。あくびを噛み殺しながら過ごす、つまらない時間は永劫えいごうにも等しいように感じられた。

「じゃあ、皆さん。明日は開校記念日なのでお休みです。悪いこと、しないよーにね。それじゃ、きりーつ。れーい。さよーなら」

 細長い身体から気の抜けたような挨拶をするや否や、すたすたと廊下に歩き出す桐絵。教室の中でいくつかの集まりが形成されていく中を俺は目立たないように、されど歩く事もないように無人の廊下に飛び出した。他クラスの生徒達が出てくるよりも早く、三階のフロアへと小走りで向かう。

 目的地は一年生の教室を通り過ぎた廊下の奥にある第三科学室。俺と同じくこの学舎まなびやの隅に追いやられている科学部の部室である。引き戸にぶら下がった、丸いフォントで「科学部」と書かれたネームプレートの位置を直してから、部室の扉をゆっくり開ける。かすかに温かい空気が肌に触れ、先客がいる、と分かった。

「あ、先輩。…………どうもです」

 文庫本を読んでいた少女が一度ページを閉じて、会釈をしてくる。深い青色の眼鏡ごと瞳を覆い隠す、艶やかな前髪が特徴的な物部もののべずみはここを根城とする科学部における、ただ一人の後輩部員である。

「あ、ああ。一週間ぶりだな、物部」

 簡潔に返し、黒いテーブルの上にリュックサックを置いた俺は壁際に寄せられていた黄緑色のスツールを持ってきて、腰を下ろした。伊澄はその間に机の上に置いていた難しそうなタイトルのついた書籍をよけて、スペースを作ってくれていた。ちなみにそれらは古墳の写真や鎧武者の絵が描かれた日本史の本で、科学の「か」の字も見当たらない。

「今日も来てないのか、部長」

「はい。学校にも来てないらしいです。半引きこもり生活を満喫中などとアゾッターの限定アカウントで呟いてました」

「またか。まあ、帰宅部回避に使わせてもらってるから何も言わないけど」

 俺の言葉を最後に会話が途切れる。伊澄はいつもの読書タイムに戻り、俺は俺で机に並べた問題集を開き、無言の世界が展開する。

 獅子王学園科学部は実質的な活動をほとんどしていない。俺とか伊澄みたいな運動部にも、目立つ文化系部活にも所属したくない人間達の寄る辺となっていて、ここにいない部長も漏れなく同類である。顧問も兼部している他の部活を熱心に指導していて滅多に顔を見せない。それ故、ここは学園内における、俺の唯一の安息の場なのだ。

 いつもなら黙々とラノベを読むところだが、ここ数日は体調を崩したり、学校を休んでいて、授業の復習をまるでしていなかったので、しぶしぶ苦手な数学の文章題に向かい合う。あまり気が進まない、と思ったのと同時、突如として一週間前の「例」の光景が脳内で再生された。


 廊下のあちこちから巨大な滝の流れのような、耳を塞ぎたくなる声が聞こえてくる。その中をおずおずと歩いていると、向こう側から談笑する女子の一団が現れた。

 僅かに顔を上げた俺はその真ん中に陣取り、周囲の耳目を集める少女にどきりとする。

 緩いウェーブのかかった茶髪に、健康的に輝く肌。整った顔には薄めの化粧を施し、耳には小さな雫型のピアスをつけた星宮綾音がすれ違う一瞬、俺に咎めるような視線を送ってきた。

「…………」

 だが俺は反射的に明後日の方向へと顔を逸らし、感覚のにぶくなった足で、ハンターに追われる鹿のように足を早めた。

『……………え?いやいや、それはないわ!』

 俺の背中に、綾音の含みのある言葉と取り巻き女子の乾いた笑い声がぶつかる。冷や水を浴びたような気分だった。

 腹の真ん中に嫌な熱と痛みがじんわりと生まれる。

 昔はあんな奴じゃなかった、はずだーーーーーー


「………先輩。顔、強張ってますよ。大丈夫ですか」

 伊澄の声がすぐ近くで聞こえ、驚いた俺は反射的に左手側に目を向けた。離れた位置で文庫本を読んでいた筈の彼女がすぐそばにいた事に戸惑いながらも口を動かす。

「え、あ、ああ、いや、別に。何でもない」

「本当ですか?その割には呼吸、早くなってますよ」

 伊澄が半目でじっと顔を見つめてくる。針山の上にいる気分になった俺は気まずくなって、目を逸らした。

「顔色が青白いですね。動悸もやや乱れてます。何か強いストレスを感じる事でもありましたか?」

 あまりにも的確過ぎる一言。心臓を小突かれたような気がした。

「そう、かもな」

「もし良ければ相談に乗りましょうか。その、先輩が嫌じゃなければ」

 少し迷った末、つたなくても良いのなら、と前置きした上で俺は伊澄に向かい合った。話の切り出し方にまごついたが、脳内の散らかった記憶を整理しながら口火を切った。

「二年一組の星宮綾音。あいつ、知ってるか」

「ええ。この学園屈指の有名人ですね」

「なんというか、その、だな。あ、あいつはちゃんと、今を生きてるんだなって、今日、改めて思い知らされてな」

「………すみません。それは、どういう意味なんですか」

 伊澄の鋭い質問に窮する。彼女が疑問符を浮かべるのは当然で、つい分かりやすい言葉で何かを伝えるのを恥ずかしがって、誤魔化ごまかす癖が出てしまった。

「悪い。えっと、だな。綾音はもう、幼馴染と楽しく遊んでいた過去を置いて、今の高校生活を十二分に、普通の学生として過ごせてるんだなって言いたかったんだ」

 さっき聞いた、綾音が同じ生徒会に所属している上級生ーー生徒会長らしいーーと付き合い出した云々という噂話はわざわざ出さなかった。

「……………察するに、その幼馴染というのが先輩なのですね」

「まあ、その通りだ。小学校の時から俺は周りの子供達とは違うもの………妖怪とか怪談をモチーフにした作品が好きだったから、周りと話が合わなくて、いつも浮いてたんだ」

 『お前の話はよく分からない』『なんか不気味な絵だね、その本のキャラ』こんな風に石を投げてきたクラスメイトや、『まほらま』ーー昔、俺がいた児童養護施設ーーの子供達の顔はもうほとんど薄れてしまっているが、今でも唐突に出てきて、俺をさいなんでくる。そして、胃のあたりが鈍い痛みを発する。多分、これは今わの際まで治らないのだろう。

「でも、そんな俺の話に興味を持って話しかけてきたクラスメートがいたんだ。それが綾音だったんだ。昔のアイツは男勝りで、校庭を駆け回るスポーツ少女だったから、あの時は驚いたよ」

「そうだったんですね。今の星宮さんからは想像出来ないお姿です」

 伊澄が目を丸くして、驚く。俺は更に熱に浮かされたように喋り続けた。綾音が自分も知らないような神話や魔術などの不思議な話を披露してくれた事。クラスのリーダー的な存在である彼女が一緒にクラスの行事で肝試しを提案し、それが上手くいった事で少しだけ話せる同級生が増えた事。どれも綾音無しには起き得なかった日常だった。

「でも、それは突然終わったんだ。卒業式の前の日にここ西方さいほう市から引っ越すって、突然言われて、な……」

 綾音の言葉を聞いた瞬間、立っていた地面が全て溶け消え、時空の狭間に滑り落ちていくような感覚に陥った。自分の人生に死亡診断書を突きつけられたようなものだった。

「星宮さんは転校の理由、教えてくれなかったんですか」

「ああ。何を聞いても駄目だった。最終的には喧嘩別れみたいになって……」

 そこから、俺の人生は再び赤錆色に墜ちていった。綾音がいつか戻ってくるかもという希望は中学一年の終業式には捨て去っていた。その上、中学校で強烈な人間関係のトラウマを味わった俺は一層人間不信になって、今に至っている。

「私が何か言える立場にはありませんが………取り敢えず、星宮さんの事、今は保留、としてはいかがでしょうか。先輩は多分、今すぐにどうにかしたいと思うかもしれませんが、人と人との関係は一日二日でどうこうなるというものではありません。相談であれば、言い出しっぺの私が必要な時に乗りますので」

 伊澄の言葉が初め、すっと脳に入ってこなかった俺は一瞬、硬直してしまった。数秒のラグを経て、その言葉の温かみを胸中に感じた俺は顔を僅かに逸らして、率直に感謝を述べた。

「そ、そうか。……………ありがとう」

「いえ。お役に立てたのなら、何よりです」

 伊澄の返事にちょうど被せるようにチャイムがなった。完全下校時間の十分前を告げる叙情的なメロディーが科学室内にも響き渡る。

「………もう、こんな時間か。長話につき合わせて悪かった、物部」

「謝らないで下さい、先輩。私が相談に乗ると言ったんですから、どうぞお気になさらず」

 本当に何でも無さそうに言ってのける伊澄にますます申し訳無さが募る。緑のスツールから腰を上げて、リュックサックを素早く背負い込む。ここに来た時よりも身体が幾分か軽くなった気がする。ちゃっちゃと鍵を返して、バイト先のコンビニに向かうとしよう。

「あ、先輩。私、職員室に用事があるので、部室の鍵、返しておきますよ」

 鍵のプレートをつまんで見せる伊澄。全てを見透かしているような申し出に驚きつつも、それはおくびにも出さなかった。

「……悪いな。それじゃ、任せる。………ありがとう」

 もう一度、駄目押しで感謝を伝えた俺はスツールを元あった場所に置いて、おもむろに部室を後にした。


 五月にしては冷たい風が吹きすさんでいる。何気なく振り返ると、獅子王学園の校舎はもう、だいぶ小さくなっていた。まるで箱庭の監獄みたいだ、などと気障きざな感想を胸に秘めながら、バイト先に急ぐ。

 目的地のコンビニはこの西方さいほう市のちょうど中央に位置する西方駅の裏側にあたる東口の近くにある。近く、と言っても人通りのまばらな裏路地にぽつんと幽霊のように出ている店だから客の入りもそこまで多くない。人見知りのいちじるしい俺が応募した理由の一つがそれだ。

 軽く息が上がり、首元が汗ばんでくる。校章の刻まれた、真っ黒いネクタイを緩め、ワイシャツの第二ボタンを開けると、ひんやりとした空気が舞い込んできた。

「………っ、さむっ」

 一気に急冷された為、思わず身震いしてしまった。すぐにボタンを閉じようとしたが、夕方という事もあってか、人の数が一気に増えてきて、ぶつからないように歩くのが精一杯だった。おかげで、冷風が皮膚の上を走るがままになってしまった。どこかで威嚇的に鳴らされるクラクションに顔をしかめながら、どうにか裏路地に入った俺は神社の前を突っ切り、いつも目印にしているカフェの看板を一瞥いちべつして、その建物の角を曲がった。

 筆記体で〈リビエラ〉と書かれたアンティーク風のプレートとお洒落な暖色のランプが灯る店。自分がここで食事をとる事はないだろうが、随分と雰囲気の良さそうなーーーー

「いい加減にしなさい!出ていけって言ってるでしょうが!」

 頭が一気に冴え渡る、砲撃のような声が店内から響いてきた。いつもなら、トラブルには我関せずというスタンスなのだが、思わず足を止めてしまった。木製のドアが乱雑に開いて、カフェテリアにおよそ似つかわしくない風体の男がすぐ近くまで吹っ飛んできた。角刈りの金髪と毒々しいデザインのジャケットという分かりやすい不良スタイルのそいつは店の方をきっと睨みながら、立ち上がった。

 不良が対峙する人間を勝手に筋骨隆々の大男と想像していた俺は店の奥から憤然と現れた人影に思わず、度肝を抜かれてしまった。店を守るように入口に立ち塞がったのが、ぬれ色のロングヘアをはためかせ、雪うさぎのように白い頬を怒りに染める美少女だったからだ。

「な、なにしやがんだ!俺は客だぞ!隣に座って酒、注ぐくらい」

「だ、か、らぁ………ここはそういう店じゃないっての!大体、ジュリには彼氏いるし、イオにも付き合ってる人いるんだっての!店員の子目当てにカフェに来るとかバカなの!?」

 腕組みをして仁王立ちする少女が業物わざものの槍のように鋭い言葉を不良にぶつける。俄かにつまった不良が一瞬こっちを見たが、すぐに少女に向き直った。どう見ても、口喧嘩では少女の方に分がある。バイトの時間も迫っているし、きっと誰かが通報しているだろう。傍観者である俺はリビエラに背を向け、歩き出そうとした。

「くっ、こ、この女……お、俺は【BBS】のメンバーなんだぞ!!!」

 男が恐らくは負け惜しみで放ったその一言に俺は思わず、振り返ってしまった。ただでさえ、難癖をつけて暴れる不良というだけでも面倒なのに、寄りにも寄って西方市で一番幅を利かせていると言われる半グレ集団の構成員だったとは。

 流石に不味いか、と思った俺はスマートフォンを取り出した。バイト先には事情を説明すればどうにかなるだろうが、今は一刻を争う。

「ビー、ビー、エス?………なにそれ?」

 不良の脅しなどどこ吹く風、少女は間抜けな顔で小首を傾げてみせた。西方市に住んでいて、奴らを知らないとは。見かけと度胸に寄らず、とんだ箱入り娘なのかもしれない。そんな恐れ知らずの少女の後ろから別の女性の声が聞こえてくる。

「も、もう良いよイオちゃん……!マスターが警察呼んでくれたし、後は引っ込んでよ?ねっ?あんな奴らに目をつけられたら………」

 大人しそうな見た目の女性が後ろから腕を揺するも、少女ーーこの子がイオらしいーーは全く意に介していなかった。というより、口汚く暴れる不良を完全に無視して、イオは何故か、俺の方に視線を送ってきていた。

 助けを求めているようにも見えない、不思議なその視線の意図が掴めず、困惑の色を浮かべる俺に少女はいきなり話しかけてきた。

「ね、キミからもなんか言ってやってよ。そこの分からず屋に」

「な、なんで………です?」

 不良が俺とイオを交互に見やる。壊れた機械みたいになっていて、吹き出しそうになった。

「なんで他人行儀なの。………イオたち、付き合ってるでしょ?」

 稲妻に頭を撃たれた。足の底から熱が上ってきて、顔と心臓が沸騰しそうになった。今起こっている事象を処理し切れず、石像みたいになって動けずにいた俺の隣にイオがつかつかとやって来る。そして、強引に右腕を取って、こちらにウインクしてくる。

「ね、創?」

 はっきりと俺の名前を呼んで、イオは何の躊躇ためらいもなく身体を密着させてきた。淡いラベンダーの香りが鼻腔を刺し、いよいよ頭が真っ白になる。天地がひっくり返っても起こらないであろう、摩訶不思議な事象を受け止め切れず、倒れそうになるのを俺はどうにか踏ん張ってこらえた。どこかで会っただろうか、やっぱり聞き間違いだろう、いや勘だろう、と推測が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。

 イオの即興芝居を見た不良の男は俺が何か弁明する間も無く、烈火の如く怒り出した。言葉にならない罵倒を並べて、ジャケットの懐に男が手を突っ込む。ああ、どうしようと嫌に冷静な声が脳内で弾き出された時だった。

「おい、何やってんだ」

 リビエラの右向かいに当たる道から、誰かがこちらに歩いてくる。ぶっきらぼうなその声で僅かに意識が戻った俺はそっちに顔を向けた。警察か、と期待した希望はしかし、すぐに打ち砕かれた。

 短く刈り上げたゴールドの短髪に、派手に輝く花と龍の柄シャツ、茶色く焼けた腕にはドクロのタトゥーがでかでかと刻まれていた。奴のお仲間なのは明らかだった。悪党キャラが湧いてくるのはゲームの中だけにして欲しかった。

「あ、う、ウエノさん!お疲れ様っす!そ、その、そこの店の女がナマ抜かすもんで」

 さっきまでの威勢はすっかり消え失せ、急にぺこぺこし出す不良。自分が店に難癖をつけた事について言及しない部分に本性が出ている。

「ふーん、そうか。………んで、そこのお二人さんは」

「イオたち、付き合ってんの。なのにそいつが俺と付き合おうとか、無理なら隣に座って酒注げ、とか抜かすから叩き出したまでよ」

 物怖じせずに全てをぶちまけるイオ。初対面の子ではあるが、この鋼のメンタルは是非とも見習いたい、と思った。

「そうか、そうか。それじゃあ、彼氏さんの方はたまたま居合わせたってとこか」

「……………そ、そう、です」

 違う、とも言えない空気だったから思わず、そんな台詞を吐いてしまった。ウエノの皿のように大きな目が俺を捉える。カタギのそれでは無い目付きに魂を吸い取られそうな気分になる。唾をゆっくりと飲み下した俺はただ、早くこの瞬間よ過ぎろ、と願う事しか出来なかった。

「…………そりゃ、お熱い事で。それよりテツ。油売ってる場合かよ、お前。例の情報屋捕まえろって司賀しがさんから言われてただろ。おら、さっさと行くぞ」

 急に興味を無くしたように目を細めたウエノはそう言うなり、未だ煮え切らない顔をしていた不良の肩を強引に抱えて、

「悪かったな、お二人さん」

 ひらひらと左手を振って、元来た薄暗がりの中に消えていった。

 ふう、と大きな溜め息が漏れる。震える足で身体を支える事が出来ずにアスファルトの上にへたり込んでしまった。一瞬冷やっとしたが、全く気にならなかった。

「いやー、どうにかなったね!ありがとう、創!」

 額を腕で拭い、一仕事終わらせたという雰囲気を出すイオ。急に巻き込んできたにも関わらず、一切悪びれないその姿勢に若干苛立ちを覚えたが、顔には出さないまま、少女の方を見やった。

「…………なんで、俺の名前、知ってるんです?」

「んー、何でだろうね?」

 人差し指を口元に当てて、あからさまなおとぼけを披露するイオ。少なくとも、コンビニで接客した記憶は無いし、獅子王学園にも『まほらま』にもこんな子はいなかったと思う。ただ、高校に関しては俺が人脈を全く持っていないので、彼女の事を知らないだけの可能性もあるにはあるが。

 ここで、ようやくポケットの振動を感知した俺は鳴っていたスマートフォンを慌てて取り出した。電話の相手は交替する予定の先輩店員だった。画面の左上に表示された時間はシフト交替の時間から、十分も過ぎていた。完全なる遅刻である。

「じ、じゃあ、俺はこれで」

 バネの如く飛び上がった俺は電話の着信を取りながら、直ちにバイト先へと駆け出した。

「ごめんねー!次会ったら、お礼するから!」

 イオの相も変わらず元気な声が背中にかかる。ただ、遅刻の言い訳に苦心していた俺はその声に応じなかった。もう会わずに済むなら、その方が良いと思ったからだった。


 いばらみたいだった冷気が少し和らいでいた。古いゴムのように硬くなった首を軽く回しながら、頼りなげな街頭の並ぶ路地を歩く。

 あの後、バイト先のコンビニに着いた俺は二度目の事情説明を先輩店員にした上で、改めて謝罪をした。気立ての穏やかな人だったので、説教や嫌味を言われる事も無かったのが本当に有り難かった。

 その人が帰った後はいつもと同じ、ほとんど変わらない業務をこなすだけの時間が過ぎていくだけだった。退屈で変わり映えない、つまらない四時間だったが、それでもいつかは終わりが来る。九時ちょうどに来た交替の大学生と定型の挨拶だけ交わした俺はさっさと店を去ったのだった。

 リビエラの前を通る時、一瞬身構えてしまったが、流石にもう誰もいなかった。さっきの事件の影響か、ランプの灯は消えており、店内のグラインドも全て下ろされていた。

 つい数時間前に暴れていたBBSみたいな連中が幅を利かせているこの状況は今から五十年前に起こった地球規模の大災害、【じゅうねん厳冬げんとう】によって世界のみならず、日本の秩序も大きく乱れた為らしい。政経せいけいの教諭でもあるきり曰く、『初め、狂信的な終末思想をひょうぼうする宗教団体によって、テロが世界各地で起こされた。そこに元々あった国家間の対立等も表面化し、追い打ちで地震や噴火等も重なった大災害』なのだそうだ。

 その大災害より以前は水と安全はタダ、とか言われていたらしい。どんな世界だったかは知るよしも無いが、養護施設で無理やり護身術とかを学ばされる事の無い時代だったのかもしれない。もっとも、最近は母里もりさんーー『まほらま』の施設長の屋敷で働くメイド長で、護身術の手解きをしてくれた人だーーと会う事も無くなり、週三はしなさい、と言われたジョギングも体育の授業以外ではしていないので、護身の心得など最早カビだらけである。

「…………疲れた」

 ひとち、夜空を見上げる。昨日は満天だった星がすっかり濃い墨色の雲の向こうに隠れてしまっていた。天気予報でもうすぐ雨が降ると書いてあったのを思い出す。小走りで駆け出した俺は草臥くたびれた背中を曲げて歩くサラリーマンや、不必要に腕を絡ませていちゃつくカップルを追い抜き、我が家を目指した。

 バイト先から飛び出しておよそ十五分後。ベージュに塗られた壁に灰色の天井が重石のように乗っかったアパートが姿を現した。植え込みの中で照らされる看板には〈ムーン・バーク〉なる違和感満載の名前が書かれている。

 俺の暮らす二階フロアの隅、203号室の階段は駐車場を突っ切り、敷地の奥側にある階段を上らないといけないのだ。二度手間感は否めないが、この辺りで一番安い物件という理由だけで選んだので、そこは仕方が無いと妥協した所だ。

 大きなあくびをかましながら、のろのろと歩き出す。非日常な事案にも巻き込まれ、いつもより三割増で疲れていたから、さっとシャワーを浴び、泥のように眠りたかった。

「いっ、ひひっ」

 乱雑に砂利が敷かれた駐車場に足を踏み入れた途端、凍て付くような笑みがどこかから聞こえた。幻聴にしては嫌に生々しいそれに冷たいものを覚えた俺は辺りを見回した。だが、特にこれといった人影は無かった。やっぱり疲れてる、と結論付け、アパートに向き直った俺の目の前に。

 口角を吊り上げ、不敵ににやつく少女の顔があった。

「う、うあああっ!?」

 上擦った悲鳴が勝手に口から飛び出す。怪しさ全開の少女から距離を取ろうとした俺は角張った石を踏み、盛大にこけてしまった。腰骨とでんに電撃みたいな痛みが走り、手の平も砥石にかけたように地面で擦れた。

「いっ、ひっひっひっ。驚かせちゃったー?ケガしちゃったー?ゴメーン、あとで治したげるから、許してー?」

 悪気無くそう言い放った少女は更に口を弓なりにして笑った。えん色の軍服をモチーフにしたファッションに、月光を受けて輝く金色こんじきのツインテールは常闇を背景にした絵画のようだった。

 ただ、こんな夜更けに不法侵入を働くあたり、不審者なのは確かだ。苦痛に顔を歪めながら、よろよろと立ち上がった俺はそこで、少女が右手にしていたきらめく棒状のものを見て、更に総毛立った。どす黒い、魔物の牙みたいな湾曲した刃物をつけたそれが巨大な鎌だと分かったからだった。

 とにかく逃げないといけない。身体が上げている痛みを無視し、きびすを返した俺は死に物狂いで路地に出ようとした。だが、そんな俺の浅はかな思考は予測されていたらしかった。

あせりて、何処いずこ、行く?」

 ゴスロリと和服を足して、二で割ったような服装の少女が駐車場の入口を塞ぐように立っていた。あどけない顔からは表情を一切読み取れず、底知れぬオーラをたたえていた。それ故、腰の刀でいきなり斬られるかもしれない、という恐怖が全身を覆って動けなくなってしまった。

「うっ、な、なん、だ………」

 乾いた喉から辛うじて出たのは、枯れ木みたいな言葉だけだった。

、シュビィ。そっち、世紫野よしの。覚えて」

 鉄面皮のまま、流麗な声を発する少女ーーシュビィは頼んでもいないのに自己紹介をしてきた。振り袖みたいな腕がしゃなりと動き、腰に提げられた刀が月光の下にその素顔を表した。つばが無く、柄までが派手な白銀色の直刀だったので、本身をそのまま持っているように錯覚してしまった。

 恐怖と混乱に足を取られ、次の行動が取れない。凶器を持った不審者二人に挟まれたこの状況、にもかくにも逃げ出さないと命が無い。だが、相手の動体視力を上回る動きを出来るとも思えない。

「そ。大人しい、良い。………これ、見て」

 シュビィは静かに刀を鞘に納め、俺に何かを差し出してきた。病的に白い手の上に置かれたそれは卵形の赤い石だった。透けた中に見える樹状の結晶に自然と意識が吸い寄せられ、段々と視界が渦のようになってきてーーー

「っ!シュビィ!」

 世紫野が血相を変えて、俺の方に飛んできた。左に思い切り突き飛ばされた俺は地面に転がった挙句、室外機に派手に激突した。夜更けの空気を焦がす、金属の擦れる激しい音がぐちゃぐちゃになった脳内に響いてくる。左手で額を押さえながら、壁にもたれかかった俺は眼前の光景にただただ驚愕する。

 先ほどまで余裕たっぷりだったシュビィと世紫野が謎の人物からの猛烈な攻撃を時に防ぎ、時に反撃するという凄まじい戦闘が展開されていたからだった。その二つの人影は両方とも、黒い目出し帽にアーマーっぽい黒服、警戒棒まで真っ黒な完全なる黒ずくめだった。性別や年齢をうかがう事はとても出来そうに無かった。

「撤退、提案。どう、世紫野」

 目にも止まらぬ速さで刀を操り、相手の攻撃をいなしながら飄々ひょうひょうと世紫野に呼びかけるシュビィ。

「いっひひっ、そーしよっか!目的は果たせたし、ね………!」

 苦しげながらも、どこか嬉しそうに応じる世紫野は黒ずくめの一人を力で押し切ると、口から小さなビーズのようなものを取り出した。空気に触れるや、それは風船の如く膨れていく。ドクロマークの刻まれた、楕円形の物体はまるで、手榴弾みたいーーーー

「これでも、喰らえってね!いっひひっ!」

 危ない、という誰かの声ーー多分、黒ずくめのどちらかーーが耳に届くのと同時、身体が紙吹雪のように、いとも簡単に浮いて、宙を舞った。ミキサーにぶち込まれた野菜みたいに揉みくちゃにされ、視界にアパートの屋根が逆さまに映った瞬間、全てがシャットアウトされた。

 意識が黒い洪水に飲まれていく。死にたくない、とは思わなかった。元より生きているかどうか、微妙な毎日だったからだ。ただ、今日は死ぬには良い日だ、とも思えなかった。


 地面へと一直線に落ちていく少年。あと数十秒でその頭部がのう漿しょうをぶちまけようとした刹那、その身体を誰かが優しく受け止める。

 その正体はつい数分前に激しい一幕を演じた黒ずくめーーーではなく、アンバーカラーの髪をシニヨンにした女性だった。着崩したグレースーツの上から白衣を羽織った彼女の特異な格好は一番星のように目立っていた。

「災難だったねえ、少年」

 やれやれ顔をしながらも、少年を肩に軽々と担いだ女性は近寄ってきた黒ずくめ二人衆に親指を立てた。

「申し訳ありません、シトリさん」

 黒ずくめの内の一人、身長の高い方が深く頭を下げる。

「気にしなくて良いよ。これもお仕事の内って事で」

「で、でもこの後はどうします?また、さっきの奴らが来たら」

 もう一人の黒ずくめーー小柄で、やや幼い感じの喋り方をするーーが大袈裟な身振りで、まごついてみせる。

「大丈夫さ。少年を部屋に放り込んで、後は私特製の護符ごふを貼っとく。それで取り敢えずは問題無いと思うよ」

 女性の自信たっぷりな語り口調をひとまずは信用する事にしたらしい二人は改めて礼を述べると、風のようにその場から立ち去った。

 二人の背中を見届けた女性は少年をさっきと同じように持ち上げると、アパート横に据え付けられた階段へゆったりした足取りで向かい出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

七つ星の災厄 水石悠 @AquaRock-Marine

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画