今はどこの誰ですか?
ヘリウム風船
第1話 僕にとってはいつまでもハジメという名の者へ。
はじめに
今も生きている、僕にとってはいつまでもハジメという名の者へ。
未熟な僕と友人になってくれたこと、道を指し示してくれたことに、感謝の念を伝えると共に、僕は今たのしく、幸福な人生を送っているのだと、ここに報告する。
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彼に出会ったのは、僕が大学一年生になったばかりの四月中旬、写真部の入部希望者向けオリエンテーションが行われている最中の部室だった。そこは東京工業大学の大岡山キャンパス西地区南側、サークル棟の中央にある階段を上がって右手の突き当りに位置していた。
その中は、カラオケに二人で来ているのに『そこしか空いてなくて』と偶に提案される宴会用のパーティルームのような大きさと雰囲気だった。カーテンを閉め切っているからか、昼間なのに蛍光灯が眩しかった。並べられた四つの長テーブルをそれぞれ囲むようにパイプ椅子が置かれており、そこに新入生と上級生がごちゃ混ぜになって座っていた。
興味が失せたらすぐに退出できる位置、一番後ろのドア側の端に、頬杖を突きながら僕は座っていた。
部屋の奥にある板張りのちょっとしたステージの上で、四年生の部長と副部長らしき男女が、マイクを持って楽しそうに話していた。彼らは田舎から出てきたお上りさんが想像しそうな、いかにも大学生な男女仲睦まじい様子(つまりイチャついていた)を披露しながら、部活動の紹介をしていた。
僕は壇上にいるその二人に羞恥を感じており、でもこれこそが大学生なのではないか、これを恥ずかしがらないことこそが垢抜けているということなのではないか、と無表情を繕って話を聞いていた。
そして男の冗談に女が「ちょっと!」と言いながら肩を叩くのを見て、僕の隣で赤みと僻みを滲ませた頬を隠すように目を伏せたその人物こそが、「彼」こと、ハジメという男だった。
思わず彼を見つめていると、顔を上げた彼と自然と目が合ってしまった。
「最近ずっとあんな感じなんだよ」
彼が上級生であることを察して、僕は「そうなんですか」と咄嗟に敬語を使ったが、あまり敬わなくてもいいのではないかとその時は正直に思った。
「入るの? ここ」
彼は『何でも訊いてよ』といった得意気な表情を浮かべて、テーブルの上に両肘をついた。
「楽しそうだったんで入ろうかと思うんですけど、実際どうですか?」
「楽しいよ、この大学のサークルの中でも割とトップクラスの方で、これマジに」
「へー」
僕は嫌な予感がして、何で他のサークルのことなんか分かるんだよ、というツッコミを飲み込んだ。
サークルを掛け持ちするにも二個か、多くて三個だろう。あとはインスタグラムなどで他のサークルを知ることなどはできるだろうけど、他のサークルの事情とか楽しさとかを知る方法なんてそれぐらいのはずだ。なのに自信満々で『訊かれ待ち』をする彼を見て、中学の頃にスマホを買ってもらった友達が次の日のホームルーム前、自慢するためだけにポケットからそれを取り出そうとしていた時の顔を、僕は思い出していた。
「そうなんですか」僕はそうはさせないぞ、と思いながら言った。
「うん」ハジメは一拍の間、こちらを黙って見つめてから言った。「そうなんだよー」
彼があまりに当てが外れたという表情をするので、僕は素直に訊いてあげるのが大人だったのかもしれないとは思った。とはいえ、年長が得意気に喋ることは大体無駄な自慢話だし、そんなことを話すようなやつにロクな人はいない。自分で勝手に話し始めるのを警戒して数秒残心をしてから、僕は前に向き直った。
でも僕のそんな牽制も虚しく、ハジメの向こう側から声が聴こえてきてしまった。
「えーなんでそんなこと分かるんですかー?」
とりあえずご機嫌を取っておこうなんて思ったのだろうか、何となく丸いものを想起させる女の子の声だった。
僕は彼女を迷惑な人だなと思ったが、後で思い返す度に本当はこの人にありがとうと伝えるべきだったのかもなとは思う人だった。
「ふむ、それはだね」
なぜならハジメが分かりやすく嬉しそうにそう言って、話を続けようとしたからだった。彼はなぜか話しかけてくれた女の子の方をチラリと見るだけで、僕の方を向いたままだった。
『いや、そのままあっちを向いててくれ』、と僕はそのとき思っていた。でも、いちゃつく男女を見て顔を赤らめる男に、女の子とサシで話して、という方が無理だった。
初対面の人の視線を、あからさまに無視できるほど無礼にはなれなかったので、僕は仕方なく何も言わずにハジメの方にまた目をやった。
そしてハジメは、あの言葉を口にしたのだ。
「おれ、大学百三年生だからね」
彼は自分で言ったのに少しだけ恥ずかしそうに笑っていた。その横で、僕は(きっとハジメの向こう側にいる女の子も)何も言い出せず、固まっていた。どういう種類のボケなのか。ツッコんだ方がよいのか。「留年し過ぎだろう」と乗ってあげた方がよいのか。
体の中が急に空っぽになって、何も反応できず、壇上で青春中の先輩の上擦った声をただ聴くことしかできなかった。ふいにその部長のセリフが締めの雰囲気を纏っているのに気付いて、このまま無視で乗り切れやしないかと、僕は黙ったままでいた。でもやはりまた、
「えっとー、それはどういう意味で、ですか?」
とハジメの向こう側にいる女の子が、営業スマイルを浮かべて訊いてしまった。
ハジメは得意気に、彼女の引きつり気味の頬に気付かない様子で、
「いや、そのまんまの意味だよ、百三年目なんだよね、今年。だからほとんどのサークルには入ったことあるからさ」
と話を続けた。
「そうですか」
女の子もさすがに引いたのか、そこで黙って前に向き直った。
「ではこれで説明会を終わります、入部希望の方はライングループに入ってくれれば大丈夫なので、手元のQRコードで、お願いします」
僕は結局何も言わずに、さっさと立ち上がった。危ない人かもしれない、変な人はどこにでもいるしな、そんなことを思って焦って立ったわけでもなかった。入部はやめた方がいいかな、ぐらいのことしか思っていなかった。
でも脇にどいて椅子をテーブルにしまおうとした時、意識を椅子の上に置き去りにしてしまったかのように、突然床に座り込んで、そのまま気を失ってしまった。
それは僕が勝手にχと呼んでいる(本当は神経性調節障害とかなんとか言うのだが、長ったらしいのでそう呼んでいる)、病気のような何かを持っていたからだった。
病気のような何か、と煮え切らない表現をしているのは、僕が調べた限りそのχが、『原因はよく分からないがとにかく自律神経が乱れているからじゃない?』という時に医者が使う病名らしいからだった。何だかよく分からないが事実として、めまいがしたり、酷いときには失神をしたりする、だから病気ではあるんじゃないかな。χはそんな存在だった。
昔から年に一度か二度はあった。視野狭窄によるχの前兆を感じると、いつもマジシャンに布を被せられるような気分になった。自分の体という箱から飛び出す、めまいや失神の症状に、僕はいつだって驚きの代わりに、この上ない迷惑を被っていた。
人に迷惑をかけるマジシャンはマジシャン失格だろうと心の中でいつも悪態をついているが、彼の顔も表情もよく分からないので言っても何にもならなかった。
写真部のオリエンテーションが終わった時、僕は久しぶりにその感覚を味わい、直後に体が浮くような感覚を残して、次の瞬間には真っ暗闇へと落ちて行った。自分ではすぐに目を覚ましたつもりだったが、後で聞くと数十秒ほど意識が無いままだったらしい。目を開けた時、僕は何かに乗って揺られていた。
ハジメの背中に乗って、移動していた。
自動ドアを潜ってハジメは保健室に入った。看護師らしき人に事情を説明し、真っ白のベッドに僕を寝かせた。そのとき僕は、冷や汗を全身に感じながら見る眩んだ視界の中で、「やってしまった」と嘆いていた。
毎度まいど、気を失ってしまった時は、自分だけでなく多くの人に心配と迷惑をかけた。今までの人生の中で、小学生のときの授業中や、中学時代のサッカーの試合後、果ては高校の時に彼女と街中を歩く途中、僕は急にその場に座り込み、意識を数十秒失った。
そして目を開けると必ず周りに在る心配そうな目、焦った表情、もしくは馬鹿にした顔、揺すられる肩、聞き取れない早口の言葉。
取り戻しつつある意識の中で、僕の感じる気持ちを一言にまとめるなら、情けない、だった。だからいつも自分を責める気持ちの分だけ、冷や汗をかいた体がずしんと重く感じられた。
「大丈夫、大丈夫です、ありがとうございます」
僕は力の入らない手で体を起こして、白衣を着た先生とハジメにそう言った。
「すいません」
中学生の頃に親に連れられて行った、大きめの病院でのことを思い出しながら、目の前の先生に自分の病気と症状を説明し、だから大丈夫ですと笑いながら言った。
「すいません、ちょっと座ってれば大丈夫なんで、すいません」
強硬な僕の態度に、先生も「そお?」と渋々ながら納得して、でも厄介事は免れたという安堵を滲ませて、部屋を出ていってくれた。僕はベッドの端に座ったまま、静かに息を整えた。
そしていくらか経ったころだった。なぜか部屋から出ずにずっと黙っていたハジメが、急に口を開いた。
「名前、何だっけ」
「あ、すいません、瀬尾晴輝っていいます、ありがとうございます」
「いやいんだよ、そうじゃなくて、おれは沢栗一っていうんだけど、それは今のこの体の人の名前っていうことなんだよね」
ポカンとしている僕に向かって、ハジメは構わず話を続けた。
「このいま喋ってるこの意識、つまりこの『おれ』は、おれの名前は、山本二郎っていうんだよね」
僕は返事もせずにただ息をしていた。
「おれ、大学百三年生ってさっき言ったじゃん? あれは、本当にマジなんだよ」
何の話をしているのか、頭が混濁した僕には全く分からなかった。
でも混濁していなくても分からなかっただろう。ホラを吹いているのかと、なぜ今それを話しているのかと、ハジメに一瞬視線を向ける。僕のその目にはきっと、敵意すらこもっていただろう。
「で、そんでおれ」
感謝や申し訳なさを感じつつも、早く出ていってくれ、そう思っていた。
これ以上、情けない自分を見られたくなかった。話なんかしたくなかった。
でもハジメは、そんな僕の気持ちを全く察していないかのように、淡々と話し続けた。
「童貞なんだよね」
「……は?」
ベッドの脇にある窓の外から、男女の楽しそうな笑い声が聴こえてくる。
「だからさ、おれ、童貞なんだよね」
恥ずかしそうにハジメはまた言った。二回言われても僕には意味が分からなかった。気を遣って話題を振ってくれたのか、だとしたら対応しないとと思うのだが、何で大噓に童貞を重ねてきたのか。その時には全くもってわからなかった。
「いや、だから?」
「だからさ、おれがこの大学に入学したのが百二年前なんだけど、その四年後にね、卒業する前になぜか全然知らない新入生の体に憑依しちゃったんだよね、意識だけ。」
「そんで、それ以降もずっと同じように、四年経ったら十八歳の他人の体に乗り移って、四年経ったらまた乗り移って、てのをずっと繰り返してきたわけね。卒業式を数日後に控えて、よし、もうすぐ卒業だ、って思ったら、急にこの大学の新入生の誰かの体に乗り移っちゃうわけ、まぁつまり、魂的なのが体から抜けてさ」
このときの僕の頭の中は、混沌という言葉がふさわしい状況にあったと思う。失神直後のぼんやりしているところに、こんな訳の分からないことを言われ、アルバイト初日の新人よりも混乱していただろう。いくら考えてもなぜこんな話をされいてるのかさっぱり分からなかったし、罪悪感と申し訳なさが行き先のハジメを見て戸惑い、宙でぐるぐると迷っていた。
それでもハジメがこちらの目を真っ直ぐ見てくるから、僕もつい正面から彼の目を見返していた。
「つまりな? おれは今まで、世の中に二十五人の童貞を送り出して来たわけなんだよ」
彼は薄く笑いながら、でも真剣に、僕に向かって話していた。
「憑依するたびに、おれは世に童貞を送り出して来たのさ!」
彼はやや芝居がかった言い方で、清々しく言い切った。僕は意味不明の渦の中にあいかわらず座っていた。
でも、なぜか僕の頭の中で全ての状況をちゃんと吞み込んでいるやつがいて、そいつは渦の上で胡坐をかいて、「潔い!」と手を叩いていた。
「恥ずかしいぜ」
ハジメは本当に恥ずかしそうに、肩をすぼませて呟いた。そしてその瞬間、失神によって僕の頭に掛かっていた靄が、一気に晴れていった。
「ははははははは」
僕の声はきっと、窓の外の楽しげな大学生たちにもよく聴こえていただろう。
「そんな笑うなって」
ハジメの声は、少し不貞腐れたようだった。
「っはは、はははははっ」そしてそれがまた、僕を笑わせた。「クソ迷惑じゃんか」
その時ハジメの言うことを、僕は本気で信じたわけじゃなかった。ただ、いつ思い返しても笑えてくる、本当に愉快な出来事だった。
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