第5話:元旦の初詣と青海苔

 1月1日。

 目が覚めると、知らない天井があった。

 一瞬パニックになったけど、漂ってくるカビ臭さと男の整髪料の匂いで、田中の家だと理解した。

 横を見ると、田中が口を開けていびきをかいている。

 何もなかった。

 本当になーんにもなかった。

 ただこたつで酒飲んで、そのまま雑魚寝しただけ。

 若い頃なら「私に魅力がないのか」って悩んだかもしれないけど、今は「腰痛くならなくてよかった」という安堵の方が大きい。

 色気より健康。

 これぞ中年の真理だ。


「……おーい、朝だぞ」

 田中の脇腹を足でつつく。

「んぐ……あ? 今何時?」

「10時。初詣行くんでしょ」

「うわ、頭痛ぇ……飲みすぎた」

 田中がよろよろと起き上がる。

 加齢臭が少しするけど、不思議と不快じゃない。

 慣れって怖い。


 二人で近所の神社へ向かう。

 快晴だ。

 空が青すぎて目が痛い。

 参道は家族連れやカップルで溢れかえっている。

 私たちは、どこからどう見ても「長年連れ添った倦怠期の夫婦」にしか見えないだろう。

 実際は「別居中の人妻」と「バツイチ独身男」という、説明するのが面倒くさい関係なんだけど。

 屋台からのいい匂いがする。

「たこ焼き食おうぜ」

 田中が子供みたいに言ってきた。

「朝から?」

「迎え酒ならぬ迎え粉もんだよ」

 意味が分からないけど、私も少しお腹が空いていたので付き合った。

 熱々のたこ焼きをハフハフしながら食べる。

 青海苔たっぷりだ。


「あ、真紀ちゃん?」

 突然、声をかけられた。

 ビクッとして振り返る。

「……え、サトミ?」

 高校時代の同級生だ。

 隣には旦那さんと、ベビーカーに乗った小さな男の子。

 孫だ。

「久しぶりー! ご主人?」

 サトミが田中を見てニッコリ笑う。

 誤解だ。

 全力で否定したいけど、ここで「いえ、大学の同級生で昨日は家に泊まって……」なんて説明したら余計に怪しまれる。

「あ、うん……まあ」

 曖昧に濁してしまった。

「いいわねぇ、仲良くて。うちはもう孫のお守りで大変よ〜」

 幸せマウントだ。

「孫疲れ」を装った「孫自慢」だ。

 高度なテクニックに、私は愛想笑いで返すしかない。

「じゃあまたねー!」

 サトミ一家が去っていく。

 その後ろ姿が、後光が差しているように眩しかった。


「……疲れた」

 私が呟くと、田中が横でニヤニヤしていた。

「ご主人、だってよ」

「うるさい。名誉毀損で訴えるわよ」

「ひどい言い草だな」

 二人で顔を見合わせて笑った。

 その時、田中の視線が私の口元に釘付けになった。

「……真紀」

「何?」

「青海苔」

「え?」

「前歯。びっしりついてる」

「嘘!?」

 慌ててスマホをインカメラにする。

 画面の中の自分を見て絶句した。

 前歯に、まるで最初からそういうデザインだったかのように、鮮やかな青海苔が張り付いていた。

 さっきサトミと話してる時も、ずっとこれだったの?

「……死にたい」

「安心しろ。俺もだ」

 田中がニカッと笑う。

 こいつの歯にも、青海苔がついていた。

 しかも私よりデカいのが。

「……あんたねぇ」

「お揃いだなんて、仲良い夫婦じゃん」

「バカじゃないの!」


 お互い指で青海苔を取りながら、ゲラゲラ笑った。

 周りの人が「何あのおじさんとおばさん」って目で見てるけど、どうでもよかった。

 キラキラした家族連れにはなれない。

 孫を抱く幸せな老後も、多分来ない。

 でも、青海苔ついた歯を見せ合って笑える相手がいるなら、まあ地獄の一歩手前で踏みとどまれるかもしれない。


 おみくじを引いた。

 二人とも「末吉」。

『待ち人:遅れて来る』

『健康:養生せよ』

 地味だ。

 内容も渋い。

「まあ、凶じゃないだけマシか」

 田中が言った。

「そうね。大吉出てもプレッシャーだしね」

 おみくじを結んで、神社を出る。

「じゃあな。また連絡する」

 駅前で田中と別れた。

「うん。今年もよろしく」

「生存確認程度にな」

 田中が手を振って雑踏に消えていく。

 その背中はやっぱり少し猫背で、哀愁が漂っていたけど、昨日よりは少し頼もしく見えた。


 家に帰る。

 静かなリビング。

 夫も娘もまだいない。

 洗面所で手を洗って、ふと鏡を見る。

 新しい白髪が一本、また元気よく立っていた。

「……またか」

 ピンセットを手に取る。

 でも、鏡の中の自分と目が合って、手が止まった。

 白髪があっても、シワがあっても、青海苔がついてても、まあいっか。

 そんな自分も、意外と悪くないかもしれない。

 ピンセットを置いた。

「……来年染めればいいや」

 独り言をつぶやいて、私はリビングの窓を開けた。

 冷たい冬の風が入ってくる。

 どこかで微かに、たこ焼きのソースの匂いがした気がした。

 私の46年目の冬が、静かに、でも確実に始まった。


(おわり)

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【短編】白髪のイブから、青海苔の初詣まで 〜45歳、底辺同士の生存確認〜 月下花音 @hanakoailove

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