第3話 受胎告知

 六月二十日。

 梅雨の晴れ間が、アスファルトを白く焼き尽くすような午後だった。


 私は、都心から離れた総合病院の婦人科病棟にいた。

 夫の貴之にも、あの悪徳医師の神田にも教えていない、極秘の場所だ。

 『神田レディースクリニック』のような、華美なサロンのような待合室とは違う。無機質で、消毒液の匂いが鼻をつく、命の選別が行われる場所特有の厳粛な空気が漂っている。


 私は診察台の上で、天井のシミを見つめていた。

 カチャカチャと金属音が響く。

 足を開き、器具を挿入される屈辱感にはもう慣れた。だが、今日行われている行為は、これまでの不妊治療とは決定的に意味が異なる。


「……はい、移植終わりましたよ。お疲れ様でした」


 年配の医師の淡々とした声が聞こえた。

 私の身体の奥底に、小さな、あまりにも小さな「種」が植え付けられた瞬間だった。


 それは愛の結晶ではない。

 希望の光でもない。

 夫を、医師を、そして私の人生を食い物にしてきた全ての人間を葬り去るための、時限爆弾のスイッチだ。


 リカバリールームで横になりながら、私は下腹部に手を当てた。

 まだ何の実感もない。痛みも引いていく。

 けれど、私の中には確実にある。

 貴之の遺伝子を一ミリも含まない、純然たる他者のモノ。

 この家を支配するにふさわしい、強大で冷酷なひらめき。


(さあ、根を張りなさい)


 私は胎内の異物に向かって、祈りではなく命令を下した。


(私の子宮を苗床にして、貪欲に栄養を吸い上げなさい。あの男が貢ぐ金も、名誉も、未来も、すべてあなたの養分よ)


 病院を出ると、入道雲が空を覆い始めていた。

 私はスマートフォンを取り出し、貴之からの着信履歴がないことを確認して、小さく笑った。

 彼は今頃、どこかのホテルで愛人のレナと肌を重ねているのかもしれない。あるいは、会社から遊ぶ金を捻出することに勤しんでいるのか。

 どちらでもいい。

 彼が油断し、快楽や小金に溺れれば溺れるほど、私の復讐劇は彩りを増す。


 私は腹をさすりながら、駅への道を歩き出した。

 アスファルトの照り返しさえ、今の私には心地よかった。

 私の中に「怪物」が宿った。

 その事実だけで、世界が全く違って見えた。


          *


 それから数週間、私は役者を演じ続けた。


「ごめんなさい、貴之さん。今日も体調が優れなくて……」

「そうか、無理するなよ。病院へは?」

「ええ、神田先生に電話で相談したら、今回は休んで様子を見ようって」


 神田のクリニックには行っていない。

 貴之は私の言葉を、不妊治療の送迎や付き添いをしなくて済むことに安堵しているのが、声のトーンで分かった。

 

 七月五日。

 私は自宅のトイレで、妊娠検査薬の判定窓を見つめていた。

 尿をかけてから一分。

 じわりと染み渡る液体が、試薬と反応する。


 陽性反応。

 くっきりと浮かび上がった二本の赤いライン。


 震えが来た。

 歓喜ではない。武者震いだ。

 神田のクリニックで三年かけても一度も出なかった線が、別の病院で、別の「種」を使った途端、あっさりと現れたのだ。

 それは貴之が「種なし」であることの、何よりの証明だった。


「……ふふ」


 狭い個室の中で、笑いが込み上げてきた。

 笑い声は次第に大きくなり、喉の奥からヒックという引きつった音が漏れるまで止まらなかった。

 貴之、見た?

 私は欠陥品じゃなかった。

 私の畑は豊穣だったのよ。枯れていたのは、あんたの種で間違えなかった。


 私は検査薬をトイレットペーパーに包み、ポーチの奥底に隠した。

 まだだ。

 まだ彼には伝えない。

 もっと育ててから。引き返せない場所まで彼を誘い込んでから、突き落とすのだ。


 八月に入ると、つわりが始まった。

 それは想像以上に過酷なものだった。

 朝起きると、胃の腑が裏返るような吐き気に襲われる。炊きたてのご飯の匂い、柔軟剤の香り、あらゆる生活臭が凶器となって私を攻撃した。


 だが、中でも耐え難かったのは、貴之の匂いだった。


「ただいま。いやあ、今日は暑かったな」


 夜、帰宅した貴之がリビングに入ってきた瞬間、私は口元を押さえてうずくまりそうになった。

 汗と、整髪料と、微かに残る安っぽい香水の甘い匂い。そして、隠しきれないタバコとアルコールの臭気。

 それらが混ざり合った悪臭が、私の生理的嫌悪感を極限まで刺激する。


「お、美咲。どうした、顔色が悪いぞ?」


 貴之が近づいてくる。

 やめて。寄らないで。

 あんたの匂いは、裏切りの匂いだ。

 私の細胞の一つ一つが、彼を「敵」として認識し、拒絶反応を起こしている。


「……ごめんなさい、少し夏バテ気味で」

「なんだ、またか? ちゃんと食べてるのか? 俺のために精をつける料理ばっかり作ってないで、自分も栄養摂らないと」


 貴之は無神経に私の肩を抱いた。

 吐き気が喉元までせり上がる。私は必死に奥歯を噛み締め、呼吸を止めて耐えた。


 私は貴之の腕をすり抜け、キッチンへ逃げ込んだ。

 冷蔵庫を開け、冷気を浴びて呼吸を整える。


(我慢なさい。まだ早いわ)


 お腹の子に言い聞かせる。

 この吐き気さえも、復讐のエネルギーに変えるのだ。

 トイレで胃液を吐くたびに、私は鏡の中の自分に向かって微笑んだ。

 苦しければ苦しいほど、楽しみが増す。

 この子が育てば育つほど、貴之の破滅が近づくのだから。


 スーパーマーケットでの買い出しも、命がけのミッションになった。

 鮮魚コーナーの生臭さ。惣菜コーナーの揚げ油の匂い。

 以前は何も感じなかった日常の風景が、地雷原のように私を脅かす。

 けれど、私はゆったりとしたワンピースの下で、少しふっくらしてきた下腹部を愛おしく撫でた。


 ここに命がある。

 誰の愛も受けていない、復讐のためだけに作られた命。

 それでも、私にとっては唯一の「味方」だ。


「さあ、美味しいお肉を買って帰りましょうね。あの人を太らせるために」


 カゴに高級食材を放り込む。

 貴之には、もっともっと油断してもらわなければならない。

 自分が世界の中心にいて、すべてが思い通りに進んでいると錯覚させなければならない。

 その頂点から突き落とされた時の絶叫こそが、私への鎮魂歌になるのだから。


          *


 九月一日。

 妊娠十二週、いわゆる「三ヶ月」の壁を越えた。

 流産の確率はぐっと下がり、胎盤が形成され始める時期だ。

 もう、隠し通す必要はない。

 いや、隠しきれない。


 その夜、私はいつもより少し豪華な夕食を用意した。

 テーブルにはキャンドルを灯し、冷えたシャンパン(貴之用)と、スパークリングジュース(私用)を並べた。


「おっ、どうしたんだ今日は。記念日だったっけ?」


 帰宅した貴之は、ネクタイを緩めながら上機嫌で席に着いた。

 今日の彼は、特に機嫌が良い。おそらく、会社で仕事が上手くいったか、レナと楽しい時間を過ごしてきたのだろう。


「ううん、記念日じゃないわ。でも、お祝いしたくて」

「お祝い? 何だ、俺の昇進でも決まったか?って知るわけないか。あはっ」


 貴之は冗談めかして笑い、シャンパングラスを煽った。

 私は自分のグラスに口をつけるふりをして、彼をじっと見つめた。

 今から私が投下する爆弾が、その薄っぺらい笑顔をどう破壊するのか。想像するだけで、背筋がゾクゾクする。


「貴之さん」

「ん?」

「私、プレゼントがあるの」


 私はテーブルの下から、一枚の封筒を取り出した。

 そして、ゆっくりとテーブルの上を滑らせ、彼の目の前に置いた。


「なんだ、これ」


 貴之は怪訝そうな顔で封筒を手に取った。

 指先が開封口を破る。

 中から出てきたのは、一枚の感熱紙。

 白黒の砂嵐の中に、豆粒のような白い影が映っている写真。


 エコー写真だ。


 貴之の動きが止まった。

 時が凍りついたようだった。

 彼は写真を凝視したまま、瞬きすらしなかった。


 一秒、二秒、三秒。

 彼の表情が、みるみるうちに崩れていく。

 理解できないという困惑。

 まさかという疑念。

 そして、恐怖。


 彼の脳内で、パニックの嵐が吹き荒れているのが手に取るように分かった。

 

 ――俺はパイプカットをしている。

 ――種がないはずだ。

 ――なのに、なぜ妊娠している?

 ――誰の子だ?

 ――浮気か?

 ――いや、もしそれを指摘すれば、俺がパイプカットをしていたことがバレる。

 ――そうなれば、不妊治療を強要した詐欺行為も露見する。

 ――源造に殺される。遺産も失う。


 貴之の額に、脂汗が滲む。

 視線が泳ぐ。口元が引きつる。

 その無様な百面相を、私は心の底から楽しんだ。

 最高だわ、貴之。

 あなたは今、自分が掘った落とし穴の縁に立たされていることに気づいたのね。


「……こ、これは……」


 ようやく彼が絞り出した声は、掠れて震えていた。


 私は満面の笑みを浮かべた。

 聖母のような、慈愛に満ちた、完璧な妻の笑顔を。


「赤ちゃんよ、貴之さん! やっと、やっと来てくれたの!」


 私は席を立ち、固まっている貴之に抱きついた。

 彼の身体は石のように硬直している。


「嘘みたいでしょ? 私も信じられなかった。でも、神田先生じゃなくて、セカンドオピニオンで行った病院で検査したら、間違いないって! 今、三ヶ月なの!」


 嘘に嘘を重ねる。

 彼が反論できないように、逃げ道を塞ぐように。


「三ヶ月……?」


 貴之が呆然と呟く。

 そう、計算が合わないはずがない。彼はその時期、私と何度も行為に及んでいたのだから(もちろん、種のない行為を)。


「あ、あのさ……本当に、俺の子、なのか?」


 彼が一番聞きたい、けれど聞いてはいけない問いを、震える声で口にした。

 私は彼の胸板に顔を埋めたまま、冷酷に目を細めた。

 

「そうよ! 貴之さんの子に決まってるじゃない」


 顔を上げ、彼の瞳を覗き込む。


「だって、私は貴之さん以外の人となんて、ありえないもの。……それとも、私が浮気でもしたって言うの?」


 私の瞳から光を消し、静かに圧をかける。

 さあ、言いなさいよ。

 『俺は種なしだ』って。

 『お前が妊娠するはずがない』って。

 言えるものなら言ってみなさい!


 貴之の喉仏が大きく上下した。

 彼は視線を逸らし、引きつった頬を無理やり持ち上げた。


「い、いや! そんなこと言うはずないだろ! ……驚いただけだ。あまりにも、突然だったから」

「そうよね。私もびっくりしちゃった。……嬉しくないの?」

「う、嬉しいさ! もちろんだ!」


 貴之は大声で叫び、私を抱きしめ返した。

 その腕の力は弱々しく、彼の心臓は早鐘のように打っていた。


「やったな! ついに、ついにパパになれるんだ!」


 彼の口から出る言葉は、すべて空虚な台本棒読みだ。

 心の中では『どうする、どうする、なぜこうなった』と悲鳴を上げているのだろう。

 

「ええ、貴之さん。ありがとう。あなたの『努力』のおかげね」


 私は彼の耳元で囁いた。

 貴之の身体が一瞬ビクリと震える。

 『努力』。それは彼にとって、私を騙し続けてきた三年間を指す。私にとっては、彼を追い詰めるための布石だ。


「お父様にも、報告しなきゃね。きっと喜ぶわ」


 トドメの一言。

 源造の名前を出した瞬間、貴之の顔から完全に血の気が引いた。


「そ、そうだな……。お義父さん、きっと驚くぞ……」


 貴之の目が、助けを求めるように虚空を彷徨う。

 おそらく今すぐ神田に連絡を取りたいに違いない。『どうなってるんだ、あの女が妊娠したぞ!』と泣きつきたいのだろう。

 行ってらっしゃい。そして泥沼でもがくがいいわ。

 神田ごとき悪徳医師に、この状況を覆せるはずがない。


 私は貴之から離れ、改めて乾杯のグラスを持ち上げた。


「乾杯しましょう。私たちの未来と、この子に」

「……ああ、乾杯」


 貴之がグラスを合わせる。

 カチン、と澄んだ音が響いた。

 それは、貴之の破滅へのゴングだった。


          *


 翌日、私は養父・権蔵ごんぐら源造げんぞうが入院している特別病棟を訪れた。

 貴之は仕事を理由に来なかった。おそらく、まだショックから立ち直れず、合わせる顔がないのだろう。あるいは、神田と密会して対策を練っている最中か。


 重厚な個室の扉を開ける。

 消毒液と、枯れた花の匂いが混じった空気が流れてくる。

 ベッドの上には、かつて「不動産王」と呼ばれ、多くの人間を泣かせてきた男が横たわっていた。

 痩せ細り、点滴の管に繋がれた姿は、ただの死に損ないの老人にしか見えない。

 だが、その眼光だけは、今も鋭く冷たい光を宿していた。


「……来たか」


 酸素マスク越しの声は低い。

 私はベッドの脇に立ち、静かに一礼した。


「お加減はいかがですか、お父様」

「見ての通りだ。……で、用件は何だ。貴之の使いか?」


 源造は私の顔を見ようともせず、天井を見上げたままだ。

 彼は私を娘だとも思っていない。ただの所有物だ。


 私はバッグからエコー写真を取り出し、サイドテーブルに置いた。

 貴之に見せた時と同じ写真だ。


「ご報告があります。……子供を授かりました」


 源造の視線が、ゆっくりと写真に向けられた。

 そして、私の方へ移動する。

 その目は、獲物を品定めする蛇のようだった。


 普通なら、ここで「おめでとう」と言う場面だ。

 だが、源造は表情一つ変えなかった。

 驚きも、喜びも、疑念もない。

 ただ、事実を確認するように、じっと私を見つめた。


「……そうか」


 短い一言。

 それだけだった。


「現在、十二週です。順調に育てば、来年の春には生まれます」

「男か、女か」

「まだ分かりません」

「……いいだろう」


 源造は目を閉じた。

 会話はそれで終わったかのようだった。


 私は彼の反応を探るように、言葉を続けた。


「貴之さんも、とても喜んでいました。『やっと自分の子ができた』と」


 鎌をかける。

 源造は、貴之がパイプカットをしていることを知っているのだろうか?

 あるいは、この子が誰の種であるか、勘付いているのだろうか?


 源造の口元が、微かに歪んだ。

 それは嘲笑のようでもあり、哀れみのようでもあった。


「あいつは……バカな男だ」


 その言葉の意味を、私は反芻はんすうする。

 貴之が「種なし」だと知っていて、それでも妊娠を喜ぶ(フリをする)姿を滑稽だと言っているのか。

 それとも、自分の死期を待つハイエナとしての浅ましさを笑っているのか。


「お父様、この子は……権蔵家の正当な後継者になります」

「当然だ。俺の魂を引き継ぐお前の子が、全てを継ぐ。……それ以外は認めん」


 『俺の魂』。

 その言葉に、私は背筋が粟立つような感覚を覚えた。

 貴之は婿養子だ。血は繋がっていない。

 そして私も養子だが、この人の帝王学で育った。いわば魂を引き継いだ。そのお腹の中にいる子は――。


 源造は目を開け、私を射抜くように見た。


「美咲。身体を大事にしろ。……その腹の中身は、もはやお前だけのものではない。権蔵そのものだ」

「はい。肝に銘じます」


 私は深く頭を下げた。

 これ以上の言葉は不要だった。

 ここにあるのは、親子の情愛ではない。契約の確認だ。

 私は「器」としての役割を果たし、彼は「霊統」の存続を確信した。それだけの儀式だ。


 病室を出ると、廊下の冷房が汗ばんだ肌に冷たく感じられた。

 私は大きく息を吐き出した。


 お父様。

 あなたは気づいていないでしょう。

 あなたが「権蔵そのもの」と呼んだこの子が、やがてあなた自身をも食らい尽くす怪物になることを。

 かつてあなたが私の実父を殺したように、今度はこの子が、あなたたちの築き上げた帝国を内側から破壊する。


 お腹の子が、ポコ、と動いたような気がした。

 まだ胎動を感じる時期ではないはずだ。

 けれど、確かに私の中で何かがうごめいた。


 それは共鳴だった。

 私の復讐心と、この子の生存本能が、シンクロしたのだ。


 私は廊下の窓に映る自分の姿を見た。

 そこに映る女は、もう被害者の顔をしていなかった。

 口元に冷酷な笑みを浮かべた、母なる復讐者。


「さあ、始めましょうか」


 私は呟き、エレベーターのボタンを押した。

 下降する箱の中で、私は来るべき「審判の日」を思い描いた。

 貴之が、神田が、そして源造までもが。

 全員が絶望の底に叩き落とされる光景を。


 その中心で、私はこの子を抱いて微笑むのだ。

 万物を灰燼かいじんに帰す悪鬼のように。

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2025年12月31日 11:11
2026年1月1日 01:01
2026年1月1日 11:11

だから、私は妊娠しました。 団 田 図 @dandenzu

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