父の本音

 閉まったはずの病室のドアが、きしむ音を立てて開いた。


 顔を上げるより早く、足音がこちらへ近づいてくるのが分かった。


 凛さんだった。


 迷いのない動きで距離を詰め、そのまま振り抜かれた平手が、私の頬に当たった。


 音よりも先に、衝撃が走る。


 一瞬、空調の音だけが耳についた。


 視線だけが私と凛さんの間を行き来していた。


「自分が何を言ったか、分かってるわよね、理名ちゃん」


 その声は低く、抑えられていた。


「貴女、とんでもない勘違いしてるわ。


 隆文さんは、ちゃんと鞠子さん――貴女の母を愛してた。


 もちろん、貴女のこともよ」



 言い切るような口調だった。


「平日の出版社の仕事が終わったら、ホテルのルーム清掃のアルバイトを入れていたのよ。


 それも夜勤」



「……なんで、そんなこと」


 口をついて出た言葉が、自分でも薄っぺらく聞こえた。


 父の帰りが遅かった理由を、私はずっと別のものだと思い込んでいた。


 疲れ切った背中を何度も見てきたのに、そこに疑問を向けようとしなかった。


「貴女が高校に通う学費を賄うためよ」


 その言葉を聞いた瞬間、理解したはずだった。


 けれど、体が動かなかった。


 返事をしようとして開いた口は、何も言えないまま閉じた。



「隆文さん、分かる人にはモテるみたいね。


 言い寄られることもあるし、仕事の一環で、仕方なく関係を持ってしまうこともある」


 胸の奥が、じわじわと痛んだ。


「でもね。


 そういう雰囲気で再婚の話が出たときは、きっぱり断ってる。


『年頃の女の子への接し方』は、そういう場で勉強していたのよ」


 凛さんは、小さなノートを差し出した。


 角が擦り切れているのが、先に目に入る。



 読めば分かる。


 そう頭では思ったのに、手が伸びなかった。


「貴女が、知らなかっただけ。


 先入観が邪魔をして、話なんて聞くまいと意地を張っていただけなのよ」


 反論しようとして、言葉が出なかった。


 否定できる材料が、もうどこにも残っていなかった。



「頭のいい理名ちゃんなら、わかるでしょ?


 次に何をすればいいか」



 凛さんの言葉が胸の奥に沈んでいく。


 深く息を吸い、私はベッドから身を起こした。


 私のための努力をしていたなんて知らずにぶつけてしまった言葉たちが、頭に浮かんでは消えていく。


 病室の外。


 ソファーに並んで座り、肩を寄せるように話している父と深月が見えた。


 私が姿を見せると、二人の会話がふっと途切れ、視線が同時にこちらへ向いた。



「噂をすれば、来ましたよ?


 娘さんが」


「……言い過ぎた。


 ごめん」


「俺も、父親らしくしないで、悪かった」


 父は一度、視線を落とした。


 床の一点を見つめ、何かを探すように。


 それから、覚悟を決めたように顔を上げる。


「母さんみたいには、まだ全然だ。


 それでも……俺の娘でいてくれるか」


「当たり前でしょ」



 声が、思ったよりはっきり出た。


 仕事のしすぎで、私が医者になる前に寿命で死なれても困るから。


 そうならないように、なるべく近くにいられるうちは、いてあげる」


 父の肩から、力が抜けた。


「よし、これで、仲直りだね!


 よかった、よかった!


 また何かあったら、カウンセラーの娘、深月ちゃんが相談に乗りますよ!」


 父は少し困ったように笑った。


「深月ちゃん、理名を頼むよ」


「任せてください!」


 私は父の手にあった菓子折りが入った紙袋をひったくった。


 父の手を握ると、一瞬だけ指が強張り、それから力が返ってきた。


 何も言わなくても、伝わることがあると知った。


 その事実が、静かに胸に残った。



「理名、また病室に戻るのか?」


「駐車場、もうすぐ無料時間終わるんだが」


 そう言いかけて、父は小さく首を振った。


「……いや、いいか。


 たまには、娘のわがままに付き合うよ」



「せっかく、娘が友達を紹介するって言ってるのに。


 数少ない友達だよ?


『家に泊まる』っていうとき、誰だか分からないと困るでしょ」


 病室に入ると、皆がこちらを見ていた。


「あ、お父さんと仲直りできたんだ?」


 皆が、ほっとしたように笑う。


「よかったね」


 その言葉に、私は小さくうなずいた。



「理名さんのお父さんですか?


 初めまして、私、矢榛 椎菜といいます。


 よろしかったら、記憶の片隅にでもとどめておいてくださいね」


 丁寧に頭を下げる椎菜の様子に、父は一瞬戸惑い、それから同じように頭を下げ返した。


「俺は、宝月 麗眞です」


 続いて名乗った麗眞くんは、姿勢を崩さず、淡々と続ける。


「理事長兼芸能人兼、刑事。


 それから、宝月グループ当主である父の息子です」


 父が、ぴくりと肩を揺らした。


 無理もない。


 肩書きの情報量が多すぎる。


「宝月家の名に恥じないよう、娘さんをこんな目に遭わせた犯人には罰を与えたい。


 そう思っています」


 言葉の調子は落ち着いているのに、そこに迷いはなかった。


「今もなお、娘さんに陰で悪口を叩く人間についても同じです。


 全員、狭くて暗い部屋に入ってもらいます」


 一瞬、病室の空気が張りつめた。


「……理名は、俺にとって“守るべき友人”なんですよ」


 その言い方は、宣言に近かった。


「ちなみに」


 椎菜が柔らかく笑って、付け加える。


 その言葉の後を、麗眞くんが継いだ。


「娘さんが『友達の家に泊まる』と言ったときは、


 大抵はうちだと思っていただいて大丈夫です。


 やましいことは、何もありませんから」


「……何だか、よく分からないが、よろしく」


 父はそう言って、軽く頭を下げた。


「理名のお父さん、初めまして。


 美川 華恋よしかわ かれんです。


 娘さんには、いつもお世話になっています」


 両手をそろえて深く頭を下げる華恋を見て、父の表情が少しだけやわらいだ。


「違うって。


 お世話になってるのは、私の方だから」


 そう言ってから、父は私の方を見た。


「理名。


 ちゃんと友達を作って、仲良くやってるんだな。


 それが分かって、安心した」


 私は黙ってうなずいた。


「じゃあ、また来る。


 無理はするな」


 父が病室を出ていく。



 父が帰ったあとも、しばらくその場を動けなかった。


 許した、というより。


 感情が追いついていなかったのだと思う。



 その後、ほんの短い沈黙が落ちた。


 それを破ったのは、深月だった。


「ねえ。


 さっき麗眞くんが言ったこと、少し気になったんだけど」


 皆の視線が、自然と麗眞くんに集まる。


「理名を階段から突き落とした人は、暴行傷害。


 場合によっては、殺人未遂にもなる」


 ここまでは、私にも分かる。


「でも、今も悪口を叩いてる人たちは?


 直接関係ないよね。


 罪には問えないじゃない」


「ん?」


 麗眞くんは、ほんの一瞬だけ考える間を置いた。


「簡単だよ」


 その言葉が、妙に軽かった。


「悪口を叩いてる連中は、全員、金でテストの点数を買ってる。


 受験も裏口だ」


 誰かが、小さく息を呑む音がした。


「ああ……


 だから、一般常識もないのね。


 平気で列に割り込んでくるし」


 華恋が、納得したように言う。


「でも、それをどうやって証明するの?」


 深月の問いに、麗眞くんは静かに答えた。


「“言ったこと”は消せる。


 でも、“言われた事実”は消せない」


 その言い方が、現実的すぎて、背筋が伸びる。


「親父の古い知り合いにな」


 麗眞くんは、ほんの少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。


「盗聴と録音を同時にできる装置を開発して、特許を取った人がいる」


「特許……?」


 私だけじゃない。


 皆、同じところで引っかかっていた。


 ただひとり、椎菜以外は。


「最初は個人で立ち上げた小さな会社だったらしい。


 ただ、技術が特殊すぎてな」


 そこで、ようやく視線がこちらに向く。


「警備関係や内部調査の依頼が増えて、資金も管理も、個人じゃ回らなくなった」


「……それで?」


 深月が続きを促す。


「宝月グループが出資して、会社ごと引き取った。


 今は正式な子会社だ」


 ようやく、線がつながった。


「装置も、特許も、運用権も、全部グループ管理。


 だから、使用は“所有者の管理権限内”になる」


 病室が静まり返る。


「違法じゃないの?」


「違法性を争える立場に、あいつらはいない」


 淡々とした声だった。


「点数の売買、裏口入学にワイロ。


 どれか一つでも記録が残れば、学園の規則で退学だ」


 それだけの話だ、と言わんばかりの口調。


 誰も、言葉を挟めなかった。


「退学になった人間を、進んで受け入れる高校はない。


 社会的にも、もう戻れなくなる」


 それは、脅しでも感情でもなく、ただの“前提条件”として語られていた。


 病室には、機械の電子音だけが残る。


 私は、気づかないうちに、半歩だけ後ろへ下がっていた。


 怖いのは、機械じゃない。


 それを、当然のように使える麗眞くんの価値観だった。


 その瞬間、ようやく理解した。


 ――大切な人を守るためなら、

 金も、コネも、権力も使っていい。


 宿泊オリエンテーションのときに、彼が口にしていた言葉の意味を。


「これでも、麗眞は半ギレの範疇なんだよ?」


 椎菜が、あっさりと言う。


「麗眞が本気でキレたところはね、私でも見たことない」


 私は、さらに一歩距離を取った。


 この人は、本気になれば、何でもやってのける。


 そういう人なのだと、遅ればせながら理解した。


「もうすぐ、面会時間が終わるわ」


 重苦しい沈黙を、凛さんの声が静かに切り裂いた。


「理名ちゃんが心配なのは分かる。


 でも、そろそろ帰りましょうね」


 皆が、それぞれ手を振ったり、また来ると言い残して病室を出ていく。


 最後にドアが閉まったあと、残ったのは静寂だけだった。


 重たい空気が、ゆっくりと床に沈んでいく。


 私はベッドに腰を下ろし、天井を見上げた。


 今日は、知りすぎた。


 父のことも。


 友人のことも。


 そして、自分が立っている世界のことも。


 それでも。


 逃げずに向き合うしかないのだと、そう思えるだけの材料は、もう十分に揃っていた。


 病室には、規則正しい電子音だけが残っていた。

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