竜の十戒

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第1話 竜の十戒

 ラニの憧れは竜騎兵だ。

 朝早く、彼らはかげの谷から花海原へ飛んでゆく。真珠や光る貝殻のような鱗を持つ竜に跨がるのは鍛えられた身体を持つ男性だ。近頃よく見かける竜は白色と新緑色で、輪郭を光に縁取られ、翼の音と共に過ぎていく。薄水色の広い空を背にゆったり羽ばたく彼らは優美だった。

 ラニは、バロメッツが群生する野原で彼らを見送る。この辺りの住人は、皆がそうだ。綿が満々と実り、真っ白に染まった野原を夜明けの涼やかな風がやさしく撫でた。

 かげの谷一帯は布の町だ。皆がバロメッツの綿を紡ぎ、布やキルトを作って暮らしている。ラニも同じく暮らしているため、朝一番に野原の様子を見て、刈り入れを済ませるのが習慣だ。

 バロメッツは基本的に、丸っぽい葉の植物である。年中問わず花をつけ、羊そっくりの実をつける。実は鳴き声を上げるし、足を動かして動物のようだ。この実から、良質な綿が取れた。若い実から綿や麻が取れ、よく熟した実はウールになった。肉も取れる、便利な植物だ。これは、都に住む王様がかげの谷に与えてくれた植物である。

「きれいね」

 今朝のラニは一抱えの子羊のような綿を刈り取って、赤い瞳でうっとり空を見上げた。バロメッツは時々、羊の声で鳴く。ラニの赤みがかった桃色の髪が日差しに透ける。肌はたまごの殻の色で、背丈は中くらい。麻と綿をつむいで作った服に、様々な色をした房飾りが結んである。それにゆったりした色の濃いズボンと、足さばきを隠すスカートを重ねてはく。帽子はてっぺんが二股にわかれて、大きなボタンがつけてある。ここいらの者らしい格好だった。髪や肌の色は皆それぞれだったけれど、この格好が町の者の服なのだった。

 花海原は、月の島の中層より少し上にある。球体の浮島である月の島の斜面に、小さな緑の葉をつけて群生した灌木たちが、白い壺状の花を咲かせて真っ白に染まる。そこから良質な蜜が取れるというので、竜騎兵たちは貴人のために蜜を取りに行くのが仕事のひとつだ。大ばばさまはラニにそう教えた。

 ラニは、空に点のような大きさで見える竜と二人の騎兵が花海原に降り立つ姿を想像した。そこで二人の騎兵が蜜を集め、竜たちが白真珠と新緑の鱗を光らせながら休んでいる姿を想像すると、とても美しい絵を見た気分になった。

「──急いで帰らなきゃ」

 想像の世界から目を上げて、ラニは笑った。今日も仕事が山積みなのだ。ぼんやりしていると、きっと後悔する。

 バロメッツの皮で作ったサンダルが柔らかく地面を踏みしめる。ラニは子羊のような綿を両腕に抱いて、大股で歩き始めた。




 月の島は球体の浮島だ。エメラルドグリーンに透き通った海に浮かぶ、乳白色の島だった。球は七割ほどが水面に浮かび、残りの三割が海に沈んでいる。底が網状のサンゴ礁に支えられているから、転覆はしない。

 球の内側はえぐれて、すり鉢状になっていた。丁度、丸い実を斜め上からスプーンで掬った形だ。外側でいちばんえぐれているところはごく狭い入り江で、島の港だ。また、すり鉢の底には湖があって、かげの谷はその水辺に位置しているため、一日のほとんどが薄暗い。一日のうちほんの短い時間だけ日が差すのが特徴だ。光るキノコやコケの花があちこちに見えた。青い光石のランプが家々の軒先に吊してある。家は煙水晶をくりぬいたドーム型で、中にキルトを貼って暮らし良くするのだ。段差が多く、美しい町だ。段々に、そしてまばらに見える煙水晶の家が並ぶ谷底は柔らかい苔に覆われ、飛び石が置かれている。

 ラニは丸いとび石の道を飛ぶように駆けていく。コケ蒸した道で、足を濡らさず歩くにはこれがいちばんだ。

「おはようラニ」

「おはようおじさん!」

 集落の角でボタン屋をやっているおじさんは、壁一面を埋めつくす色とりどりのボタンのほかに、ビジューや飾りレースも少し扱っている。

 きらきら、しゃらしゃらと美しいそれらを眺めていると時間が溶けていくため、今朝のラニは捕まらないよう急ぎ足だ。糸を紡いで、染料で染めて、布にして、仕事は山積みだ。

 早く糸を紡ぎたくて駆け抜けようとしたラニに、おじさんが後ろから声をかけた。

「聞いたかい? 竜の卵ができたって」

「えっ?」

 ラニはかけ去りそうになりながらちょっと振り向いた。

 ボタン屋のおじさんは頭のてっぺんが禿ている。

 ふくふくした赤い頬に丸い鼻、ブラウンの豊かなひげ。その奥に、丸眼鏡と愛嬌のある目。体つきは中肉ながらややふくよかだ。チェックのシャツにエプロンを着て、布をたっぷり使ったズボンを合わせていた。

 変わり者で有名な人だけれど、ラニも少し変わり者として扱われていたから、仲は良い。

「それも、湖の底さ!」

 ラニの足は完全に止まった。

 おじさんは人好きのする笑顔を浮かべる。ラニの反応が予想通りだったことを喜んでいる様子だ。

「珍しいよな。普通、金の木に成るってのに」

 かげの谷は話題が乏しい田舎だ。こんな噂話ならみんな大好きである。

 竜が成る木は、月の島の一番高い峰に生えている。そこから月の島がえぐれ、人々に暮らす場所を与えてくれたと考える人々もいる、神聖な場所だ。花の峰と呼ばれる場所で、峰の真ん中にあるのが金色の木。竜はこの木に実って生まれる。生まれてくる鱗の色と同じ宝石のような膜につつまれて木に実るのだ。

「それも今回のは、とびきり小さいらしい」

「それ、どういうこと?」

 ボタン屋のおじさんは肩をすくめ、首を傾げた。詳しいことは知らないのだ。

「それが解ればね。もしかしたら、都じゃ何かわかるかも知れないんだが」

「ふうん」

 ラニは相槌をうって、自分が抱いている綿に頬を寄せた。

 竜は生まれてくる前に自分の相棒を選んで呼ぶのだという。ここまで登ってきて、自分の誕生に手を貸してほしい、と。

 呼ばれたものは、自分の手と足で峰を登らなければならない。

 声を聞いたものがたとえ地下の都に暮らす者であったとしても、自分の足で険しい峰を歩ききるのだ。

 ラニはかつて、自分がそんな風に峰を登る様を夢想した。リュックサックに食べ物とシュラフを詰めて、険しい山道を登るのだ。騎兵を目指す男性たちにとって容易い道でも、ラニにとっては大変な登山だ。それはきっと苦しく、そして心躍る冒険になっただろう。

 実際にそんな機会が巡ってくることはなかったが、夢想だけなら何度もしてきた。しかし、今回のような場合はどうなるか。誰か、どうにかして湖の底へ行けるのだろうか。ラニは、あとで大ばばさまに聞いてみようと思った。




 午前中いっぱい、ラニは糸車を回していた。

 青白い光石のランプが照らす部屋に、大きなはずみ車とスピンドルの回転音が響く。

 木製の糸車は母から引き継いだ。長く使い込まれた年代物でありながら、まだ十分に動く。バロメッツの実から綿を刈り、下ごしらえしておいたものを細く紡いでいく。

 ペダルを踏んではずみ車を回し、糸をよりあわせながらスピンドルに巻きつける。この仕事は、ラニの手にすっかりなじんでいた。物心ついた頃から糸や布に触れて育ち、ずっとかげの谷で暮らして三十二歳になったラニは、糸紡ぎから染色、織物、縫物まで何でも得意だ。

 今度は何色の織物にしようかしら。とりとめもなく考えて、ラニは顔を上げた。

 煙水晶の家は、換気用の大きな窓と玄関を備えている。また、内側に張ったキルトも一部が開閉できるため、谷底の昼間がどんなに薄暗かろうと、出来る限り積極的に外の明るさを取り込むようにできていた。

 ラニの家のキルトは、淡いブルーグレーとアイボリーの大きなストライプだ。表面に模様が見える部分は、繊細なレースが縫いつけてある。半球に縫ったこれを家の八方から吊して、住空間を囲むのだ。裏面は白くするのが通例だから、外から見る分には、家の中の様子はわからない。ただ、窓や採光部から伺いみるばかりである。

 ラニは床に落ちた光の彩を見て、太陽がすっかり高い位置に登っていることに気が付いた。いちど休憩した方がいい。凝り固まった身体で打ち込んでも、良いことはない。すこし身体をほぐそうと立ち上がる。

 そういえば、棚にパンがある。バロメッツのサラミとチーズもあるから、サンドイッチができそうだ。

 ラニはバスケットにサンドイッチと水筒、それから小さなオペラグラスを詰めた。これは、ずっと昔に父が買ったものらしい。ラニは、小さいころに使い方を習った。

 気分転換がしたい。湖のほとりまで歩こう、と決めた。

 かげの谷をゆっくり歩いて抜け、様々な種類のベリーの樹が茂る森を通り過ぎる。

 やがて足元はくるぶしにも届かない草が生える砂利の道となり、視界が開けた。

 日差しの注ぐ湖の水面は鏡のように輝いて見えた。薄暗い場所から出てきたラニははじめ、目がくらむ思いがした。目を瞬かせながら乾いた草むらの中に見つけた岩に腰を下ろし、サンドイッチを食べてお茶を飲んだ。そうしている内に明るさに慣れて、辺りの様子が見えてくる。

 家に使う煙水晶は、このあたりからも掘り出してくる。あちこちに立派な結晶が六角形の束になって突き出しているし、足元に見える砂利だって、小さな水晶だ。これらにも光が乱反射しているから、あんなにまぶしかった。そして、湖。今日は空が良く晴れているから、透き通った水が青空を映して鏡のようだ。湖はひどく広い。向こう岸が少しかすんで、湖畔の緑が遠くに見えた。向こう岸の、ずっと向こうには港町がある。ただし、ラニは見たことがない。というより、かげの谷からほとんど出たことがないのだ。

 海は、目の前の湖よりずっと広いという。見たことのない海や今以上に開けた視界を夢想した後、ラニは目の前の湖に視線を戻す。

 湖のどこかに、竜の卵があると聞いた。見渡す湖面はきらきら光るばかりだ。目立つ物は見当たらない。眩しくなって、目をしばたかせる。

 気晴らしも済んだし帰ろうか、とラニは思った。オペラグラスを抱えてきた、いい年なのに非日常を求める自分が可笑しくて口元が笑っていさえした。

 ところがこの時、不思議なことが起きた。これまで晴れていた空に、大きな雲が一塊、流れてきたのだ。雲が太陽を隠すと、湖面の輝きが落ち着き始める。涼しい風が吹いた。

 その瞬間、ラニは気づいた。湖は、思ったより近い場所で崖のように深くなっている。そして、湖中の崖下には湖底が見える。怖ろしい透明度を持つ湖の、明るく深い水底に、大きな気泡があった。泡はいつまでも浮き上がってこず、湖底に留まっている。

 何かしら、あれ。

 不思議に思ったラニは、オペラグラスを取り上げて覗き込んだ。──もとからこんな風に、深い場所に何か見つからないか、期待してやってきたのだ。

 ゆらゆら揺れる水の底は、見定めがたい。しかし、ラニはじっと目を凝らした。そして、見定めた。

 泡の中に、金色の裂け目が見える。水の底にあっても金色に光って見える裂け目から、何か飛び出している。木の根に見えた。それも、金色だ。島の頂きに生える、金色の木の根ではないだろうか。そしてそこに、紫色の球がひとつ、確かにくっついているのだった。大きさは、比較できる対象がないから掴みにくい。今朝抱えたバロメッツの実くらいだろうか。

 あれ、卵かしら、とラニは思った。

 紫。それも、少し白っぽい紫である。悪い菌の胞子であると言われたら、信じてしまいそうな色だ。

 あそこから竜が生まれてくる。きっと、小さい竜だろう。思い浮かべて、ラニはやっと、思い至った。

 今度生まれる竜の背中には、誰も乗れない。新しい竜騎兵の枠はない。

 ラニは少し、がっかりした。がっかりした自分に気づいて、驚いた。竜の卵、と聞いた自分は、少しでも竜騎兵になった自分を想像していたのだ。途方もない妄想である。

 けれど、自分を責めもしなかった。きっと他にも、もっとがっかりする人がいるだろう。島中に、そういう認識があった。

 竜の卵が実るのは不定期で、気まぐれだ。数年のうちに二匹生まれたこともあるし、何十年と聞かない事だってある。

 今回の卵は、二十年以上ぶりにできた。前回はラニが幼いころ、両親が健在で、一緒に少し大きな家に暮らしていた時分にできたと記憶している。

 その時は、金色の木に大人が膝を抱えて丸まった位の大きさの、真っ赤な実が成った。ラニは、かつてオペラグラスで実を確かめた自分が大はしゃぎしたのを覚えている。かげの谷もなんだかお祭りのようになって、にぎやかな数日を過ごした。

 それで、数日経ったころ、都から暗い栗色の髪をした男性が出てきた。彼は、港町の方から山を登った。

 男性が山を登る様子を、ラニはオペラグラスや村の望遠鏡で飽きずに眺めた。ただ、竜を孵すところは見られなかった。彼の姿は距離に従って小さくなったし、空は時間通り茜に染まる。男性がシルエットにしか見えなくなり、やがて、日が暮れた。オペラグラスは、夜闇の中では役にたたない。望遠鏡も、星なら見えるが人影は難しい。あくる朝、ラニは実がなくなった木を見上げてがっかりした。

 その後、彼らが良いパートナーになったと聞き及び、寂しさを覚えたものだ。卵を孵したのが自分だったら、どんなに良かったか。誇らしかったか。

 時折、彼らが花海原に飛んでいく姿を見る。そのたびに憧れて、うっとり溜息を吐いてきた。

 憧れなのだ。小さい頃からずっと、空を見上げて竜たちの姿を探してきた。運よくその姿を見つけると、心が明るくなる。落ち込んでいる日にも、竜たちが顔を上げる切っ掛けをくれた。

 あそこを飛んでいるのが自分だったら、どんな気持ちだろう。益体もないが、数えきれないほど夢想してきた。

 改めて、ラニは水底の卵を見つめる。

 小さな竜。誰にも乗れない、何の仕事ができるかも判らない竜。けれど確かに、今はあそこにいる、命だ。あの卵も、誰かを呼んでいるだろうか? 誰かその声を、聞いただろうか。

 竜の卵は、誰も孵さずにいると宝石に変わってしまう。

 早く誰か迎えに行けばいい、と切実に願った。

 そうしている間に太陽を隠した雲が流れていき、湖は再び、鏡のように光り始めた。ラニは目を擦り、森の奥へ帰っていった。




 かげの谷が苔むしているのは、あちこちから水がしみ出しているからだ。月の島に降った雨は地面に染み込み、かげの谷の地面の隙間から湧きだす。

 とはいえ雨量自体が少ない。大きな河ができるというのでもなく、せいぜいが、スープ皿を使って水を掬うのに川床を皿が擦るような浅さだ。

 無数にあるせせらぎを辿った一番奥に住んでいる、一番初めに住み始めた方だ、と称されるのが大ばばさまである。

 枝のように細い体つきをして、腰の曲がった、下唇の分厚い老婆は、真っ白の薄い髪を長く伸ばしている。髪は首の後ろで二つに分け、肩の前に垂らして腹まで垂れ下がっていた。

 動作が遅く、耳もやや遠いのであるが、かげの谷の生き字引として尊敬を集める御仁だ。バロメッツの扱いはもちろん、難しい染物の色の出し方から織物の模様の意味までなんでも詳しかったし、天気予報や占いもこなし、港町と都のことも、よく知っていた。

 難しいことがあると、村人は皆、大ばばさまを訪ねる。このバロメッツから、どんな糸を作りましょうか。こんな色を作るには、どの染料と触媒を使うのがいいでしょうか。雨はいつ頃降りましょうか。今度、出産する娘は安産でしょうか。大ばばさまは何でも嫌がらず、穏やかに答える。ラニが小さなころからそうだったし、ラニが今の歳になっても、そう変わったように見えない。昔より痩せた、と感じる程度だ。

 ラニが大ばばさまを訪ねたのは、湖を見に行ってから数日後の事だった。それまで、紡いだ糸を染めたり、織ったりしていた。それでも何となく、頭の隅に竜の卵のことが引っかかっていた。

 まだ、誰かが卵に呼ばれたという話を聞かない。それがずっと、気がかりなのだ。

「大ばばさま!」

 ラニは大きな声で呼びかけながら、大ばばさまの家を訪ねた。窓が開いている。煙水晶の内側に張られたキルトも開いてあるようだ。ならば、訪ねても失礼には当たらない。

 かげの谷の文化にのっとって、ラニは手土産だって持ってきた。ミックスベリーのジャムと、バロメッツの肉で作ったミートパテだ。これなら、噛む力が弱くなった大ばばさまの口にも合うだろう。砂糖と塩は貴重な品だから、手土産として筋が通っている。

 遠くから「はい」としわがれた声が応じた。細いが、よく通る声だ。

「ラニだね、おはいり」

 促されて、ラニは大ばばさまの家に踏み込んだ。

 大ばばさまの家は、まめまめしく整理整頓されている。小さなストーブだとか、よく磨かれた箪笥だとかはもちろん、ドライフラワーを飾ってあるボードだとか、パッチワークの布団にレースのシーツがかけてあるベッドだとかから、人柄が伝わってくる。

 壁を包む温かい橙の布も良かった。光石の青白い光に照らされていても、この家は温かい印象だ。

 その大ばばさまは、丁度、涼し気な水色の、薄手のニットを編んでいるところだったらしい。手を止め、微笑んでラニを迎えてくれた。皺だらけの顔の中で、金色の目が和らぎ、糸のように細まる。丸い背中が一層丸まって見えた。

「今日はどうしたね」

 ラニは少し、言葉に詰まった。大ばばさまが出してくれた小さな木の椅子に座って、二人で小さなストーブを囲む。中で燃えているのは、熱を出す水晶片だった。

「私……都へ行ってみたい」

 竜がどうなるか知りたいなんて、幼稚で、子どもっぽい事だ。

 だが、寝ても覚めても卵のことが頭から出ていかない。ボタン屋のおじさんに「都じゃなにかわかるかもしれない」と言われた、その言葉が頭にこびりついている。確かに、全ての情報は都に集まるという。リフレインするごとに、都へ行ってみたいと考えるようになった。

 だから、ここに来るまでの間に、ラニは言い訳を考えてきた。その言い訳が、こんなに口から出にくいとは考えても見なかった。ラニははにかんで笑った。

「おや、急だね」

 ストーブの上に、ポットがかけてある。まるで、客が来ることをあらかじめ知っていたように、今しも沸騰し始めたところだ。大ばばさまはこれを取って、ハーブを数種類投げ込んだ。部屋の中に、優しい香りが漂う。

「ドレスを売ろうと思う。もう、使わないから」

「まだ、わからないよ」

「わかるよ。もういい年だし」

 ドレス、というのは、婚礼衣装のことだ。ここいらの娘は十代の中ごろにこれを仕上げる。自分の晴れ着を用意しておくのだ。

 男性の多くは娘の衣装の噂を聞きつけて交際を申し込む。二人の気が合えば、晴れて婚礼となる訳だ。

 この風習は、かげの谷で何十年も続いてきた。だから当然、ラニもドレスを作った。けれど、手をかけたのは十九歳を手前にしてだ。それは、ちょうど十五歳の頃、両親を亡くしたからだった。両親は、都へ用事があって出かけ、帰ってこなかった。後からやってきた商人が、落石事故を教えてくれた。それっきりだ。それっきり、ラニは一人で暮らしてきた。

 昔に住んでいた家は、一人きりのラニには広かった。これから婚礼するという二人に明け渡し、村はずれの小さな家に住み替えた。

 長く空き家だったらしい小さな家は、住み始めるのに手がかかった。

 母が手掛けたという家の内張りキルトを仕立て直して小さくしたり、喪服を作ったりした。あとは、何かいろいろ夢中で作っている内に、十七歳になっていた。かげの谷の娘たちが花さかりと称される時間が、終わろうとしていた。

 十七歳のラニは、燃え尽きたようにかげの谷を眺めていた。昔少し憧れた男がいい人を見つけても、同じ年頃の娘たちが婚礼していくのを見ても、何も感じなかった。

 十八歳になってやっと、そろそろドレスに取り掛からなければ、と思った。その頃にはじゅうぶん行き遅れかけていたけれど、まだ、小さな憧れがあった。精いっぱいデザインをして、何度も試作して、やっとドレスができた頃、十九歳になりかけていた。

 ラニが作ったのは、真珠色のドレスだ。それに、珊瑚の飾りとレースを縫いつけた、綺麗な衣装である。

 谷のだれもがそれを褒めた。金貨一枚分の価値があるとまで評された。同時に、皆が知っていた。ラニと同じ年頃の男はとっくにみんなが所帯を持っていて、年下の子どもたちには、それぞれ思う相手がいるようだ、と。ラニ自身、ドレスを仕立てる最中にも、状況は知っていた。だから、作ったドレスを大事にしまい込んだ。まるで、作って満足したとでも言うように。

 仕事は、他の誰と比べても見劣りしない。作ったものにきちんと買い手がつく。これからの生活に困ったりしない。それで、十分ではないのか。

 けれど、あれが家にある限り、きっと考えてしまう。

 谷でたったひとり、独身の女性になってしまった。大ばばさまも一人で暮らしているけれど、昔には旦那がいたと聞いている。未亡人と独身は、大きく違うらしい。だからラニは少し、変わった目で見られていた。同時に、皆がラニを扱いにくそうにしている事も知っていた。かげの谷で、ラニは異端だった。

「それでね、行商人さんに預けようと思ったんだけど、誰が買ってくれるのか、ちゃんと見たい」

「ラニ……」

 大ばばさまは、困った様子でラニを呼んだ。

 呼びながら、ポットのハーブティーをカップへ注ぎ、ラニの前に置いた。ラニは微笑む。大ばばさまはいつも、ラニを気にかけてくれた。

「ラニや、ほんとに行くかい?」

「行く。だって、ずっと持っていると辛いよ」

 ラニがきっぱり言うと、大ばばさまは黙った。嘘なら、大ばばさまはきちんと止めてくれただろう。けれど、この言い訳はラニの本心だ。

 これは、思い切るためのまたとない機会ではないか。

 ドレスを売りに行く。そして一緒に、あの竜の卵がどうなるのか聞いてくる。

 それは、一生に一度、一世一代の冒険になるだろう。かげの谷の住人は、ほとんど谷を出ることがない。

 決意したラニの目を見て、大ばばさまはゆっくり、ごくゆっくり、教えてくれた。

 港町と都を繋ぐ主だった道は、往還と呼ばれている。往還はよく整備されて、歩きやすい。

 一方で、港町とかげの谷、かげの谷と王都を繋ぐ道は、ごく細い。荷車一台分の道幅が、人の往来によって保たれている。よって、これらを往来と呼ぶ。

 かげの谷から王都へは、往来を使って徒歩で二日。往来で港町を経由し、往還を通って都へ向かうにも二日。往来はどちらへ行っても同じ整備具合だ。ただし、往還は通行料がかかる。

「せっかく都に行くなら、農場と牧場も見てお行き」

「地下にあるの?」

「都だって地下にあるよ」

 大ばばさまはきっぱり言った。ラニだって、都が地下にあることは認識していたものの、改めて言われると不思議に感じられた。かげの谷は苔だらけだ。シラカバの森にベリーの木が茂っているのは、かげで育つ果物として植えられたからだ。谷や森よりなお暗い地下に農場がある、という不思議に、少し心が躍った。

 きっとこれは、思いがけない冒険になる。

「バザールで物をうるなら、お城で許可を貰うんだよ」

「わかった」

 お城で許可を貰う、と覚えこみながら、ラニは笑った。大ばばさまに疑われず聞きたいことを聞けて、嬉しかったのだ。笑って、やっと今日の狙いであった、竜の卵のことも口に出せた。

「そうだ大ばばさま、卵の話はもう聞いた?」

「聞いたよ。小さいらしいね」

「どうなるんだろう?」

 ちょうど、話をそらして世間話をするような切り口になってよかった。ラニは笑みを浮かべて大ばばさまを見つめた。

「さて、湖の底なら、王さまが何かお決めになるだろうけどね」

 大ばばさまは肩をすくめる。

「知りたいなら、都で人に聞いてみるのがいいよ」

 ラニは目をまばたかせた。大ばばさまはきちんと、ラニの好奇心をも見抜いているのだ。それでも止めずにいてくれた。やはり大ばばさまは優しいひとだ、と思った。




 自宅に戻ったラニは、すぐ旅支度を始めた。

 大ばばさまが荷物を提案してくれたのだ。持っていた方がいいものを、ラニの持てそうな量で教えてくれた。それで、さほど迷うことはなかった。

 まず、ドレス。これは汚れないよう、布の袋に入れる。皺になっても困るから、他と一緒にせず、荷物の上にくくりつけるのがいい。次に、食べ物。固く焼いたパンやクッキー、それに、塩漬け肉のサラミ。飲み物は、ボトルにひとつ。農場や牧場で頼んで水を汲みかえること。それから、着替え。旅の間は同じ服を着ておいて、都に着いたらすぐ、宿を取って着替える。さっぱりした服装がおすすめ。忘れてはならないのが寝袋で、地下では雨の心配がないし、そう寒くもないから薄手のもの一枚。専用品はなかったから、薄手の毛布を汚れてもいいシーツで包んだ。路銀は、目立たないよう服の下に巻きつけておくのが良い。あとは、護身用にナイフを一本。日々バロメッツを捌くのに使っている折りたたみナイフがちょうどよかった。最後に、光石のランプ。玄関に下げてあるランプは、外出が長くなる時、家の中に入れておくのが決まりだ。今回は地下に行くから、持って行ってしまうのがいい、という。

 すっかり覚えこんだ荷物を見返し、確かめながら、ラニは少しほっとした。大きなリュックサックがあれば、楽に運べそうな量だ。リュックサックなら、家の長持の中にある。

 帆布で作ったリュックサックは、幾つか作った内のひとつだ。気に入ったので……いや、いつか竜に呼ばれる日を夢想していたので、とっておいた。こんな風に役立つ日が来るとは思っていなかった。

 ラニは取り出したリュックサックを隅々まで確かめ、穴やほころびがないと確認した。荷物を詰め込み、ドレスを入れた袋を丁寧に巻いてしばりつけたら準備完了だ。

 明日の朝早く、明るくなる前に、玄関のランプを持って出かけよう。そう決めて、ラニは地下の都を、湖の底にできた竜の卵を思った。




 明朝、ラニの目が覚めたのはまだ夜中と言って差支えない時間だった。そもそも、かげの谷は暗く湿った場所である。夜間の空気はひんやりして、静まり返った中に水の音が微かに聞こえた。時折、そんなしじまを引き裂いて、夜行性の鳥たちが鳴く。

 ラニはゆっくり身体を起こした。室内用のランプを弱く灯し、身支度を調えて、リュックサックを背負う。

 昨晩、ベッドに入る前に、家じゅうを片づけてあった。何かあっても、家を訊ねてきた人が困らないようにしたいと考えたのだ。

 何か、というのは、両親が遭った落石のような事故だ。どうしてもラニの脳裏に過る事故は、これから地下に行く以上、振り払うことができない。それでも、ラニの決意は固かった。

 暗がりの中に、見慣れた部屋が沈んでいる。大きなはずみ車のある糸車、壁のキルト、さっきまで身体を横たえていたベッド。重たい長持。

 満足が行くだけ片付いている事を確かめた後、窓の鍵を確かめて室内用のランプを消した。

 玄関から出て、鍵をかける。半回転、小さな鍵はどれも気休めだとわかっていた。それでもこの回転を、錠が落ちる音を重く感じる。

 そしてラニは玄関の灯りに手を伸ばす。緩慢に持ち上げたランプが、ラニの顔を青白く照らし出す。

 光石のランプは、思っていたより軽く感じた。

 下げ持つのにちょうどいい形と大きさだ。六角柱の形で、大きな網目の籠型である。金具は黒味が強い緑。上部に吊し金具がついていて、手になじむ。籠の中では熱を発さない光石が青白く仄かに光り続けて、周囲を丸く照らしてくれるのだった。

 光石のランプに入っている石の形は様々で、家によって違う。六角柱のような石を持つ家もあったし、握りこぶしくらいの丸い結晶であったり、ジオード原石のような石であったりもした。ラニの家にあるランプの石はクラスター型の結晶だ。これらのどれもが青白く光る。

 玄関からランプを外すということは、家を長く不在にするという意思表示である。

「いってきます」

 誰にともなく、ラニは囁いた。それから、ランプを胸の前に下げ持った。青白い光が、足元を弱弱しく照らし出す。

 ラニは寝静まった夜の谷を、いつもより抑えた足音で駆け抜ける。背中の荷物が肩にずっしり感じられて、引き留められる心地だ。

 しかし、走った。

 走って、森と谷の境目にある往来へ出た。

 空には星が出ていた。月はなく、しっとりした空気が肌を優しく撫でる。ラニは上がった息を整えながら、往来をゆっくり歩き始めた。

 往来には白い砂が敷かれていて、これが道であると解かりやすい。時々途切れるものの、視界の範囲で道が繋がるから、迷うことはなかった。

 道沿いのベリーの茂みから時折つまみ食いして歩く。暗がりでも、光石のランプがあれば不思議と不安は感じない。この島に猛獣がいないことを知っていたからだろうか。

 小さな島だから、一番大きな肉食獣は鷹か梟、あるいはヒトだと言われている。野犬の類は、駆逐されて久しい。ほかの肉食獣もいるにはいるが、みな、ラニたちを見て逃げていく類だ。

 一番怖いのはヒトだ。しかし、この明朝に人の気配はない。

 二時間ほどゆっくり歩いて、空が白みきった頃、ラニは地下へ向かう洞窟の入口を見つけた。

 その頃、じわりと、微かにではあるが、ラニの足は痛み始めた。無理もない。普段は、部屋にこもって綿ばかり相手にしている。立ち仕事もあるにはあるが、こんなに歩くのは稀だ。

 今日一日、歩きとおせるだろうか。

 不安を抱きながら、ラニは洞窟の手前でランプを掲げた。明るくなってきた都合、ランプの灯りは頼りない。一方、入口が丸太組で補強された地下への入り口は、ねっとり暗い闇をわだかまらせている。白い道が暗がりの中に続いて消えていることだけが、この先に足を進める助けだ。荷車一台分ほどの幅がある洞窟を見つめ、ラニはしり込みした。

 ほんとうに、こんな細い道の先に都があるだろうか。

 あるいは、近年時折噂されるように、大ばばさまも耄碌し始めた、ということは考えられないか。

 一瞬、ラニは確かに疑った。

 手に提げ持ったランプの金具がこすれて、微かな音を立てる。通り抜けていく風が、時折物悲しく鳴いた。

 けれど、行かなければいつまでもドレスを手放せない。ずっと、若いころの憧れを抱えている事になる。それに、竜の卵だ。あれがどうなるか、知りたい。はじめはそれから思い立った旅である。

 ラニは足の痛みを紛らわせるため、足踏みした。それでも痛みが取れないので、一度地面に座りこむ。

 リュックサックからクッキーを一枚出して食べ、水を飲んだ。これが朝食のつもりだった。

 ほのかに甘く、胡麻の香りがするクッキーを食べると、不思議に力が湧いてきた。それに、水だ。家の傍で汲んだ新鮮な水が喉を滑り落ちると、気持ちまでさっぱりする。

 ラニは気を取り直して立ち上がった。踏み出し、洞窟内に入る。暗がりでは、日の明るさで頼りなかったランプの灯りが、再び頼もしく感じられた。ランプによって青白く円形に照らされた中、ラニはしっかり地面を踏んで歩いた。

 一時間。いや、もっとだろうか。道は真っ暗だった。

 かげの谷が薄暗いと言っても、この往来ほどではない。ラニは心細さを感じ、次第に歩幅が狭くなった。時折、蝙蝠か何かの鳴き声が聞こえるのも心細さを膨らませる。

 加えて、足の痛みだ。ラニの足はじくじくと痛む。この頃にはすでに、自分が今日一日歩き通せないだろう、という予測がついていた。

 自分の息の音、ランプが揺れる音、衣擦れ、蝙蝠の鳴き声。そして闇だけが満ちる道を、亀のように歩いた。

 ところが、それは唐突に起きた。

 辺りがぼんやり明るくなったのだ。

 始めは微かで、気のせいに感じられた。しかし、ランプの灯りの外で、前後に細長く続く光は、もはや見違えようがない。

 足元の白い道が、ほの白く光っている。

 ラニは光を追って歩いた。道がごく緩やかに弧を描いていることに気づく。やがて、狭かった道幅が膨らみ始めた。どうやら、足元を照らしているのは光石の粉だ。粉に照らされた道幅は変わらないが、左右に空けた空間は確実に広くなっていく。

「すごい、贅沢だわ」

 ラニはひっそり囁いた。光石はとても高価で、一家にそうたくさん持てるものではない。それが、粉とはいえ、道の目印とは信じられない。

 ラニはしばし、足の疲れを忘れた。どんどん足が前に出て、この空間の正体を確かめたくなった。靴で擦れてひりひりする足のことは、気にならなかった。

 緩やかな弧を描く道の先に、広い空間があった。壁のあちこちに大ぶりな光石が白く光り、広い丘一杯に茂る緑の葉を照らしている。黒い土は耕され、葉は等間隔に植えられていた。見渡す限りの畑だった。

「これ、なにかしら」

 ラニは畑のただ中で立ち止まり、しばし眺めた。次に、しゃがみこんで観察した。葉は、黒い土から無数の茎を突き出し、緑の縮れた葉をわさわさ茂らせている。茎の根元には、白く丸っぽい根菜があった。掘り起こさずとも予想がつく。土の中で膨らんでいるに違いない。

「大根……いや、蕪かな?」

 しげしげ観察して、ラニは独り言を言った。独り言のつもりだった。

 立ち止まってしゃがみこむと、足の痛みが主張を強める。最初に感じたときよりはっきり、明確な痛みだ。もう一度立ち上がるのに苦心するな、と思った。一瞬、うわのそらだった。

「甜菜だ」

 突然、少年の声がした。ラニの、さっきのつぶやきへの回答らしかった。ラニは驚いて尻もちをつき、声が聞こえた方を振り返った。

 畑の暗がりに、十歳くらいの男の子が立っていた。

 黒い髪に白い肌。さっぱりした水色のシャツに紺のズボンを合わせた、素朴な少年だった。

「外から来たな? 畑の中に入るなよ」

 彼はラニに歩み寄りながら、強めの口調でいった。ラニは首を傾げ、男の子に呼びかける。

「どうして?」

「この畑、外の菌に耐性がないんだ。道の上だけ歩いてくれ」

 説明されれば、彼の声が固い理由は十分に理解できた。ラニは頷いて立ち上がる。

「わかった」

 服に着いた砂を払っていると、すぐ近くまで来た男の子は誇らしげに目を光らせた。見渡す限りの畑に似つかわしくないほど利発そうな顔だ。強い意志の感じられる目に、短く刈られた髪が特徴的だった。

「白い道は、王様が与えてくださった。商人とオレたち、どっちものために」

 男の子は胸の前に握りこぶしをあてて目を伏せる。うやうやしく祈る仕草だ。ラニはとっさにそれを真似ながら、かげの谷にはない慣習だ、と思った。

 顔を上げた男の子はさっと居住まいを直し、ラニに問いかけた。

「さて、あんた、どっから来た。どこに行く」

「かげの谷から、都に」

「珍しい」

 男の子はかげの谷を知っている様子だ。目を見開き、瞬かせながらラニを頭のてっぺんからつま先まで、繰り返し見た。

「そうかも。皆、外に出ないから」

 ラニはなんだか居心地が悪く、服の裾を直したり、改めて腰や尻についた砂を払う仕草をした。

 男の子はラニの気まずさを察したのか、少し表情を和らげた。

「ちょっとしたら、荷車が牧場に行く。消毒してくれるなら、送ってもいい」

「とっても助かる!」

 願ってもない申し出だ。ラニがぱっと顔を上げ、飛びつくように応じると、男の子は初めて、おかしそうに笑った。

「小屋まで行こう」

 二人は畑の道を通り、丘の上の小屋を目指した。

 ラニは、ここに来るまでの間にかなり体力を使っていた。今日一日を歩きとおす自信は折れていた。かつて、自分が花の峰を登る妄想をしたことを、恥もした。

 だから、ベリックと名乗った男の子の申し出は素直に有難かった。あと一日半歩く道が、半日分でも縮まればどれだけ楽か、すでに身に染みている。

 ラニはかげの谷で、人を頼るのが得意ではなかった。だから、自分は本当に困れば人を頼ることができるのだ、と発見して、気持ちが踊った。ベリックの親切の理由は、考えなかった。

 ベリックに案内された小屋は木造の簡素なものだった。とはいえ、ラニが暮らす煙水晶の家より広い。石造りの基礎に、木板の壁と天井が特徴的だ。隙間がありそうな作りだというのに、雨も強い風もない地下では十分らしい。どこにも痛んだ様子がない小屋は板間が七割、石張りの土間が三割に区切られている。

 ラニは土間でベリックに教えられるまま靴の裏を消毒した。薬液を浸した雑巾で靴の裏を拭くのは、ラニにとって初めての体験だった。

 また、水筒の水を換えてもらうこともできた。土間の隅にある水瓶から、水を分けてもらったのだ。

 そうしながら、ラニは板間のほうをちらりと伺った。じろじろ見るのは失礼だ、という意識があって、さらりと確かめた範囲で、しっかりしたベッドと棚が幾つか据えてあった。土間には小さな炉と流し台があり、簡単な料理を作るのに十分だ。清潔で、乾いて、住みよさそうな家である。

 かげの谷にあるラニの家だって、よく換気して、乾燥を心がけている。キルトの手入れを欠かしたことはないし、炊事場を備えた庭によく手をかけ、整えてある。受け継がれてきて、すっかり手ずれした家具たちも、愛おしいものだ。それでも、あの湿った谷で心地よく暮らすのは難しい。

 地下の暮らしは案外悪くなさそうだ。明るく照らされた小屋で、ラニはなぜだか、打ちのめされた。

 部屋を照らす立派な光石にごく繊細な織物のシェードがかけてあって、豊かさの片鱗を見たからかもしれない。

 これくらい繊細な織物のシェードが売れたら、ラニが十日暮らす分の麦が買えそうだ。それにあの大きな光石ときたら、かげの谷に暮らす五十戸から、十戸分程度の光石をかき集めれば、同じになるだろうか。

 ラニは昨日まで、自分は一人で十分に暮らしていける、という意識のもと生活してきた。

 だから打ちのめされた。確かに暮らしてきた、その向こうに見えなかった大きなものを、この時はじめて感じた。

 甜菜は砂糖の材料だ。砂糖は確かに、ラニにとって贅沢品だった。だから手土産のジャムや、保存食のクッキーにだけ、大事に使ってきた。それでも手が届く範囲だから、意識していなかった。

 家は見渡すかぎりにこの一軒きりだから、ここだって田舎だ、とラニは思う。

 それなら都には、どんなに贅沢な暮らしがあるだろう。

 やっと意識して、ラニは視線を下ろす。今は、これ以上考えられる気がしない。それより、目の前に意識を向けるべきだ。

 荷車は、小屋の裏につけてあった。木製の箱に大きな車輪が四つついた荷車である。箱の部分に、葉を落とした甜菜がこんもり盛ってあった。

「これ、引いていくの?」

「人力じゃ無理だ」

 ベリックはきっぱり言った。そして、なだらかに続く丘のずっと向こうを見た。

 ラニは彼と一緒に丘の向こうを見つめ、遠くから丸っぽい動物が現れるのを見た。

 どうやら動物は二匹いる。灰と白が一匹ずつ。全体的に丸いフォルムで、頭の後ろにぴんと飛び出しているのは耳だ。それが、軽く跳ねながら近づいてくる。距離は、あっという間に縮まった。ひくひく動く鼻が桃色で、眼は濡れたように光るアーモンドの形。かわいい、と思った。

「これ、穴うさぎ?」

 ラニが穴うさぎを現実に見るのは、これが初めてだ。声が驚きと興味で跳ねた。近づいてみると、穴うさぎは四つ足を付いた状態でラニの腰ほどの高さがある。穴うさぎが前足を上げて立ち上がったら、耳の長さでラニと同じくらいの身長かもしれない。絵姿でよく知っていても、こういう大きさだったのか、と驚く。しげしげ観察すると、印象が変わって、怖い気がした。大きな目はラニの動きを見逃さないだろうし、立派な後ろ脚に蹴られたら、ひとたまりもない。

「牧場には穴うさぎがいる?」

「そう。王さまの大事な生き物たちが、あそこで暮らしてる」

 ベリックは穴うさぎたちに装具をつけて、荷車の前に乗った。穴うさぎは荷車を引くのだ、とラニは声に出さず驚いた。

「そこに座って。落ちないように気を付けて」

「わかった」

「荷物が落ちそうな時も教えて」

「もちろん」

 荷車の前後には板が張り出しており、確かにそれぞれ人が座れる形状だ。ラニは示されるまま、荷台の後ろに腰かけた。進行方向に背を向ける格好であろうと、贅沢は言えない。もっと贅沢が言えるなら、座り心地が良くないだとか、甜菜から零れた土が付くだとか、言いたいことは沢山あった。それらを全部束ねても、あと一日半歩けるか、という大きな問題に太刀打ちできる要素ではない。

 荷車はすぐに動き出した。荷車は道の段差にぐらつきながら、しかし軽快に走る。穴うさぎが跳ねる振動は不思議と伝わってこない。車体に何かサスペンションがあるらしい。それでも時折思いがけず揺れるため、甜菜が転がりおちてくる。ラニはそれを、荷台の上へ戻してやる必要があった。なるほど、それで乗せてくれたのだ、と納得する。

 緩やかな丘二つに渡って、甜菜畑はつづいていた。光石に照らされて、甜菜はすくすく葉を茂らせている。

 ラニが普段使う砂糖は、どうやらこの畑からくるらしい。広い、自分が住んで暮らすかげの谷より広い畑を眺めて、ラニは自分の見分の狭さを感じた。そして、いま思っている以上にも自分の見分が狭い事を、頭の片隅に感じていた。




 荷車はやがて減速した。ラニは荷車の後ろに腰かけたまま振り向く。そうして、前方にいくつか建物があることを確かめた。平たい建物が並んでいる。揺れる荷車でずっと振り向いてはいられない。身体の向きを戻して、ラニは自身のつま先を見た。靴に包まれた足が、思い出したようにじんと痛んで存在感を訴えた。

 減速した荷車が停車して、ベリックが荷車を降りた。遅れないよう、ラニも慌てて荷車を降りる。ふらつきながら振り向けば、正面の建物から男女二人連れが出てきたところだ。

 近づいてくる人影を認めて、ラニは出来るだけ真っ直ぐ立った。荷物の重みや足の痛みに参っていても、できれば、ぴんとした姿で初めての人と向き合いたい。すでに、ベリックに情けない姿を見られていたとしても、最低限の矜持があった。

 やってきた二人は、ラニを物珍しそうに見た。ラニもまた、二人をじっと見つめた。

 筋骨に恵まれた男性は、ラニより頭一つ背が高い。見上げると、彫が深い顔の秀でた額の奥に、金色の目が光っている。短い髪は黒く、硬い印象で、頭の形に添って四角くなでつけてある。

 一方女性は、黒く縮れた髪を頭の高いところで束ねている。ラニと同世代か、少し年上だ。身長はさほど変わらない。ただし、彼女はラニよりしっかりした体つきで、赤茶色の目もするどく、力強い。

 村に居なかった印象の二人だ。ラニは身構え、確かに息を詰めた。

「都に行くんだって?」

 男性が低い声でラニに聞いた。ラニはすくみながら頷く。そうです、と答えた声は、あまりはっきり通らなかった。

「かげの谷から! 大変だったろ」

 女性は良く通る声で、ハキハキ喋る。彼女は気さくにラニの肩を叩いた。ぱしり、と乾いた、軽い音がする。音の割に痛くない。

「明日、荷車で都に行くんだ。ちょっと手伝ってくれれば、乗せていってやるよ」

 気前よく言って、彼女は笑顔を見せた。厳しい顔つきからは想像もつかなかった、屈託のない笑顔だ。

「やります!」

 ラニはすかさず頷いた。何をするか聞かないままでも、あと一日半歩きとおすより、よほどましに決まっていた。いや、そうであって欲しいと願った。

 その時、ちょうど建物の方から、鐘の音が聞こえた。一帯に響き渡る優しい音だ。仕掛け時計の鐘だ、とラニは思った。仕掛け時計は、かげの谷では集会所など限られた施設にしかない。高級で、繊細な品だ。

「昼だね。一緒に食べよう」

 鐘を聞いた女性はそう言って全員を促した。

「それじゃ、支度する」

 ベリックが言い、先だって駆けだす。彼は途中で振り返ると、ラニに手招きして見せた。

「こっちだ。あとちょっと、頑張って」

 促されて、ラニはベリックの後に続いた。

 さっきまで揺れる荷車に座っていたから、ややぎこちない足取りになった。




 昼食には、小金瓜のスープが出た。小金瓜は赤くて丸い、瑞々しい野菜だ。柔らかい果実は内側がいくつかの部屋に別れており、それぞれの部屋にジェル状の果汁と種が詰まっている。月の島では、小金瓜をスープにして食べる習慣があった。塩と乾燥肉、それに野菜を数種類入れて煮込んだスープはラニの身体を温め、ほっと息を吐かせる。

 かげの谷ではお祭りの日に出る贅沢品が、ここでは日常の食べ物なのだ。

 驚きながら、ラニの動揺は先ほどより小さい。

 ベリックが「両親だ」と紹介してくれた二人の家には、かげの谷で作られた織物がふんだんに使われていた。

 贅沢な品々であるとはいえ、自分たちが作ったものばかりだ。ほっと息のつける空間で温かいものを食べ、ラニはずいぶん落ち着いた。さっきまで物事を悪い方に捉えていた。それはどうやら、空腹や疲労のせいだ。かげの谷で暮らしていても、長く大変な仕事をした後など、後ろ向きになる日があった。今日はいつになく歩いたのだから、無理もない。

 さて、農場の小屋は土間と板間が続きの空間になっていた。ここ、牧場では小屋の板間に織物の絨毯が敷き詰めてある。

 足を伸ばしたり、曲げたり、思い思いに座った。スープと黒パンが陶器の皿で配膳され、一緒に赤い野菜のサラダも添えてあった。

「それで、どうして急に都へ?」

 ベリックの母が、不思議そうにラニへ訊ねた。かげの谷の人たちは、ほとんどあそこを出ないだろう、と。そこにはどんな色もなく、ただ訊ねた、という様子だった。ラニは、ベリックの母を好ましく思った。

「使わなかったドレスがあるんです。売ってしまおうと思って」

 ラニは、簡単に事情を話した。タイミングを逃して使い損ねたものだ、と。伸ばしていた足を曲げ、自分の方へ引き寄せながら笑う。

「ずっと家にあると、場所ばっかり取って」

「行商人に預けなかったんだ」

 行商人は、島の中で様々な品物を売り買いして、都から港へ、港からかげの谷へと渡り歩く存在だ。彼らが荷車で商品を運んでくれるから、あまり作物のとれないかげの谷でも生活が成り立っている。きっと、行商人たちはこの農場、牧場にも立ち寄り、ラニたちの作った品を卸しているのだ。

 ベリックが不思議そうに言って、火焔菜をゆで角切りにしたサラダを口に運ぶ。火焔菜は真っ赤な甜菜だ。サラダやスープの材料として親しまれる、丸い根菜である。甜菜ほどではないが土臭く、甘みがある。ラニは笑って、何も答えなかった。うん、と曖昧に応じて、フォークの先で皿に載った火焔菜を転がす。

 すこし、妙な沈黙があった。ベリックが、おや、と首を傾げた。ラニは笑い、それ以上は何も話さなかった。話す必要のない事だ、と考えたからだった。




 ラニはベリックの母を手伝って食事の後片付けをした。そこで、荒布で拭き上げた皿を少ない水で洗う方法を習った。かげの谷では、水はごく身近なものだ。ここでは、朝にくみ上げてきた水を大切に使うのだという。畑の水や家畜の水は地下水でまかなっているが、飲み水や生活用水は別らしい。不思議に、そして面白く聞いた。

 場所が変われば、生活様式は大きく違う。かげの谷以外でも、人はそれぞれ快適に暮らしている。言われてみれば当然の事を、ラニはやっと知った気持ちになった。

 その後ラニはブラシを渡されて、昼食を食べた小屋の近くに並ぶいくつかの平屋のうち、比較的小さな物に案内された。

 屋根は平屋の居室と同じ高さ、三方の壁がなく、囲いがしてあって、藁敷きに四匹の穴うさぎたちが暮らしているようだ。

「こいつらはみんな年寄りで、おとなしい。丁寧に、やさしくブラシ掛けしてやってくれ」

 ベリックの父はそういって囲いの一部を外し、ラニを促した。

 ラニはブラシを抱え、緊張しながらベリックの父が作ってくれた囲いの隙間に身体を滑り込ませる。

 その時、思いがけず、ベリックの父が気まずそうに肩を丸めて言った。

「ラニ。ベリックはかげの谷の文化に疎い」

 ベリックの父は大きな体を縮め、心底申し訳なさそうに続ける。

「悪かった。よく言い聞かせておく」

 ラニはびっくりして顔を上げ、その詫びを固辞した。

「いえ。私も、こちらのことは知らないので」

「昔……友達の結婚式を見に、かげの谷へ行ったよ」

 なおも申し訳なさそうにベリックの父が言い淀む。彼はひどく控えめな調子で、遠慮がちかつ物憂そうにラニへ提案した。

「気が変わったら、ここへ戻ってくれ。送ろう」

 その声があまりに優しかった。また、気遣いに満ちてもいた。ラニは思わず俯き、こっくり頷いた。

 もしかしたら、竜の話を聞きに物見遊山だと答えたほうが、まだ良かったのかもしれない。気を使わせてしまった、とラニは恥じ入った。

 ドレスを売ろうと決め、ここまで来た。自分で決心し、昨日からずっと止まらず動いた。けれど、勢いに任せていた部分が大いにある。

 だからこそ、この会話で心が揺れた。

 なぜなら、かげの谷にラニの年頃で独身の女性は、ほかに一人もいないからだ。五十戸程度しかない集落で、ラニはとても肩身が狭い。できるだけ堂々としていても、どこか切なく、身の置き場がなかった。ドレスを手放すことは、とりもなおさず集落の文化から完全に外れることだ。自分の足で出ていくと言ってもいい。だから、大ばばさまはラニの前で言い淀んだ。

 ベリックの父は、集落に友人がいるという。ならば、かげの谷の文化や世俗を知っていたのだろうか。だからこんなに気まずそうに、気を使ってくれもしただろうか。

 年頃の娘がドレスを縫い、伴侶を探す。同じ年頃の男子が、ドレスの出来で娘を見定める。

 ラニは、その習俗から外れてしまった。戻ろうとしたが、手遅れだった。残してきた未練が、今はまだドレスの形で手元にある。

「大丈夫です」

 ラニは、努めてはっきり言った。

「きっと大丈夫。きちんと、できます。仕事、できますし」

 自分に言い聞かせる口調になった。

「一人で生きていこうと思うんです」

 思ったよりはっきり声になって、ラニはこわばった顔を上げた。

「ドレスを売って、竜の噂話を聞いて、谷に帰ります。でも、帰りは寄らせてください」

 歩いて帰るのは大変ですし、とラニは笑う。ベリックの父は気づかわしそうな目を変えず、しかし確かに少し笑った。

「待ってるよ」

 その声があまりに優しかったので、ラニはやっと、表情を和らげた。

 ベリックの父はラニの肩を叩き、柵を閉めると、他の小屋へ向かっていった。




 穴うさぎにブラシをかける仕事は、なかなか骨が折れた。

 もともとラニは布や織物の扱いに長けている。ブラシを握る事、毛を梳くことには抵抗がない。ただ、年老いた穴うさぎ達は思っていたより人懐こく、一匹ずつ手をかけているラニの背中を鼻先でつついては、こちらももう一度梳いてくれと訴えた。それでラニはなかなか仕事を終えられず、しばらく穴うさぎたちを撫で、柵の内側でうろうろすることになった。

「さあ、これでほんとに終わり」

 ラニは、四匹目である穴うさぎの丸い背中から尾にかけてを丁寧にブラシがけした。すべてのうさぎから取れた毛の球が、一抱えほどの塊になっている。ラニは毛の球を抱え、穴うさぎ達の背中をそれぞれ叩いてから柵の外に出た。

 四対の視線が声もなくラニを追う。ラニはちょっと振り向いて彼らに手を振った。それから、立ち並ぶ小屋の中を歩き始めた。少し向こうに、藁をほぐしているベリックの父の姿を見つけていたのだ。

 老いた穴うさぎたちが暮らしていたのと同じような小屋が、升目状に区切られた区画にいくつも並んでいる。それぞれに穴うさぎたちがいて、急ぐラニを視線で追いかける。

 穴うさぎたちを驚かせるから、大声はあげられない。ラニは痛む足を急かして進んだ。

 ベリックの父はラニの足音に気づかず、熱心に藁をほぐしている。全ての小屋の藁を、あれで敷きなおすのだろうか。それは大変な仕事だ、とラニは思った。

 上の空だった、といっていい。

 ふと、知らない声を聞いた。

「イオ?」

 苔のにおいがする、と声は囁く。低く響く、弦楽器のような声だった。

 ラニは立ち止まって辺りを見回す。ちょうど右手側の小屋が空だ。ただし、小屋の真ん中にはこんもりと藁が積んである。声はそこから響いてきた。

「イオだろう? とうとうワタシを迎えに来てくれたんだね」

 それは、藁の山を割って現れた。茶色に黒いまだら模様で、ぬめった皮膚。体長は成人男性より二回りも大きい。ひし形の大きな頭と、ひとつながりの身体。そして小さな手足。長い尾。背中には小さな、やぶれかぶれの羽。

 彼が身体をうねらせ、地を這うようにして近づいてくる様を、ラニは硬直して見た。いったいこれはなんだ、と驚愕した。

 一目見た印象は、巨大なサンショウウオだ。けれどサンショウウオに羽はない。そして、喋ることもない。

 ラニの知識が告げていた。これは竜だ、と。

 だが、毎朝あこがれていた竜たちの神々しいまでの姿と比べて、これはいったいどういうことだ。竜が動くたび、粘液が水音を立てる。鈍重で、醜く、不快な見た目をしている。それがこうも必死に呼びかけてくるのはなぜか。ラニにはわからなかった。

 竜の小さな前足から、透明な粘液が滴っていた。粘液は竜の全身から溢れ、不思議に広がって方向性を持ち、竜より早くラニのつま先に迫った。

「来ないで!」

 ラニは、後ずさりながら叫んだ。しかし、無駄だ。迫り来る粘液はラニの足を飲み込んだ。ぞわりとした。ラニは身をすくませた。足を撫でる粘液が怖ろしく、喉が震える。だが、不快感は一瞬だった。ラニは驚いて足踏みした。足にまとわりつく粘液は優しい風のようにラニの痛む足を包みこんだ。捉まれているが、暴力的ではなかった。

 急に冷静になって、ラニは顔を上げた。竜は柵に乗り上げ、ラニを見下ろしていた。竜に寄りかかられた柵はみしみし音を立てて鳴いた。ラニは改めて竜を、その暗い目を見据えた。

「私、ラニといいます」

 ラニは竜に呼びかけた。

「ラニ……?」

 竜は柵のふちに手をかけ、ラニに顔を近づけた。低く繰り返した声に、困惑が滲んでいる。小さな丸い目が、ラニをじっと見た。そして、竜はうなだれた。

「違うのか」

 竜の声があまりに悲しく響いて、ラニを震わせた。足を優しく撫でていた粘液が、溶けるように消えていく。

「イオ、イオ……ワタシを置いていったね、イオ……」

 竜はうなだれ、柵から降りて藁の山へ這い戻っていく。その途中で力尽きたように身体を横たえ、声を押し殺して泣いた。悲嘆、と呼ぶにふさわしい声だった。

 音が身体を震わせることを、ラニは初めて知った。途方に暮れるラニの傍に、ベリックの父が立った。

「離れてやろう。こっちへ」

 促されて、ラニは母屋に戻った。

 頭が混乱して、何か考えられる状況ではなかった。

 だから、庭で簡単に身体を洗って貰いながら、改めて驚いた。足の靴擦れが、すっかり消えていた。痛みはなく、明日一日歩くこともできそうだった。足が軽かった。

 あれは間違いなく竜だ。ラニは自分を恥じた。そして、竜の悲嘆を思った。

 竜と同じように床に打ち伏し、目を閉じるだけで眠ることができた。




 翌朝早く、ラニはベリックの両親と共に荷車へ乗った。荷台には空の水瓶が乗っている。穴うさぎが引く荷車はやはり簡素なものだが、歩くよりずっと早く都に着く。それに今日は、ベリックの母が荷車を駆り、隣にラニを乗せてくれた。前方が見えるだけで気分は違うし、ベリックの母の話は面白かった。ベリックの父は荷車の後ろに座って、時折声をかけてくれる。二人は、ラニに都を歩く知恵を授けてくれた。

 安価に泊まれる快適で安全な宿、朝晩の食事を出してくれる店、昼にちょっと立ち寄れるこじゃれた店をいくつか。それから大切な、バザールに並ぶ店のこと、城で販売許可を貰う方法。

 どれも、かげの谷を出たことがなかったラニには目新しい話だ。また、大ばばさまの話はやはり正しい、ともわかった。

「ニュートを悪く思わないでくれ」

 ベリックの母は、ラニにそう頼み込んだ。ニュートというのは、昨日の竜の名前だ。

「悪い奴じゃないんだ。穏やかで、さびしがりで」

「はい」

 ラニの耳には、昨日のニュートの寂しそうな声が貼りついている。低い弦楽器のような声で嘆いたニュート。あの悲嘆に、ベリックの一家は寄り添っている。そして、牧場と農場を営みながら暮らしているのだ。それがどれだけ立派か、想像するに余りある。

「昔、あの子を孵したやつが、あの子を大切にしなかった。それで、ああなった」

 竜は、人が手で孵す。そして、人が彼らを大切にすることで、育っていく。ベリックの母はそう言って、溜息を吐く。

「ずいぶん良くなったよ。劇的には変わらないけど」

 ラニは頷き、自分の足をじっと見つめた。

 ニュートは、ラニの足の痛みを取ってくれた。見た目を恐れるべきではなかった。足を包みこんでくれた、あの優しさが彼なのだろう。だが、ラニにはそれがわからなかった。あの瞬間、ラニはただ恐れた。かつて彼を孵した人も、そうだったのではないか、とラニは思った。

 ニュートを見た時、迫り来る彼を見て、ラニは後ずさった。叫びもした。それが、事実の全てだった。ラニは改めて、自らを恥じた。

 気づかない筈がない。ニュートが呼んだ名前は、かげの谷の住人がつける名前のひとつだ。

 私達の誰かが、ニュートをあんな風にした。確信を持って、ラニはうなだれた。それでも親身になってくれるベリック一家を、改めて有難く感じた。

 しばらく、ラニは自分のつま先を見ていた。痛みのなくなった足をじっと見つめ、物思いにふけった。

「そろそろ見えてくる」

 後ろ向きに座っているベリックの父が、ふと声を上げた。ラニは顔を上げて前方を見た。丘の前方に、広い窪地がある。その窪地に、都が広がっていた。

 それは、月の島の地下をそのままくりぬいて作った、彫刻の街だった。

 街の中央に高い塔がある。地下の天井に先端が触れる尖塔だ。これを囲んで幾つも塔の突き出した大きな建物、おそらく城があり、城の周りに隔壁が、隔壁の周りには城下街が、なだらかな起伏を描きながら形成されている。

 城の中央にそびえる尖塔を伝って、湖の水が流れ落ち、街に張り巡らされた水道橋と水路を巡っていた。

 これらを見渡すことができるのは、そびえ立つ果ての見えない尖塔が仄かに光っているからだ。また、家々に白く灯された光石が、傾斜して中央へ向かう街を美しく染めている。その壮麗さに、ラニは言葉を失った。

 石を彫って作る彫刻は取り返しがつかない。であるというのに、その作り手が何か一つでも失敗したようには見えない。

 これが、自分の住む島の都である。この旅に出なければ、一生見ずに終わったかもしれない都の姿を眺めて、ラニは溜息を吐いた。

「きれい」

 ラニの膝には、青い光石のランプがしっかり乗っている。これを抱き締めながら、ラニはうっとり街を見つめた。




 地下天井を衝く尖塔は、近づくにつれて首を上げても全体が見渡せなくなった。さらに、近づく街に眩しさを感じはじめ、ラニは瞬きをする。地下は確かに暗いのだが、都はかげの谷より明るいかもしれない。

 ベリックの両親は、ラニを都の西側に下ろした。北側は住宅街だから、金属と薬を扱う西の街を通って南のバザール付近で宿を取り、布と紙を扱う東で商いをすべきだ、というのが二人の考えだ。荷車を降り、ラニはベリックの両親が水路から水を汲む様子を見守った。

 上水と下水がある、と夫婦は言った。ラニには理解できず、水路を使うときは人に聞く、と覚えた。

 水瓶が満ちると、二人はラニに笑顔を見せて去っていった。穴うさぎに引かれる荷車は、あっという間に丘の向こうに走り去り、暗がりに消えていった。

 ラニは、あちこちの煙突から細く、あるいは太く蒸気か煙かが立ち上る街をゆっくり歩いた。

 まばらにすれ違う人々はラニと近い背格好の人もいれば、より背が高かったり、低かったりと様々だ。

 住む土地によって人の背丈や身幅が随分違うことは、知識として知っていた。ただ、実際目の当たりにするのは初めてのことだ。

 ラニは、自分やかげの谷に住む住人たちが、どうやら中央帯より少し背が低いのだ、ということを確かめた。

 ラニ達よりもっと背が低くてでっぷり、あるいは筋骨隆々とした体つきの人たちは鍛冶屋なのか、金属や鉱石の入った箱を抱えて足早に通り過ぎていった。また、ラニ達より背が高くて体つきはさほど変わらない人たちも多く見られた。剣を持って居る者、包丁を研ぎに来たらしい者、薬瓶を携えた者がそうだった。

 港の方には少し背の高い人たちが住んでいると聞いていた。きっとあんな人たちだ、と理解して、ラニは行きかう人々を眺めた。

 また、ラニと同じ背格好の人たちは、天秤棒を担いで家々を回っているようだった。何か売っているのだ、とわかった。

 都会の暮らしの片鱗を見て、ラニは自分が田舎者であると強く自覚した。

 かげの谷から着てきたラニの服はとても目立っていた。ラニの他に房飾りの付いた服を着ている者はほとんどおらず、皆シンプルな服を着ている。兵士らしい甲冑を着たものも見るには見たが、ラニの関心は街の人々に傾いた。

 それに、家々の軒先で白く光るランプたちだ。ラニの手元にある青いランプは他に見られず、とても目だった。

 なんだか、目立っている、とラニは思った。ランプは持ち歩くように、と大ばばさまに言いつかっている。しかし、服は変えられる。宿に行って持ってきた服に着替えよう、と足どりを速めた。

 ほどなく、街の雰囲気が変わる。頭上にたなびくものは蒸気や煙から打って変わり、色とりどりの布や小さな旗の連なりに変わった。

 人通りがぐんと増え、すれ違いざま、肩と肩が触れそうになる。

 大通りに木造らしい出店が並び、それぞれが商品を並べているのを見たとき、ラニは目を丸くした。

 こんなににぎやかな場所が、この国にあるのだ。あちこちから呼び込みの声が聞こえ、人の話し声も絶え間ない。

 見たことのない情報量に圧倒されて、ラニは確かにたじろいだ。

 屋台で売っているたれのついた魚の匂い、色とりどりのガラス片が嵌まったランプシェードを売る店、布の店、籠の鳥を売る店、飴、パン、粥、芋、果物、野菜と、枚挙に暇がない。

 そんな中、目的の宿を見つけられたのは奇跡に近い。鉱物のごく小さなアクセサリーを扱う屋台を出している、と聞いていたのが良かった。あるいは、窓にかかっていた淡い水色の灯り除けが、かげの谷の織物だったからかも知れない。

 とにかく、ラニは目的の宿を見つけることができた。それに、すぐ部屋に案内された。ベリックの両親の名を告げると、屋台にいた女性の顔がぱっと明るくなって、奥から人を呼んでくれたのだ。そうして出てきた、色が白くて小柄な、老齢の男性に部屋を案内された。

 そこは、建物の外にある階段を上って入る部屋だった。二階の上にある、三階と呼ぶにはおこがましい、天井が斜めの部屋だ。

 ベッドが一つと、木製のサイドテーブルが一つ。これも木製の椅子が一つ。他には、家主の荷物だろうか。木箱がいくつか置いてある。とはいえ、とにかく清潔に整えてあるから、ラニにとってはじゅうぶん満足な部屋だ。通りに面して小窓があるのもいい。ベッドの傍にリュックを置いて、服を着替える。大ばばさまの助言に従って、持っている中ではさっぱりしたワンピースと足さばきを隠すズボンを持ってきている。

 ラニはとにかく着替えた。これで、少しましだろうか。不安はぬぐえない。気持ちを紛らわせるため、動いていたかった。部屋を案内された時、一階の裏手にある水路で洗濯ができる、と教えられていた。

 ラニはいったん部屋を出て、裏手の水路に急いだ。そこには洗い桶が置いてあったし、ちょうどさっきの老人が、洗い物を絞っている所だった。彼はラニを見て、無愛想ながら一つ頷き、場所を空けてくれた。ラニは頭を一つ下げて、そこで服を洗った。老人はいったん部屋に戻っていき、ロープを持ってきてくれた。これで部屋に干せ、という事らしい。ラニは笑い、頷いた。

 部屋に戻って、ラニは部屋の隅にある木箱と窓枠を使ってロープを張った。洗濯物のついでにドレスも広げて、ロープにかけていく。ドレスに目立つ汚れや皺はない。無事に運んでくることができたのだ。

 やっとひと段落である。次は街の中をもっと見て回って、情報を集めなければならない。

 どこに行けばいいだろう、とラニは少し考えた。サイドテーブルに置いた青いランプに視線を投げかけ、溜息を吐く。

 さらさら、つるつるした石の壁と床に囲まれて、ラニは不思議な気持ちになった。遠くから見たとき、この街を彫刻だと思った。けれど彫刻だったとして、こんな細部まで、丁寧に彫り上げたのはいったい誰だろう。

 考えていくと、頭が痛くなりそうだ。ラニは顔をあげ、首を振る。

 とにかく、動かなければ始まらない。

 金銭は帯に巻いて腹につけておく、と大ばばさまに教えられた。それから、ランプは持って歩くこと、とも言われている。肩から腰に斜めに下げる布鞄も持ってきた。これで、街歩きの準備は万端だ。

 ラニは宿の部屋に鍵をかけ、街へ繰り出した。

 ニュートのおかげで、足の痛みがない。休憩を挟みながら、焦らず街を見て回れる。ラニはあちこちの屋台を覗き、珍しいものを見て回った。

 だが、これに成果はなかった。ただ珍しい、面白いというばかりだったのだ。

 歩き疲れたラニは、ベリックの両親に勧められた昼食の店に入った。

 薄暗い店で、それぞれのテーブルに小さなランプが置かれていた。屑石のような光石が、それぞれのテーブルを弱弱しく照らしている。

 ラニはテーブルに着き、パンと干した果物を頼んだ。それを待ちながらぼんやりしていると、ふと、店の中、暗がりに沈むよその席から、他人の話が耳に滑り込んできた。

「誰も行くつもりはないらしい」

「いや、それ以前だ。王様が湖の底に通じる門を封鎖しているとか」

 たったそれだけ。それだけなのに、ラニはピンときた。これは、湖の底にできた竜の卵の話だ、と。

 耳をそばだてた。しかし、それ以上の話は聞こえてこない。一瞬だけ聞こえた声達は、店内のざわめきにまぎれてしまった。

 心臓がはげしく脈打つ。王様が湖の底に通じる門を封鎖している。それは一体、なぜだろう。ラニにはわからなかった。だが、このまま待てば、遠からず宝石に成ってしまうのであろう卵を思った。聞き間違えであって欲しいと願った。

 そんな状態で食べたパンと干した果実の味はよくわからない。ただ、口の中がぱさぱさする。

 店を出たラニは、再びバザールの探索を始めた。

 どこかで思い切って、人に聞かなければならない。竜の卵はどうなりますか。口の中にある言葉が、なかなか出てこない。ベリックと出会った時のように、もうどうしようもなければ、気軽に人を頼れるのだろうか。

 ラニは随分、もたもたしていた。同じ場所を行ったり来たりした。そうこうしているうち、急に、通りの人が減った。

 振り向くと、とびぬけて背の高い男がゆったり歩いてくる。通りにいる誰より背が高い。

 ラニは、彼を凝視した。

 かかとまで届くような月色の髪に砂色の肌、金色の目。整った、涼し気な顔だち。ぴったり身体のラインに沿ったドレスとゆったりしたズボンを穿き、これもかかとに届きそうなローブを肩から垂らして引きずっている。

 明らかに、辺りの人々と同じではなかった。

 そんな人が、こちらに向かって歩いてくる。人の波が割れ、ラニの前に向かって道が出来る。ラニはとっさに、二つに割れた人の波の、片方に寄った。真ん中に取り残されたのは、突き当たりにある屋台の男店主だ。店主は、すくみあがって固まった。

 誰もが固唾を飲んだ。背の高い男は、すべるように歩く。高貴な香りが辺りに広がった。月の香りだった。男は人の輪の中に立ち止まり、一瞬視線を彷徨わせた。彼を見つめていたラニは、彼と確かに視線がぶつかるのを感じた。目の中で星が瞬くような体験だった。

 背の高い男は再び歩み出し、ラニの前に立った。ラニは彼を見上げた。

「見ない顔だ。どこから、何をしに?」

「かげの谷から。ドレスを売りに」

 とっさにラニの口を突いて出たのは、ベリック一家の前で後悔した言い訳だ。

「受付は?」

 しかし、男は何も思わなかったのか、重ねてラニへ問いかけた。落ち着いた声だった。それで、ラニは素直に答えた。

「まだです」

「城の受付は明日、開いている。明日おいで」

 それだけだった。男は踵を返し、去った。人垣は男を囲んで解け、行き交う人たちに戻っていく。ラニはそれを呆然と見ていた。

 一部の人々がラニを気にする様子で視線を投げてくる。これに気づいて、ラニはその場を離れた。

 いつまでも人の視線が追ってくる気がした。必死で人ごみにまぎれて宿に戻り、部屋の鍵を閉めて、やっと胸に詰まっていた息を吐き出す。

 もう帰ってもいいかも知れない。

 一瞬、ラニはそう思った。とても緊張したし、人々に妙な目で見られて嫌な気持ちもあった。

 しかし、帰ったところでどうするのか。まだ、ドレスを売れていない。それに、ずっとあの卵が気になるだろう。

 ラニは窓辺にかけたドレスをじっとながめた。白く光る布で出来た、レースと珊瑚の飾りがついたドレスだ。いつか、これを着る自分を夢見て手がけた。こんなにまじまじと眺めるのは久々だ。

 これを手放せるのだろうか。ラニは改めて溜息を吐いた。




 鐘が鳴っていた。ずっと明るいこの街では、朝、昼、夕に鐘が鳴る。鐘楼は城にある無数の尖塔の中の一つだ。

 鐘に驚いたのか、どこかの家の柱から白い鳥が飛んで、都の上空を回った。

 ちょうどその頃、ラニは宿の近くにある店で朝食を食べていた。パンと、野菜のかけらを煮込んだ塩味のスープだ。これを食べ終えて、ラニは城へ出かけた。

 バザールの道を北上すれば広場があり、すぐ城壁に突きあたる。城壁の巨大な正面門は、当然のように固く閉ざされていた。ラニの背丈の五~六倍はある、立派な浮彫がされた石の門だ。代わりに、門から少し離れたところに、ラニの背丈の一・五倍程の高さの門が、こじんまりと開かれていた。こじんまり、というには大きいのだが、比較対象が大きすぎて、小さく感じる。とにかく、通れそうな通路だ。ラニはこちらを選んで進んだ。

 薄暗い通路を青白い光のランプで照らして歩く。こうして歩くのにも、ずいぶん慣れた。この道には足元に小さな光石が象嵌されていて、歩くには問題がない。ランプを掲げるのは、気持ちの問題だ。

 城壁は分厚く、ラニはしばらく歩いた。そうは言っても、元から出口が見える程度の分厚さだ。城壁を通り抜けて、ラニは立ち止まった。

 さっきまでいた通路は暗かった。そう思ったのは、城があまりに白く、あたりが明るく感じたからだ。無数の尖塔を束ねた城は、あまたの彫刻に飾られていた。

 ラニはまた、道も見ていた。

 往来からここまで、白い道が途切れることはなかった。ここで、白い道は城の外周を巡っている。ここがロータリーなのだ。王はここから、月の島中に道を走らせた。

 そして、輪を描く道と、無数の塔を束ねた壮麗な城の間に、暗緑色の鉄柵がある。柵はつる草の模様を抱いて輪をつくり、城を囲んでいた。

 城と柵と道の間、小さな花を咲かせる植物が広がっている。淡い色の花は黄色や白、水色などだ。煙るような色合いで咲き、地面を埋めつくしている。

 加えて、地下天井を衝く塔からは、絶えず水が流れ落ちていた。流れ落ちる水は、北東、南東、南西、北西に走る水道橋を通り、都を循環する水路に注ぐ。

 ラニはしばし城と水道橋を見上げ、動けなかった。これが現実の景色とは思えなかったのだ。

「お嬢さん、進んで」

 後ろから来た誰かに声をかけられて、ラニは転びそうに数歩前へ出た。

 ラニの後ろで待っていたのだろう、数人が城壁の通路からぱらぱらと歩み出てこの広場に踏み込む。

 気まずかった。ラニはさらに数歩進む。人々は慣れた様子だが、立ち止まっていると悪目立ちしそうだ。さっと視線を巡らせ、歩き始める。振り向けば、城壁にくぼみがあって、そこに数人の役人たちが並んでいた。商売の受付はおそらくそこだ。ベリックの両親からも話を聞いたし、間違いないだろう。

 ラニは少しの間、行ったり来たりして役人たちの働きを見ていた。そして、手続きに必要な事項を察そうとした。

 役人から書面の説明。そして申請者がサインする。商売の許可を証明する品を受け取る。それだけのようだ。中には字を書けないでもたつき、指先をスタンプするよう求められる者もいた。ラニは、これにほっとした。ラニもまた、字がかけない。

 なんとか手続きをやりおおせそうだ、という目途が立って、ラニは列が途切れる瞬間を見計らう。手が空いた役人の前に足を踏み出す。

「あの、こんにちは」

 ラニが声をかけると、黒髪の男が顔を上げた。隙なく髪をまとめた男は、左右の目の開き方が違っていた。また、背はそう高くない。ラニより少し高い程度だ。紺色の服は袖と裾が長い。

「手続きですね。こちらへ」

「はい。私、ドレスを売りに来ました」

「どちらから」

「かげの谷です」

 ラニと問答しながら、役人はどんどん書類に書き込みを加えていく。スタンプを押したり、なにか確認したりと、忙しそうだ。

「商売は毎日、昼間だけ。朝の鐘が鳴ってから、夕の鐘が鳴るまで。鐘が鳴ったら店じまい。王様が竜車でお通りになる時は道を空ける」

「わかりました」

 他にも説明を受けた後、ラニはサインができないことを申し出た。役人は慣れた様子でラニに朱肉を差し出し、人差し指にインクをつけて書類に押し付けるよう促す。

 見ていた通りだ。安心して、ラニは指先を朱肉につけた。そうしながら、ふと役人へ問いかける。

「そういえば、竜の噂は聞きました?」

「ああ、卵ね」

 役人はくたびれた様子で応じる。

「湖の底へ向かう道を通るには、城で通門証を貰う必要がある。手続きは中止中だよ」

 事もない、しかも、言いなれた様子だ。ラニは驚き、男をじっと見る。男は卵の事を聞かれたことなど忘れたように、ラニが指を押し付けて差し出した書類をチェックしている。

 ラニは言いようがなく悲しい気持ちになった。

 王が道の通行を差し止めている。

 だから、誰も竜を迎えに行かない。

 どうして王は、湖の底に通じる道を封じてしまったのだろうか。

「卵、宝石になってしまうんじゃない?」

「王が決められた事ですから」

「でも、生きてるのに」

 ラニは食い下がった。この人に食い下がってどうなるものか、考えてはいなかった。役人が明らかに困った顔をして、書類をカウンターに置く。彼は机の下から小さなひし形の石がついた飾り紐を取り出し、ラニに差し出す。

「これが許可証。もう行きなさい」

「でも……」

 ラニの小指の爪より小さい、薄荷色の石がついた飾り紐だった。紐は目が覚めるほど赤い。これを受け取った上で、ラニはカウンターを離れがたかった。並んでいる人々の視線が痛くて、身体がすくんだ。

 その時だ。

「王はわたしだ」

 人々のざわめきを割ったのは、落ち着いた響きの声だ。

 ラニは振り向き、見た。城を取り巻く白い道の真ん中に、昨日と同じ、長く引きずる衣を着た、月色の髪の背が高い男が立っていた。

 男が歩けば、人波が割れる。男、もとい、王であると名乗りを上げたその人は、カウンターのすぐそばまで滑るように歩いてやってきた。そして、カウンターの上の書類を一瞥すると、ラニを呼んだ。

「ラニ、こちらへ」

「は、はい!」

 どもりながら、ラニは確かに頷いた。歩き出す男を追って、半ば駆け足で動き出す。

 握りしめた薄荷色の石の角が手のひらに刺さって、少し痛んだ。




「ついておいで」

 王は滑るように歩く。美しいドレスと外套の裾が道を擦る。しかしこれらの布は、細かな汚れも寄せ付けない。衣擦れの音を引きずって、王は北に進んだ。

 ラニは彼の背中を一生懸命追いかけた。

 様々な形の家やアパルトメントが並ぶ通りを、白い街灯と家の玄関に掛けられたランプがぼんやり照らしている。ただ、物に遮られた場所や、光の届かない影は青黒く闇に沈んでいた。

 その中で、王の姿は月明かりが差すように目だつ。

 ラニはやや遅れて走りながら、彼の背中や、道の角にひらめいていく裾を見落とさなかった。

 王の足取りが緩やかになるころ、街並みはまばらになり、道の先に橙の灯りを見た。

 橙の灯りは四つあった。車輪のついた箱型の乗り物の四隅に吊してあるのだ。

 箱は豪奢で、優美な曲面を持っている。城と同じく、ほのかに光るように白い。象牙やべっこう、白い琥珀だと言われたら、信じてしまいそうだ。前面と側面に大きな窓が填めてあるため、内側に黒いびろうどの座面が見える。

 また、乗り物を引くのは一頭の赤い竜だった。この時、ラニは初めてこの赤い竜を間近で見た。爬虫類のような顔に、四つ足をついた山犬と蜥蜴の間じみた骨格。鱗のある体、硬い皮膚に覆われた腹、鋭い手足の爪。角は頭に沿って二本。背中になだらかな三角錐の棘が並んでいる。被膜がある大きな翼一対も見逃せない。尾はトカゲのようで長かった。革の装具をぴっちり身に着けて、賢そうな目をしている。御者は暗い栗色の髪をした男性で、すらりとしつつ隆々とした体つきだ。顔だちは精悍で、男盛りをうかがわせる。年は三十代中ごろか、もう少し上か。茶色の革の鎧を着ていた。

 竜車、と呼ぶのがふさわしいであろう乗り物だ。王の乗り物ともなれば、客席やそれを牽く竜、御者に至るまで、非の打ち所がない。

 御者の男性は王の姿を認めると、さっと御者台を降り、客席の扉を開いた。

 王は慣れた様子で竜車に乗り込み、ラニを呼んだ。

「ラニ、こちらへ。少し散歩に行こう」

 ラニは確かにひるんだ。ベリックに乗せてもらった荷車とは訳が違う。どう見ても貴人の乗り物だ。

 だが、断るのもまた、失礼だろう。ラニは意を決し、竜車に歩み寄った。御者の男性がさっとラニの右手を取り、手すりに捉まらせる。また、左手を握って、竜車に登りやすいよう手を貸してくれた。ラニは非常に戸惑った。男性の手を握るなど、父親以来だ。心臓が妙に早鐘を打つ。さっと離れていった温かい手の感触が、妙に手に残った。けれどそれについて深く考える暇がない。ラニは王に視線で促され、竜が繋がれている側、つまり進行方向に背を向けて座った。王と向き合う形だ。

「出しますよ」

 御者の男性は車内が落ち着くのを見計らっていたらしい。一声かけて、御者台へ移動する。彼が御者台に座り、竜に一声かけると、竜車は滑るように走り出した。不思議なことに、少しも揺れない。窓の外を、するすると景色が流れていく。

 景色の流れがあまりに速い。ラニは飛んでいるような気持ちになった。恐怖すら感じて、椅子の座面に両手を付き、身体を支えた。

 竜車は街の北口からさらに北上し、左折した。道は緩やかに弧を描いている。どうやら、街の外周を反時計回りに回るつもりらしい。この道は西口に向かうのかもしれない。

 ラニがじっと見つめていると、王は物憂げに首を傾げ、窓の外を見た。両側にある窓の、街側はひどく明るい。反対側では、光石に照らされた丘がぼんやり青い影のように沈んでいる。

 あの丘のどこかに、ニュートがいる、とラニは思った。

「ニュートに会ったね」

 王は、ラニの心を読んだかのように切り出した。あるいは、これを切り出すための散歩だったのだろうか。

「はい」

 ラニは緊張しながら頷く。サンショウウオのような姿をした竜、ニュートと牧場で出会ったのが、遥か昔のことのように感じられた。

「あれを昔、シャトヤンシーと呼んでいた」

 王の声は、深く思い悩む色を帯びていた。ラニは唾を飲み込む。訊ねたいことがあった。

「王さまはイオという人を知っていますか」

 ニュートは、イオという名をしきりに呼んだ。ラニは、それがずっと気になっている。イオという名前が、かげの谷に住む者がつける名前だからだ。

「知っているよ。きみも会った事がある」

 王ははっきり言った。

「かげの谷に人が住み始めたのは、私がイオを追放したからだ」

 ラニは息を飲んでこれを聞いた。王は続けた。

「イオに罪はなかったよ。シャトヤンシーが嫉妬して、彼の夫を殺した」

 当時、シャトヤンシーと呼ばれることになった竜を孵したイオには、恋人がいた。シャトヤンシーを孵した後も、逢瀬を続けていたという。やがて、二人は添い遂げることを決めた。そんなある時、事故は起きた。

 シャトヤンシーはイオの夫に圧し掛かり、彼を殺してしまった。

「イオが竜を憎んで当然だ。だが、竜があんな風になっては、人々に見せつける必要があった」

 シャトヤンシーは姿を変えた。以前は、体に美しい光彩を持つ、水色の竜だった。今、あの色は見る影もない。

 王の話を、ラニはじっと聞いていた。なぜだか、予感があった。

「それはいつの話?」

「今年でちょうど八十年」

 かげの谷がいつからあるか、実のところ、ラニはよく知らない。けれど、かげの谷に一番初めに住んだ人が誰か、知っている。

 その人は、かげの谷に無数に流れるせせらぎを辿った、一番奥に住んでいる。一番初めに住み始めた方だ、と称されてもいる。

 大ばばさまだ、とラニは気づいた。

 イオは、大ばばさまなのだ。

「私はイオを責めない。だから彼女を慕って移り住む人々を止めなかった。バロメッツを与えた」

 王は静かに、首を左右に振った。

「だが、かげの谷の誰も、竜の声を聞かない」

 ラニは目を見張って王を見つめていた。さっきまで分かった王の言葉が、今は少しも分からない気がした。

「ならば、竜は生まれてこない」

 ここで、王は明確に言葉を区切った。彼は金色の眼差しをラニに向け、静かに提案した。

「ラニ。このまま帰るなら、地上に送ろう。荷物も後で届けさせる」

 なんと答えるべきか、ラニにはわからなかった。だが、たった一つだけ、言えることがある。黒いびろうどの座面と、ラニの手の間に、薄荷色の石がある。角が手に刺さる、小さな石だ。石は、ラニが都に来た理由を忘れさせなかった。

 ラニは震える声で言った。

「私……まだドレスを売っていません」

 王は少し目を見張った。何か言いかけるように口を開き、そして閉じた。それから、ぽつりと応じる。

「そうか」

 車内に沈黙が満ちた。

 ラニは、窓の外を通り過ぎていく青い丘の影を見て考えた。

 たとえイオのような目にあっても、竜を許せるだろうか。

 大ばばさまは、竜を憎んでいたのだろうか。

 そうだとしたら、竜に憧れるラニを見て、大ばばさまはいったい何を思っていたのか。

 生まれた時から知っている人の筈なのに、何も分からなかった。




 竜車はラニの予測通り都の外周を走り、西口を通り過ぎていた。やがて、都の南側にさしかかる。王はそこで御者に声をかけた。

「オズバート」

 その声が、意外にもぞんざいだった。ラニは驚いて王を見た。彼がそんな風に喋るところを、想像していなかったからだ。王は「ここで降りる」と言い、さらに続けた。

「この子に、竜を見せてやってくれ」

 ラニはやはり、王の言うことがよくわからない。

 とにかく竜車は減速して一度止まり、王は宣言通り竜車を降りた。御者が降りてきて扉を開けるのを待たず、自分で外に出たのだ。

 竜車を降りた王は、迷いのない足取りで街へ向かって歩き始めた。その歩みがあまりに早い。ラニはぎょっとした。どうやら、先ほどラニの前を歩いていた、あれでも加減していたらしいのである。

 ラニには、王が淡く光っているようにも見えていた。それでも、彼の姿はすぐ闇にまぎれていく。

 王が歩み去って、後にはラニとオズバートと呼ばれた御者、赤い竜が残された。

「よろしく、お嬢さん」

 御者は一応御者台を降りていたから、高い位置にある客席の窓ごしにラニを見上げて、気さくに言った。にこりと笑った目が柔和で、ラニは少しほっとした。もっと威圧的な人であったら、身構えてしまっていただろう。

「ラニです」

「じゃあ、ラニ。俺はオズバート。こいつはジャスパーだ」

 オズバートは改めてラニに名乗った。また、竜車を引く竜の名前も教えてくれた。

「よろしく、ラニ!」

 陽気に響いた声を聞いて、ラニは驚く。喋ったのは赤い竜、ジャスパーだ。

「アルファルド……王さまって、とっても自分勝手だよね。家に帰っていいの?」

 ジャスパーの声は感情豊かだ。呆れたように王を批判したかと思えば、くるりと声の調子を変えて、オズバートに帰宅の判断を仰ぐ。

「ああ。いったん竜舎へ帰ろう」

 オズバートは慣れた様子で頷き、御者台に上がった。彼がジャスパーに軽く声を掛けると、竜車は右折して走り始める。

 ラニは身体をひねって、肩越しにオズバートの後ろ姿と赤い竜、ジャスパーが走る様を見た。この色を知っている、と思った。幼いころに、じっと見つめた事があるからだ。ラニは言った。

「二十年くらい前、オズバートが花の峰に上るところ、見ていたかも」

「二十年くらい? じゃあ、俺たちだ」

 オズバートは肯定して笑った。

「懐かしいな。あそこでジャスパーに初めて乗ったんだ。鞍なんてないから落っこちそうだった」

「落とさなかったでしょ?」

 ジャスパーが鼻を鳴らして自慢げに言った。

「斜面に沿って飛んだから、落ちても軽い怪我で済んだ筈だよ」

「何にせよ、お前の背中は痛いから、もう鞍なしは遠慮したい」

「落っこちられちゃたまんないし、おんなじ気持ち」

 二人の会話は軽快だった。ラニは声を潜めて笑う。そんな風に笑うのは、久々のことだ。なぜだかほっとして、肩の力が抜けた。いつの間にか張り詰めていた気持ちが、ぐっとほどける。

 ほどなく、竜車は速度を緩めた。荷車がゆうに三台は並べる、ほのかに光る道の途中だった。幅の広い道沿いは見渡す限り平らで、地平の端は暗闇に消えている。そこに、一軒の白い家がぽつんと建っていた。立方体に三角形の屋根がついた平屋である。手前側中央には大ぶりな窓が二つ。道側に四角い小さな窓が等間隔に五つ並んでいた。

 竜車は家の前を通り、右折して停車した。こちら側から見ると、家の中央には白いドアがある。ドアの中央にはアイアン飾りが施され、シンプルながらしゃれた印象だ。ドアの左手側は家が骨組みに変わっている。ラニは首を傾げた。反対側から見たときには、そんな印象がなかったからだ。

 どうなっているのだろう。何があるのだろう。気になって、ラニの意識はそちらに釘付けになった。

「ラニ、どうぞ」

 そうしているうちに御者台を降りたオズバートが竜車のドアを開く。彼は、手を差し出してラニに声をかけた。優しい声だった。

 ラニはやっと振り向き、立ち上がって、おっかなびっくり竜車から顔を出した。オズバートの手に自分の手をそっと重ねる。彼の手は大きく、硬い。そして温かい。

「王様の背に合わせてるもんだから、俺たちにはちょっと大きいよな」

「うん、ちょっと怖い」

 頷きながら、ラニははにかんで笑った。登る時より、降りるときのほうが苦労した。ラニの両足が地面に着くと、オズバートの手はするりと離れていった。そういえばオズバートはラニより頭一つ以上背が高い。少し背が高い人たちに属するのかもしれない。彼はジャスパーの装具を外し、彼を自由にしてラニに声を掛ける。

「さて、こっちだ」

 オズバートに言われて、ラニの意識は改めて白い家に向く。

「はやくはやく!」

 機嫌よさげに歩くジャスパーの背を追って、ラニは白い家の裏側に回った。

 裏側は屋根以外が骨組みの空間だ。左手奥には建物の続きがあり、窓がついている。骨組みの部分に、白い竜と緑の竜が横たわって休んでいた。

「ピルラ、スマラカタ、ただいま」

 オズバートが声をかけると、二頭は顔を上げた。

 白い竜は全身が羽毛と真珠色の鱗で覆われていた。ラクダのような頭で、牙のある口は大きい。立派な金色の角が耳の後ろに向かって伸びている。身体はトカゲに似ながら、手足はオオカミのようだ。そして、立派な金色の翼を二対持っていた。また、トカゲのような尾がある。

 緑の竜は新緑色の鱗に覆われた体だ。鹿のような顔で、角は黒。額、背中、尾にかけて、苔色の長い毛を垂らしている。手足は山猫で、鋭い爪は割れた蹄にすら見える。翼が蝙蝠のような被膜で黒い。こちらにも、トカゲのような尾があった。

 どちらも、尾まで含めれば成人男性二人を並べたより体長がありそうだ。

「白い方がピルラ、緑の方がスマラカタだ」

 オズバードが紹介すると、竜たちはそれぞれラニに視線を合わせ、頷く仕草を見せた。目礼のようだ。

 ラニは、毎朝空を見上げて探した二頭を前に緊張しきりだ。こんな容姿だったのか、と驚くと同時に、やはり二匹は輝く様に美しい。

「二頭の竜騎兵は代替わりして、若いの二人。ピルラの相棒はディアミド、スマラカタの相棒はコノル。二人とも、今は街に買出し」

 この時、ラニの耳にはオズバートの声が半分ほど聞こえていなかった。

「王が竜を見せろと言ったなら、跨がるくらいして行くんだろう?」

 白い竜、ピルラが歌うように誘った。

「そうだそうだ」

 緑の竜、スマラカタが後押しするように頷く。竜たちは面白そうにラニへ顔を寄せた。半ば、からかう調子が混じっていた。

 ピルラの瞼には長いまつ毛が生えている。竜が瞬くと、白い羽毛に覆われた瞼と金のまつ毛が優雅に上下した。

「あなたの装具と私の装具をベルトでつないでいいなら、空の散歩に行こうか」

「ピルラ、こんなお嬢さんに」

 オズバートが竜をいさめた。ラニはとっさに声が出せず、あわてて首を左右に振った。そして、なんとか言葉を絞り出した。

「私、乗ってみたいです!」

 からかわれていてもいい。思い切ったラニが目を輝かせて応じると、ピルラは目を見開いた。そして、スマラカタと顔を見合わせる。一拍の間をおいて、二頭は声を上げて笑った。楽しそうな声だった。

 オズバートも驚いた様子でラニを見ていた。ジャスパーが、嬉しそうに二人の周りを歩いて回った。

 それからラニは、肩と腰、股の下をくぐるタイプの装具を貸してもらった。ピルラは鞍をつけ、背中から胴に回る装具に両腕を通して着込む。オズバートが、ラニの装具とピルラの装具をベルトでつないだ。装具にはランプを吊す場所もあって、ラニは自分の青いランプをそこに下げた。

「ちょっと待っててくれよ」

 それからもオズバートは、てきぱき動いた。先に道の方へ回っているスマラカタに声をかけ、道に人がいないことを確かめさせる。ジャスパーに鞍を付け、自身も靴を履き替える。これが、あっという間だ。

「大丈夫だね」

 ラニを乗せたピルラは、ゆったり歩いた。竜が歩くと、ラニは浮くような心地を味わった。同時に、不思議な一体感があった。

 三頭は往還に出て、それぞれ翼をはためかせる。強い風が起きた。

「行こう!」

 オズバートを乗せたジャスパーが、少し浮き上がった。続いて、ピルラとスマラカタも浮き上がる。ラニは、浮遊感におどろいて鞍とピルラの首筋にしがみつく。

 ラニがピルラにしっかり捉まるのを見届けて、スマラカタが動き始めた。ゆったりと羽ばたき、前に出る。ピルラがそれに続き、最後にジャスパーとオズバートがついてきた。

 竜たちは少しの間、道に沿って低空を飛んだ。ラニが歓声を上げると、徐々に速度と高度を上げ、往還を離れる。

 竜たちはしばし、暗がりを飛んだ。ラニは、この時ほど暗闇を美しいと思ったことはない。闇の中に居ても、竜たちの姿がはっきり見えた。

 それが見つかるまで、あっという間だった。真っ暗な上空に、裂け目があった。そこから、光が帯を描いて差し込んでいる。

「外に出るよ!」

 後ろから、ジャスパーが叫んだ。

 ラニとピルラの前方で、スマラカタが光の帯に飛び込む。緑の竜の姿は、一瞬見えなくなった。ラニは目を見張る。だが、ラニを乗せたピルラに戸惑いはなかった。

「目がくらむよ!」

 竜が声を張る。言葉の通り、光の帯に飛び込んだ瞬間、ラニには何も見えなくなった。ただ、竜が上昇していることだけが確かだ。掴まった竜の身体の動き、そして向かい風、ラニの身体にかかる重力が、現実を確かに伝えてくる。力強い翼の羽ばたきが、空気を割って身体を上方に押し上げる。

 視野が戻ったとき、ラニは麦畑の上を滑空していた。右にスマラカタ、左にジャスパーとオズバートが飛んでいる。金色に、豊かに実った麦畑の上空には、肺を洗い流していく澄んだ風が吹いていた。

 空には薄く雲がかかっていながら、あちこちが破れて空の青さも見える。そこかしこから、光の帯が降りていた。

 そして前方だ。まぶしく白い建物が並ぶ港町があって、その向こうに紺碧の海が広がる。

「海の上まで行こう!」

 ジャスパーが楽し気に誘った。

「ラニ、大丈夫か? 目を回してないか?」

 オズバートが声を張って訊ねる。

 ラニは胸がいっぱいで、しかし引き返すにはあまりに惜しく、叫ぶように応じた。

「だいじょうぶ!」

 ピルラとスマラカタが笑った。青銅の鐘のような、美しくとよみ渡る声だった。

「では、行こう!」

 スマラカタが力強く羽ばたき、いち早く港町の上を滑空した。緑の鱗が輝き、黒い毛並みがたなびいた。きらめく姿を追って、ピルラが追い上げる。

「あれを抜いて見せよう!」

 ピルラは声を弾ませて羽ばたく。ラニは鞍越しに竜の身体の躍動を感じた。人とまったく違う骨格が滑らかに、力強く躍動する。白い羽毛と真珠のような鱗が光る。風音の中に、ビーズを混ぜたときのような音が混じっていた。鱗がこすれ合っているのだ。金色の翼が光をはじく。港町の上を通り過ぎるとき、滑空する竜を見上げて子どもたちが歓声を上げた。

 潮風は青い。生き物の香りがした。全身を撫で、通り過ぎる風を感じながら、ラニは空から降る光の帯の中を繰り返し通り抜けた。

 ジャスパーとオズバート、スマラカタが後になり先になりして、ラニとピルラの周りを舞った。

 白と金の体躯を持つ竜、緑と黒の体躯を持つ竜、それから、赤い竜が海の上を戯れるように飛んだ。

 ラニはいつまでもこうしていたいと願った。同時に、長く鞍にしがみついていることは難しいと、直感で悟った。ベルトを繋がずジャスパーに乗っているオズバートがどれだけ鍛えているか、考えるまでもない。

「そろそろ帰ろう!」

 オズバートが竜たちを促すタイミングは完璧だった。ラニにもう少しだけ余裕があり、しかし、旋回や急上昇が最初よりかなりきつくなってきた、その時だったのだ。

「では戻ろう!」

 ラニを背に乗せているピルラも、それは察するところであったらしい。オズバートの号令を聞いて、さっと翼を翻した。

 竜たちは再び港町の上空を滑空し、金色の麦畑を越えていった。その先で、ラニはやっと竜たちがどこから地上に飛び出したか見ることができた。それは、球状の月の島の側面だった。爪で割いたような破れ目があって、竜たちはそこから、身体を滑り込ませる。

 再び、地下に入った。辺りはぐっと暗くなり、光石が照らす薄闇の空間だ。装具につけた青い光石のランプが、うっすら辺りを照らす。

「どうだった?」

 往還に向けて下降しながら、ピルラがラニにだけ聞こえるよう問うた。

「すごかった。夢みたいだった」

 ラニも、ピルラだけに聞こえるよう応じた。ピルラは金色の目を細め、喉の奥でくつくつ笑った。

 竜たちが往還に降り立つ。ピルラの両足が地面につくと、ラニの身体からも抜けた。思っていたよりずっと、疲れていた。

 再び、オズバートがてきぱき竜たちの装具を付け替えていく。ジャスパーは鞍も装具も外してもらうと、すっきりした様子で身震いした。オズバートに首を叩いてもらい、機嫌良さそうだ。また、何も付けていなかったスマラカタも、オズバートにちょっかいをかけて、あしらわれていた。仲がいいのだ。

 それから、オズバートはラニとピルラをつなぐ装具に取り掛かった。ピルラはラニが落ちないよう腹ばいになって座り、おとなしくしている。ラニの腰とピルラの背中を繋ぐベルトが外された。オズバートは、何でもない様子でラニを抱えてピルラから下ろした。一瞬の事だった。ラニは驚いて硬直し、声も出なかった。オズバートは続いて、ラニが着ていた肩と胴、股下まである装具をさっと外して、壁に掛ける。この間に、ラニはピルラの腹に背を預けてへたりこんだ。

 どうも調子が狂う。胸が変な風に早鐘を打って仕方ない。ラニにはこれが、竜と一緒に空を飛んだ興奮によるものなのか、男性と触れ合う、父親以来の距離によるものなのかわからない。

 ピルラが身体を捩って、ラニの頭に鼻先をこすりつけて擽った。

「若い者たちに竜の話をする。あなたも聞いていくといい」

 優しい声だ。ラニは頷いて、ピルラを見上げる。ピルラは微笑んでいた。獣の顔に、慈悲深さを感じた。王と同じ目の色だ、と思った。

 ラニはそのまま、少しまどろんだ。寝藁は柔らかく、いい香りがした。腹を貸してくれるピルラが、そうしていろ、というように翼で包んでくれたのも大きい。すぐ傍にスマラカタも腹ばいになると、ラニの姿は竜と竜の間にすっぽり隠れた。

「ずいぶん気に入ったな」

「いい子だよ」

 オズバートとピルラが話すのを、ラニはずっと遠く聞いた。

「とてもいい子だ」

 金色の翼が、ラニを抱きこむ。温かかった。ラニは目を伏せているのに、急に目頭が熱くなるのを感じた。自分以外の温かさに、こうして包まれるのはいつ以来だろうか。急に、母親を思い出した。母が恋しかった。

 父と母はラニが十五歳のころ、都に行くと言って出かけた。かげの谷の老人が一人、病気だったのだ。次に行商人が来るまで保ちそうにない、というので、二人が出かけた。ラニはもう大きかったし、一人で留守番できた。ついていけば良かったのに、と今は思う。

 そうすれば、一人になる事はなかった。

 それでも、これから一人で生きていくのだ。心に決めてかげの谷から旅に出た。そして、かげの谷の起こりを知った。

 大ばばさまはかつて竜を孵し、竜に呪われてかげの谷に追放された。そこに、数人が追従した。地上が流刑地であるなら、自分の先祖はどうだったのだろう。大ばばさまに付いていくと決めたのは、何故だったのか。

 もっと知りたい、と思った。

「ラニ、起きれるかい?」

 ピルラのまろい鼻先が、ラニの頬をやさしくつついた。くすぐったくて笑いながら、ラニは目を開けた。

「ありがとう。ちょっと元気になったかも」

 少し休んで、楽になっていた。ラニがピルラの翼の影から顔を出すと、竜たちがいる、竜舎の骨組み状の部分のそばに、二人の青年が立っていた。

「ディアミドです」

 短い金髪で、巻き毛の男が名乗った。目が青くて、幼げに丸い。背丈は中背ながら、顔がやけに整っている。白い革の鎧を着ていた。

「コノルだ」

 青黒い髪の男が名乗った。目つきはきつめで、緑色。オズバートよりは背が低く、ディアミドよりは背が高い。こちらは、黒い革の鎧を着ている。

「全員揃ったね」

 ピルラが言って、全員を座らせた。オズバートはジャスパーの傍、巻き藁に座る。ディアミドはピルラの正面に胡坐をかき、コノルは竜舎の壁にもたれた。ラニは、ピルラの傍に座ったままだ。ピルラは話し始めた。

「ある嵐の晩、一匹の傷ついた竜が無人島だった月の島に不時着した。月色の竜だった」

 ラニは、ピルラの真っ白な羽毛と真珠色の鱗を見つめた。月色、と言われて思い浮かべるのは、王の髪だ。王の髪の色をした竜は、どんな容姿だろうか。ピルラからも、スマラカタからも想像できない。また、決してジャスパーのようでもないと思った。ディアミドが不思議そうにラニを見ていた。

「竜は傷が癒えず、長い間、島の地下に休んでいた。そんなある時、島の南側に漂流者たちがたどり着いた。彼らは船で長く海上を彷徨い、飢えと寒さで限界を迎えていた」

 ピルラは続けて語った。静かな口調だ。

「竜は漂流者たちを哀れみ、島の地下に招き入れた。風がなく温かい地下で食事を振舞われ、人々は竜に感謝した。すると、竜の傷は少し癒えた」

 そこで言葉を区切って、ピルラは言った。

「竜の名はアルファルド。この島の王だ」

「王さま? だって、人だったよ」

 ラニが首を傾げると、ピルラは笑った。

「あんなに背の高い人は他にいないだろう。本当の王は島の地下深く、サンゴ礁の底に休んでいる。あれは王が見る夢」

 コノルはじっと押し黙ってピルラを見つめる。彼の眼は真剣だ。

 ピルラはさらにも語った。

「王は人と竜が共に生きられるよう、時に竜を生み出すことにした。この島の竜は人の手で孵る。王がそう作った。この島の竜は、竜を思う人がいなければ生まれない」

 では、今、湖の底にできた小さな卵もそうだろうか。あの卵を誰も孵せないのは、ラニ自身も含めて、竜を思う気持ちが足りないからなのだろうか。ラニは、自分が竜に憧れていた気持ちは足りなかったのだろうか、と首を傾げた。

「私は、そろそろ限界だと思っているよ。人は自分たちがどうしてこの島に暮らしているか忘れた。そのうち、私たち竜は皆、どこかよそに行ってしまうべきなのかもしれない」

 ふと、それまでじっと黙っていたスマラカタが顔を上げてラニに鼻先を押し付けた。竜の銀色の目が、ラニをじっと見た。

「ラニ。地上で暮らす人は、地下から追放された者の末裔だ」

 スマラカタの声はあくまで優しい。

「でも、王はその子孫まで責めなかった。だから様々な植物を与えて、生きられるようにしてきた。それを考えてみて欲しい」

 ラニは頷いた。頷きながら、王を思った。

 王には、何を考えているか分からない人だ、という印象ばかりある。彼は、ピルラやスマラカタが語るように慈悲深いのだろうか。わからなかった。何せ、湖の底に続く道を閉ざしているのは王だ。しかし、かげの谷にバロメッツを与えてくれたのもまた、王だ。かげの谷は紡績を主要産業としている。バロメッツがなければ、成り立たない。

 若い騎兵二人も、この話をどう受け止めるべきか迷っているのだろう。口を引き結んで、思案顔だ。

「ここで働かない?」

 そんな中、明るい声が響く。ジャスパーだった。ジャスパーは後ろからピルラとスマラカタの間に割って入った。そうしてラニにじゃれかかかりながら、楽しそうに言った。

「男所帯でね。むさくるしいし、片付かないんだから」

 ジャスパーを押しとどめているのは立ち上がったスマラカタの前足であり、後ろから腕を伸ばしたオズバートだ。オズバートは呆れたように言った。

「お前らのせいでもあるんだぞ」

「さてね。皆落ち着いてきた年頃だ。次の竜からアルファルドに第二竜舎を作ってもらおう」

「王を名前で呼ぶんじゃない」

「まあまあ。部屋ならあるし、きっと皆歓迎してくれる。考えておいて」

 言いたいだけ言って、ジャスパーはくるりと身体の向きを変えた。圧し掛かられたオズバートが、重たそうに彼をあやして地面に下ろす。それで満足したのか、ジャスパーはころりと横になった。

「全く」

 オズバートは呆れたように呟き、ラニの近くまでやってきた。

「立てるか? 宿まで送るよ」

 ラニは頷き、立ち上がる。服に付いた藁を払い、ピルラとスマラカタにそっと頭を下げた。

 また、ラニは若い二人の騎兵にも会釈した。二人は急に居住まいをただし、折り目正しく礼をした。

 オズバートは先だってゆっくり歩く。ラニは、彼を自分の歩幅で追えばよかった。往還から都までは、さほど遠くないようだ。二人はゆっくり歩いた。

「悪いな、あいつ、口さがなくて」

 オズバートは肩を落として言った。あいつ、というのは、ジャスパーの事らしい。

「いえ」

 ラニは笑って首を振った。ラニは、ジャスパーの無邪気さが嫌いになれない。むしろ好ましいと思う。

 そんなラニの顔を見て、オズバートは眉を下げる。それからふと、まじめな顔を見せた。

「竜騎兵は念のため独り身なんだ。俺の先代がイオだから」

 そうだったのか、とラニはオズバートを見上げた。オズバートの目が、優しく和んだ。

「俺からも頼むよ。考えてくれ。ジャスパーは落ち着いてきた」

「それって?」

 前の竜騎兵は妻帯していたし、後進たちの為にも、今の禁は解除したい、とオズバートは言い訳のように言った。それから、照れくさそうに笑う。

「まあ、お試し、ってこと」

 一瞬でも、ラニは自分が、オズバートの隣に立つさまを想像した。想像した自分は、あの真っ白なドレスを着ている。ラニの顔に、さっと赤みが差した。

「からかってる!」

 ふい、と顔をそむけて、ラニは早足になった。手元のランプを強く握る。

 あそこに騎兵は三人もいたのに、自分は一瞬でオズバートを想像した。それが恥ずかしくて、ラニは唇を引き結ぶ。

 別のことを考えよう。そう心がけても、いま、意図して考えられるのは竜たちのことくらいだ。

 気さくな竜たちと触れ合って、ラニは、今まで竜に抱いていた神々しい印象ががらりと変わった。竜は人が好きだ、と分かった。竜たちは人を信じ、期待してすらいる。そうでなければ、あんな話をしてくれよう筈がない。

 いままで、竜の卵がどうなるか知りたい、気になると考えてきたのは、自分の手で孵したいという願いがあったからに他ならない。言葉にすることすら恥じていたが、突き詰めればそういうことだ。

 だが、それができたところで、あんな風に育てられるだろうか。イオが……大ばばさまが出来なかったことを、ラニに出来るだろうか。

 同時に思う。

 自分が、例えばオズバートたちの所で暮らして、幸せを感じたとして、どうだろう。

 そうして暮らしている間に、湖の底にできた竜の卵は宝石になってしまうだろう。湖の底には、ずっと紫色の宝石が残る。それはきっと、かつてラニが寂しかった証拠になる。その傷は、ずっと消えない。また、そこにいたはずの竜の寂しさも、ラニが生きている限り続く。

 一緒に居られるなら、元の暮らしに戻ったっていい。

 一瞬、ラニはそう思った。そしてその瞬間、確かに聞いた。

 寂しい、とすすり泣く、霧が流れていくような声だった。

 ラニはとっさに足を止め、耳に手をあてて辺りを見回した。

 追いついてきたオズバートが、気づかわしそうにラニを見た。




 巻き貝の貝殻に耳をあてると、潮騒の音が聞こえる。

 ラニの耳に響くのは、ちょうどそんな声だ。

 寂しい、寒い。

 霧の流れるような声は、絶えずラニの耳元で囁いた。ラニは混乱して、その場でオズバートにうちあけた。

 オズバートは、さっきよりずっと真剣な顔つきになった。

「いったん、宿に送る。そこで待っててくれ」

 ラニはどうしていいかわからず、素直に頷く。

 大通りで、オズバートはラニの先に立って歩いた。彼が人混みを割って歩いてくれれば、ラニはこれまでよりずっと歩きやすい。考え事をする余裕さえあった。

 オズバートはラニを宿の戸口まで送って、「待ってろ」と重ねて言った。ラニが宿に入ったのを見届けると、オズバートはどこかに走っていく。

 ラニは一人で部屋のベットに腰かけ、じっと待った。

 待っている間に、色々な事を考えた。ニュートのこと、イオのこと、王のこと、オズバートや竜たちのことが、頭の中で入り乱れた。

 そうしながら、頭に響く「寂しい」という声を聞いていた。

 やがてラニは、これはかげの谷で暮らしていた自分が声にできなかった思いと同じだ、と思った。

 かげの谷の皆が幸せそうにしている時、一人でだまって、片隅にいる。目立たないよう気配を消している自分と、あの竜の卵は似ていないか。あの時、誰にも聞かれなかった声は、こんな風ではなかったか。

 せめて寄り添えないか考えた。差し出がましいかも知れない、と恥じもした。だが、ラニの頭の中で響く声は止まない。むしろ、だんだんとはっきりしてきた。幼げな声に感じた。

 そんな中、宿のドアがノックされる。

「はい」

 ラニは立ち上がって戸口に向かう。

 ドアを開けると、戸口にはオズバートが立っていた。彼は肩で息をしながら、余裕のある表情で笑う。

「このまま」

 オズバートは部屋に踏み込まず言った。

「明日、午前の鐘が鳴る時、城に向かってくれ。王が待ってる」

 短い時間で、何か約束を取り付けてきたのだ。ラニはオズバートを見上げ、硬い顔で頷く。

「わかった」

 どうなるか、何をすべきか、一つもわからない。それでも、後に引けない。引き下がる場所もない。

 この人が一緒に来てくれたらいいのに、と一瞬思った。同時に、分かってもいた。竜を孵すときは、一人で行かなければならない。ラニははっきり顔を上げた。

「大丈夫。上手くいくよ」

 オズバートがそういうと、本当に何とかなりそうだ。根拠など一つもないのに、不思議だった。ラニは、硬い笑みで応じた。




 翌朝、ラニはかげの谷から着てきた服に身を包んだ。この服の方が自分らしい、と思ったからだ。青色のランプを握りしめ、外に出た。

 まだ、朝の鐘が鳴っていない。

 ほの白く照らされた大通りで、バザールの人々が開店の準備に追われている。人通りもまばらだ。ラニは足早に歩いた。通りを抜け、広場を通って、わき目もふらずに城壁の小さな門の前に立つ。しかし、扉はまだ閉ざされていた。焦り過ぎたのだ。

 だが、耳の奥にはまだ声が響いている。寂しい、寒い、とすすり泣く幼げな声だ。ラニはこれを、無視できない。落ち着かず、いったん小さな門の前を離れた。

 広場をぐるりと回って時間を潰す。広場には屋台がない。歩く場所は沢山ある。高い門を見上げたり、活気を潜めている通りを眺めたりした。そうしている時、不意に、霧が立ち込め始めた。おや、とラニは思った。

 こんな時間に霧が出るのはおかしい。そもそも、ここは地下である。視界が悪くなるほど霧が出たりするものだろうか。まるで、川や湖の畔でみる朝霧のようだ。

 霧は濛々とたちこめる。火事か、とすら思った。だが、火の手やきなくさい臭いの気配は、一切ない。ラニは狼狽え、とにかく人にぶつからないよう、城壁の傍に寄った。そこはちょうど、大きな門の前だ。ラニの背丈の五~六倍はある、立派な浮彫がされた石の門である。門に彫られているものは、よく見れば巨大な竜とつる草と果樹園、月と太陽だった。ラニはこの扉の片側に凭れた。すると不思議なことが起こった。

 ラニが凭れている扉の、反対側がゆっくり開いた。ちょうど、内側から押し開かれる形だ。人ひとり通れる隙間を空けて、扉は止まった。

 ラニは扉と扉の隙間を覗き込んだ。

 霧の向こう、城側に、王が立っていた。

「こちらへ」

 彼は確かに、ラニを呼んだ。

 ラニはこくりと唾を飲み込んだ。ためらいがあった。迷いはなかった。ゆっくり、城壁の内側へ足を踏み出す。できるだけ、滑るように。

 ラニが城壁の内側に入ると、ラニの背後で城壁の扉がゆっくり閉じた。

 まだ濃い霧は満ちている。ラニは滑るように歩く王を追い、輪を描く道を踏み越えた。無数の塔を束ねた壮麗な城と道の間に、暗緑色の鉄柵がある。柵はつる草の模様を抱いて輪をつくり、城を囲んでいた。この柵もまた、滑るように左右に割れ、開いた。

「こちらへ」

 再び、王はラニを呼んだ。

 ラニは咲き乱れる小さな花をそっと踏み、彼に続いた。

 ラニと王が柵を越えると、柵は再び城を囲んで口を閉ざした。

 城の鐘楼で、朝を告げる鐘が鳴った。

 辺りに満ちていた霧が晴れ始める。

「ラニ、朝食がまだだろう」

 こう言いながら、王は城の大きな扉の前に立った。

「食べながら話そう」

 ラニは王を見上げ、何も言えない。何を話そうというのか見当も付かなかったし、また、朝食の味が解かるとは思えなかった。しかし、誰が断れるだろう。

 王に呼ばれるまま、ラニは進んだ。白亜の城の大きな扉は、ひとりでに開いた。二人は門を抜け、壮麗な広間を通って、城の中へ進んだ。全ての扉がひとりでに開いた。細い通路を幾つか過ぎた先が食堂だった。

 黒く磨き上げられた床は、ラニと王の姿を写すほど艶やかだ。また、壁は白く、天井から床近くまで、淡い色の絵画が描かれている。部屋の中央に置かれた長方形の大きなテーブルは、大理石のようだ。灰色で、滑らかかつ無機質な存在感を放っていた。中央に飾られた緑の花が目を引く。テーブルの短辺に添えられたソファー風の椅子もグレーだ。ラニと王は、このテーブルの短辺にそれぞれ腰かけた。

 王とラニは離れて座った。ラニがすこしほっとしたのは、隠しようがない。

 二人の間に沈黙が落ちる。

 それからほどなく、ラニは視界の隅で黒いものが動くのを見た。始めは、真っ黒な床が波打ったようにも見えたのだ。しかしそれは、間違いだった。

 動いているのは、真っ黒なクッションだった。四隅に金色の房飾りがついたクッションたちが、真っ白い皿を頭に乗せて運んできた。皿には、分厚いパンケーキが二枚乗っている。バター付きだ。それから、蜜の入った壺。銀色のフォークとナイフ。クリームが乗った温かいココア。これらが、王とラニの前に丁寧に並べられた。

 王さまって甘党かも、とラニは思った。

「この蜜は、竜たちが取ってきた。竜蜜と呼んでいる」

 蜜の入った壺は透明で、小さい。内側に充たされた液体は透き通って、淡く黄金がかっている。

「食べなさい」

 王はラニに促した。そうして、自分もパンケーキに蜜をかけて食べ始めた。フォークとナイフを構える様子が、絵画のようだ。

 ラニはおそるおそる竜蜜を取り上げ、パンケーキにかけた。淡く黄金ががった透明な液体は、パンケーキの上をとろりと流れた。蜜は溶けだしたバターと混じって、マーブル模様を描く。

 ラニはゆっくりパンケーキを食べた。これまで食べたどんな物より甘く、蠱惑的な味がした。ときどきココアを飲むと、これも甘いのだが幾分かほろ苦さもあって、パンケーキとバランスが取れている。

 二人の食事は無言だった。そう大きなパンケーキではなかったから、ほどなく二人は食べ終えた。再び、黒いクッションたちが現れて皿を片づけ、二人の前に水の入ったグラスを置いていった。ラニがこれを少し飲むと、レモンとミントの香りがする水だった。口の中がさっぱりして、ラニは、いよいよ王と話さなければならない、と決心がついた。

 ラニが顔を上げると、王もラニを見た。

「悲しい生き物を生むくらいなら、ゆりかごの中で眠るように死なせてやるべきだ」

 王が言った。少し距離のあるラニに聞こえる、ぎりぎりの声だった。

 湖の底にできた卵は小さい。昨日会った竜たちのように、人を乗せて飛ぶことは出来ないかもしれない。けれどラニは顔を上げ、首を左右に振った。

「でも私、聞こえます。寂しい、寒い、って」

 声は、今や無視できるものではなかった。ずっと遠くから、微かに聞こえてくる。幼い声に背中を押されて、ラニは王の目をじっと見た。

「たぶん私は罪を重ねるのだと思います」

 イオが……大ばばさまがそうであったように、ラニもまた、竜に対して何らかの過ちを犯すかもしれない。取り返しが付かない可能性は大きい。それでも、声に応えたい。だから、ラニは王に訴えることを止めなかった。

「でも、一緒に居ようと思いました。私の責任です。私が彼を孵し、ひと時共にいて、彼を幸せにしようとする」

 これは独りよがりだろうか。王の表情は怜悧で、感情が読めない。それでも、ラニは言葉にしようと努めた。思い悩む全てをうちあけられる時は、この瞬間しかない。

「それで竜が幸せかは分かりません。でも、一人は寂しい」

 そうだ、ラニはずっと寂しかった。かげの谷で、ひとりぼっちだった。どんなに生活が充実していても、充たされない気持ちがあった。だから、湖の底に竜の卵ができるという非日常に惹かれて旅を決意した。ここまでは、ラニ一人の問題だった。

「私が不幸になる分はいいんです」

 竜を孵したいと願った。言葉にはできなかった。口にすることを恥じた。自分の慰めのために、竜を求めた。

 けれども、ニュートに出会った。オズバートと竜たちにも出会った。そしてやっと、竜の声を聞いた。

 毎朝、仰ぎ見た竜たちと暮らすより、元の生活を選んでもいいと思った瞬間だった。

「竜を不幸にするとき、私は罪を負って、彼を手放す。たぶん、月の島から追放されるくらいの罪です。それでいい」

 ラニは始め、自分のために竜を求めた。それは決して、竜のためではなかった。けれども、今は違う。

「あの寂しい声を無視できません」

 竜は喋り、楽しみ、考える生き物だ。ならば、いま、湖の底にたった一人でいるあの紫色の卵は、どれだけ寂しいだろう。ラニは、あの竜の孤独に寄り添いたいと願った。それがどんなに差し出がましくても、いま、この声を聞いているのは自分だからだ。

「私はずっと寂しかった。寂しいまま冷たくなるのは可哀想。それだけじゃ駄目ですか」

 だから、王の凪いだ視線にも負けなかった。この人も竜なのだ、と今は知っている。この冷たく厳しい視線が、人が竜に与えた失望の証左なのだろうか。そうだとしたら、人は何をしたのか。ラニは、それをこそ知りたいと願った。けれど今は、訴えねばならなかった。

「私が責任を負います。ほんの一瞬のためでもいい。でも出来る限り一緒にいます。竜が望んでくれるなら」

 ラニが必死で言葉を紡いだからだろうか。王の瞳が、少しだけ揺れた。彼はゆっくり、口を開いた。

「ドレスを私に売って欲しい」

「どうして?」

「きみをかげの谷に帰したい。金貨三枚でどうだ」

 背格好が違う者の多いこの都で、誰が着るというのだろう。ラニは笑った。

「三枚も貰えません」

「五枚だって出す」

 ラニは首を左右に振った。

「私に竜を孵させてください」

 きっぱり言い切って、王の目を真っ直ぐに見た。

「私が責任を持って、あの子を迎えに行きます。あの子が私を憎むときも、私の話を聞かない時も、私はあの子の味方でいたい」

 今は、少し笑う事すらできた。ラニは目を和ませ、王より遠くを見る。

「海を見せてあげたいんです。小麦畑も海も。それから、牧場と農場を通って、一緒に谷に帰ります」

 ラニの言葉に、この時、嘘や偽りはなかった。王はしばらく黙った。それから、まだ迷いのある様子で告げた。

「ドレスの対価に、通門証をあげよう」

「それなら」

 今度こそ、ラニははっきり笑った。




 玉座の間に差し込む光は、湖の底から注いでいた。玉座の間は柱が林立する広間で、玉座の上には螺旋階段のついた尖塔がそびえている。尖塔の先は、湖の底を衝く。

 王は玉座の後ろにある青いカーテンを引いた。そこに、階段の入口があった。

 また、金色の房がついた黒いクッションが、橙色の石が入ったランプを運んできた。クッションは、ランプをラニに恭しく差し出す。ラニは橙色の石が入ったランプを受け取った。

「これが通門証だ。いつものランプは、あとで返そう」

 王は厳かに言った。

「登るんだ。きみは一人で行かなければならない」

 ラニは玉座の上空を見上げた。

 螺旋階段は果てが見えないほど続いている。ずっと上の方は、尖塔を伝い落ちる瀑布の水色に溶け、光にけぶっていた。

 今度はベリック一家の荷車に乗って旅程を縮めることはできない。また、オズバートと竜たちの力を借りて飛ぶこともできない。

 一人で行かなければならないのだ。覚悟を決めて、ラニは踏み出した。




 しばらく、水色の光に満ちた階段を駆け続けた。白い螺旋階段は無慈悲なまでに規則正しく、端正に並んでいる。ラニは息切れし、咳き込み、それでも立ち止まれない。ときどき速度を緩め、なんとか階段を走った。ふと立ち止まって下を見ると、まだまだ見える場所に玉座があった。ずいぶん登ってきた気がするのに、ままならない。

 ラニは自分を奮い立たせ、上を向いた。果てなく感じる階段が続いている。水色の光の果ては、白くかすんでいた。ラニは一度立ち止まり、深呼吸してふたたび、今度は歩く速度で進み始めた。走り続けることはできない、という確信がある。だから、少しでも前に進むために、歩くことを選んだ。

 進み続けて、ラニは考えた。

 一人で行かなければならない。これから谷で暮らすなら、だれの助けも借りられない。一人で竜を育てる事になるだろう。

 ドレスを手放し、竜を連れて日常に戻る。

 そこには、未知の孤独が潜んでいないか。あの「寂しい」と嘆く声は無視できない。しかし、連れ帰った竜と本当に分かり合えるのか。

 選択の重みが、足を重たくした。進めば進むほど、足は重たくなった。自分の二本の足がこれほど重たく、ままならないのは初めてだ。気力で足を上げ、まだ長く続く階段を睨んだ。登り始めた事を後悔すらした。けれど、立ち止まらなかった。

 辺りの水色が白っぽく変化し始めた頃、ラニは笑っていた。もう半分を過ぎた、という確信があった。けれどまだ、階段は続いている。まだ、進まなくてはならない。靴が痛くて、ラニは裸足になった。ランプを右手に、靴を左手に提げて、階段を上り続けた。

 ふと、下を見れば、はるか下方に玉座がかすんでいた。あと少しだ、とラニはまた笑った。もはや、何か考える余裕はなかった。ただ進むほか、できることはない。登れば上るほど辺りは眩しく、白くなる。この先に、湖の底があるなど本当だろうか。ラニは歩き続けた。白い階段を、ラニの足から滲んだ血が微かに汚していた。それでもラニは進んだ。

 進むうち、眩しさで目がくらむ。足は、これまでの高さで段差を登り続ける。ところがある時、足が段差を捉え損ねた。その瞬間、辺りが真っ暗になった。

 ラニは息を飲んだ。

 そこは、たえず水の音がする、丸い踊場だった。足元の白だけが明るく、辺りは真っ暗だ。白い踊場を囲んで、円形の水盆が塗りこめたような黒で広がっている。

 ランプをかざすと、水の流れが白く浮かび上がる。伝い落ちてくる水の輪郭が、水盆の周囲はすり鉢状に囲われていることを教えた。水は水盆を常に満たし、絶えず溢れ、流れ落ちる。ここを通った水が、都を潤しているのだ。しばし、沈黙のうちに見つめた。

 ラニは、水盆に飛び石が配されていることに気づいた。黒い石が、ランプの光をはじいてその輪郭だけで存在を主張する。飛び石の向こうには、さらなる階段が続いているようだ。

 暗く湿った道を行くため、ラニは血のにじんだ足に靴を履く。そして、ふたたび歩き始めた。

 ひりひりと痛む足、重たい荷物のような足が、ラニを引き留める。同時に、何も考えなくなった頭が前に進めと訴える。ばらばらになった体のなかで、目が、自分の掲げた橙色のランプを睨んでいた。

 飛び石を渡った先で、すり鉢の斜面に沿って設けられた小さな階段を踏みしめる。滑りそうな足元に注意しながら、ラニは一歩ずつ進んだ。不思議に、あと少しだ、という確信があった。

 そしてその通り、階段の先には、青緑の光が見えた。湖の底に開いた小さな穴である。ラニが穴から顔を出してみると、穴は大きな気泡の中にあった。気泡はまるで、ラニたちが暮らす家のように球状をしていた。

 この気泡の内側に立って、ラニは呆然とした。

 そこは確かに湖の底である。辺りは水の色に覆われていた。水草が揺れ、魚が泳ぐ。空から差し込む光が、水底に複雑な模様を描いて揺れる。

 そんな中、気泡は静かに揺らぎながらラニを待っていた。ここで、ラニの視線はあまり周囲を捉えていない。目の前にある金色の裂け目、そして、瘤のように貼りついた紫の球体に釘付けだ。

 卵の紫色は、思っていたより淡い。菫とミルクを混ぜたようにまろやかな紫。鱗状にも見える差し込みが無数に見える。大きさは、ラニがちょうど抱えられる位だ。手を伸ばせば触れられる場所にある。

 ラニはゆっくり近づいた。卵の手前でランプを足元に置き、一度立ち止まる。ラニはしばらく卵をじっと見つめてから、両手を伸ばした。指先に触れた卵は、滑らかながら少し柔らかく、ざらついてもいた。しっかり抱き寄せれば、自然と腕の中に収まった。しっかりした重みを感じたのは一瞬だ。

 卵は簡単に金色の裂け目を離れた。ラニの腕の中でほどけ、緩やかに形を変えていく。

 ラニは息を飲んでこの羽化を見守った。ほどなく、腕の中に一匹の竜が現れた。大きさは、ちょうど人の一歳児くらい。尻尾まで含めれば、もう少し大きい。体色は菫にミルクをまぜたような淡い紫色で、目だけが澄み渡って濃い。猫のような顔をしている、と一瞬思った。同時に、蛇にも似ていた。小さな角が耳と耳の間にある。全身ふわふわしているようで、手先や足先、そして背中に鱗があった。小さいながら、羽も二対四枚ある。

 竜は瞬きしてラニを見上げた。そして確かに、笑った。

「こえを、きいてくれてありがとう」

 たった一言、竜は言った。

 ラニは、それだけで報われた気がした。

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2025年12月28日 09:00
2026年1月4日 09:00

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