他人の恋と、自分の恋
翌朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
いつもと同じ朝食を口に運んだはずなのに、味の記憶は残らず、ただ胃に落ちていった。
いつもの制服に袖を通し、電車に揺られて学校へ向かった。
昇降口で上靴に履き替え、教室の前に立つ。
ドアノブに手をかけた瞬間、中から聞こえてきた声。
教室の前に立った瞬間、笑い声の調子がいつもより半音高いことに気づいた。
「で?
で?
どうだったのよ」
ドアを開けると、椎菜が三人に囲まれていた。
華恋、美冬、深月。
どれも、色恋沙汰の話になると目の色が変わるメンバーだ。
「どう、って言われても……」
困ったように笑う椎菜に、声をかけようとして、違和感に気づいた。
彼女はいつも、ブラウスのボタンを二つは開けている。
それなのに今日は、一番上まできっちり留めている。
「苦しくないの?」
その一言に、椎菜の手が弾かれたように鎖骨へ伸び、指先がブラウスの布を掴んだ。
その仕草が、妙に必死だった。
次の瞬間、美冬と深月が息を合わせたように彼女に近づき、華恋が笑いながら手を伸ばす。
抵抗する間もなく、ボタンが外された。
一瞬、三人の口が開いた。
それから、すぐに意味ありげな笑みに変わる。
「なーんだ」
そう言った深月の口元が、すべてを見抜いた形に歪む。
何の話をしているのか、私はまだ理解できていなかった。
「麗眞くんと、よろしくやってたんじゃない」
「独占欲、強いタイプなのね」
「まぁ、彼の過保護さは皆知ってるけど」
言葉だけが浮かんで、繋がらない。
私だけが一歩外側にいて、会話の輪に触れることすら許されていない気がした。
おはよう、という声とともに、野川ちゃんが眠そうに目を擦りながら教室に入ってきた。
「色恋沙汰に興味ない二人が揃ったところでさ」
華恋が言う。
「そろそろ白状しよっか」
皆の会話も、私には何を話しているのかさっぱり分からなかった。
「麗眞くんと最後までシたんでしょ?
未遂じゃなくて。
ついでに、恋人未満じゃなくて、ちゃんと恋人になったんでしょ?」
華恋が、いつもの調子で核心だけを平然と並べる。
美冬は、椎菜の反応を面白がるように横目で覗き込んだ。
深月は、言葉より先に椎菜の表情の変化をじっと追っていた。
三人の視線が重なったところで、椎菜はゆっくり、でも確かに首を縦に振った。
と、いうことは……
「もう……」
椎菜は慌ててボタンを留めながら、それでも指先の動きが少し緩んでいた。
「目立つところにはつけないでって言ったのに。
麗眞ったら」
口元だけ、隠しきれない笑いが残っている。
噂をすれば、という華恋の声が聞こえた。
振り返ると、教室のドアを静かに開けて麗眞くんが入ってきたところだった。
制服の袖を無造作にまくった背の高いその姿。
それだけで、教室の空気が少し落ち着いた気がした。
椎菜の肩が、ほんの少しだけ緩む。
「おはよ、麗眞」
椎菜の声は、さっきまでより柔らかい。
麗眞くんは彼女に笑い返す。
その笑い方が、他の誰に向けるものとも違うのが分かった。
「ったく、朝から問い詰めるなよな。
ホント、女の子って、他人のそういう事情には食いつくよね」
華恋がすぐに乗る。
「だって気になるもん。
何ラウンドまでいったのか、とか。
椎菜から見た麗眞くんのテクニックとかさ。
見かけによらず激しかったり?」
椎菜は耳まで真っ赤になっていた。
麗眞くんは、華恋たちの下世話な話題を軽くいなしながら、椎菜の方だけには自然に視線を向ける。
その距離の近さが、見ているだけで分かった。
麗眞くんが登校してから10分ほど経った頃。
チャイムが鳴り、担任が入ってきた。
「あれ?
麗眞くんにしては、ギリギリだったね。
いつも8時には来てるのに」
深月の言葉に、そういえば、と時計を見る。
「……相沢が気づかなかったら、危うく遅刻してたわ。
曜日感覚なかった」
気づいたのは、本当は相沢さんじゃなくて椎菜なんじゃ?
わざと時間をずらして来たの?
喉まで出かかった疑問を飲み込んだ。
麗眞くんが椎菜の頭を撫でたのを見届けた。
私は一瞬だけ視線を落としてから、自分の席についた。
ああいう距離の縮め方を、私はまだ知らない。
英語の授業中、黒板を見つめながら、朝の光景が何度も頭に浮かぶ。
宿泊学習のときに聞いた話と、勝手に重なって、想像しようとする。
自分も、拓実くんと――。
そこまで考えて、映像が途切れた。
集中できないまま、チャイムが鳴る。
当てられなかったことに、心底ほっとした。
席を立った瞬間、下腹部の奥を鈍い刃物で押されたみたいな痛みが走った。
一拍遅れて、じわりと熱いものが下に引っぱられていく感覚が広がる。
背中に冷たい汗が滲んだ。
床にうずくまりそうになるのを耐えながら、教室に戻る途中にあるトイレに駆け込む。
そんな私の様子に気付いたらしい椎菜と深月も慌てて私の後を追ってきた。
「朝から思ってたけどさ。
理名、顔色悪いよ?
大丈夫?」
「だいじょうぶ。
朝からお腹痛いだけ」
悪いものは食べていない。
少し薄気味悪かった。
「ね、理名。
腹痛って、もしかして、さ」
何かを勘づいたらしい深月が私の手を引いて強引にトイレの個室に入る。
下着を半ば強制的におろされた。
布地に、見慣れない赤茶色の染みが出来ていた。
教科書では見たことがある単語が、頭の隅をかすめる。
でも、目の前の赤茶色の染みと結びつかない。
なに、これ?
声に出すのも怖くて、喉の奥で言葉が潰れた。
ヤバイ病気だったらどうしよう。
透明な、白っぽい液体が付着していたことは何度かあった。
だけど、これは初めてだ。
「大丈夫、病気じゃないから。
私たちの年代なら、ほぼ全員がね。
ひと月の間に1週間、これと付き合う羽目になってるのよ」
深月はそう言い切って、ブレザーのポケットからポーチを出した。
ポーチの中から個装ラップに包まれたものとショーツを出した。
器用に個装ラップから取り出した何かをショーツにつけて私に寄越す。
「それ履いとけばとりあえず大丈夫だから。
伊藤先生のところに放り込んでおくわよ?
先生には、腹痛ですって言っておくから安心して」
私を、手を引っ張って、地下1階にある保健室のドアをノックした深月。
「伊藤先生。
理名、寝かせてあげてください。
ノートなら任せてよ。
後で届けに行くね」
彼女たちは授業に戻った。
「びっくりしたでしょ?
医者志望でも、これは別問題よね。
いきなり自分の身体に起きると」
言われてみれば、その通りだった。
「貴女は母親を亡くしてるんだものね。
父親しか家にいない状態じゃ、そんな話できないしね……
あの子たちも、よく気づいたわね。
まったく、たいしたもんだわ。
それは貴女も、だけどね?
理名ちゃん」
「わたし、が?」
なぜそこで、私の名前が出てくるのかさっぱり話が見えなかった。
「貴女の、宿泊オリエンテーションでの、椎菜ちゃんへの迅速な対応ね。
担任の先生が感嘆してらしたわ。
普通の人なら、ここまで出来ないしやらないって。
母親の背中を見てきただけあるわね?」
人から、めったに褒められた記憶のない私。
脳内に褒められたらどう返すかなんて分からなかった。
だけど、昨日会った彼を思い浮かべると、素直に口が動いて言葉を発した。
「ありがとうございます」
それを見て、伊藤先生は一瞬だけ目を丸くしてからにっこり微笑んだ。
「何かいいことあったみたいね?
理名ちゃん」
私は、昨日のことを伊藤先生に話した。
「なんかいいわね、理名ちゃんも、椎菜ちゃんも。
青春、って感じ。
私も戻りたいわ」
サラサラな茶髪ロングの髪を耳に掛けながら言う伊藤先生。
「先生なら、この学園の制服着ても違和感ないはずですよ」
喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
正しい年齢は分からないが、40歳代だろう。
その年代の女性にしては、童顔だ。
それでも、胸はそれなりに白衣の上からでも主張しているし、髪を耳にかけたときの仕草からも、色気を感じる。
彼女の周囲の男が放っておかないだろう。
そんなことを、考えたからなのか。
体調がまだ万全じゃないことだけを伝えて、白いシーツに身体を沈めた。
消毒液の匂いと、さっきまでの教室の騒がしさが、別世界のことみたいに遠のいていく。
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