プラネッタ
もんごん
プラネッタ
体が動かない。
体が動かない。
どうしても動かせない。
動かせない…
ふと見ると、目の前に一人の少女が立っていた。
身長二十センチほどの小さな少女で、身体には白いワンピースのようなものをまとっていた。
その髪は白くて短く、ちょうど芍薬の花を逆さにしたような形をしていた。
少女は私の顔を興味深そうに覗き込んでいた。
しゃがんだ姿勢で手を両ひざの上に揃え、首を傾けながらこちらを見ていた。
なんて可愛らしいんだろう。
私はそう思った。
「そろそろかな、と思って」
少女はそう言った。
そろそろ?
そろそろっていったい何のことだろう。
私は返事をしようとしたが、声がどうしても出なかった。
「心で思えばいいんだよ」
少女がそう言った。
彼女の口元は、動いていなかった。
「そろそろって、いったい何のこと?」
私は言われた通り、心の中でそう尋ねた。
「私がこれから死ぬってこと?」
私はそれをずっと恐れていた。
「あなたはそれを伝えるために、ここへやって来たの?」
「そうじゃないよ」
少女は困ったような顔をした。
少女は立ち上がり、両手を広げてみせた。
「君はね。これからボクと結婚するんだよ」
「君はね。これからボクと結婚するんだよ」
少女はそう繰り返した。
「結婚して、ボクとひとつになるんだ。始めにずっと、そうであったようにね」
それを聞いて、私は悲しくなった。
「じゃあやっぱり私は、もう一人のままではいられないんだね…」
私がそう言うと、少女は不思議そうな顔をした。
「でも君は、これまで長い間、ずっと一人を味わってきたんじゃないのかい?
君がそのせいで寂しくて泣いてるのを、ボクはずっと見ていたんだよ。
だけどそれももう終わるんだ。
これからは、ボクがそばにいるからね」
少女は両手を差し伸べた。
「さあ!帰っておいで!」
少女の背景が滲んだ。
風が音を立てて、耳元をかすめていく。
私は空を飛んでいた。
少女が私の両手をつかんで引っ張っていた。
少女は楽しそうに笑い、速度を更に上げて飛び続けた。
雲を突き抜け、海に落ち、そしてまた海上へと飛び出していく。
かと思うと気まぐれに急降下し、先ほど作った海面の泡の周りを踊るように回転する。
私も少女にリードされ、泡の周りをくるくると回った。
くるくる、くるくる。
くるくる、くるくる。
少女の背後で、空と雲とが点滅するように交互に現れた。
背後で青と白の色彩を高速でシャッフルさせながら、少女はこの上なく楽しそうに笑った。
気がつくと、辺りは夜になっていた。
私たちは月が映った水面の上を、スケートするように滑っていた。
黒のじゅうたんに映った金の月が、私達のつま先ではらはらと崩れていった。
水面が静まると、今度はその面に、月の代わりに真っ白な雪原が浮かび上がってきた。
なんて光景だろう。
私は雪の白さに目を奪われた。
私は思わず新雪の中に飛び込み、意味もなく手足をバタバタと動かした。
一度でいいからこんなことをしてみたいと思っていた。
それは子供の頃からの夢だった。
叶う時が来るなんて、思っていなかった。
でもなぜか今、叶ってしまった。
私は少女と、雪の中をめちゃめちゃに暴れまわった。
雪まみれになって二人で見つめ合い、大声で叫んで、笑った。
気がつくと、私は花弁の上に座り、花束のような春の丘を見つめていた。
少女に呼ばれて立ち上がると、突然、花の中央にある窪みの中に突き落された。
花の中には蜜溜まりがあり、私はそこにぐっしゃりと浸かってしまった。
全身が甘い匂いに包まれた。
私は笑いながら、上から覗き込んでいる少女に文句を言った。
少女は楽しそうに私を見下ろして笑っていた。
一瞬まばたきをすると、私は交錯する光の中に立っていた。
無数の緑の光が、暗闇の中をごちゃごちゃに飛び交っていた。
それは、ホタルの大群だった。
なんという数だろう。
あまりの多さに、圧倒される。
いったいここは、どこなんだろう。
本当にこんな場所が、地球上に存在するのだろうか。
見上げているうちに、ホタルたちの背後、その遥か彼方の世界にも、瞬く光の集まりがあるのが見えた。
星空だ。
ああ。
満点の星空だ。
天の川が、はっきりと見える。
こんな光景を、ずっとずっと見たかったのに。
私はこれまで、一度もこれを見られなかった。
幾つも幾つも、流れ星が流れ落ちていく。
両手を広げても、隠しきれない。
隠そうとしても、指の隙間から零れ出ていってしまう。
全部、私のだ。
全部、全部、私のだ。
私はその後、少女と並んで木の枝に腰掛け、アオサギの巣を眺めた。
時折アオサギの親が、子どもたちに食べ物を運んで来る。
私は給餌の際の、親鳥のくちばしの繊細な動きに目を引かれた。
鳥であっても、やはり親の愛のようなものはあるらしい。
「ああ…。私もこんなこと、したかったなあ」
私はそう呟いて、ため息をついた。
給餌の度にアオサギの夫婦は交互に入れ替わり、空いた方は、次の餌を探しに飛び立って行った。
絆を感じさせる、呼吸の合った動きだった。
「ああ…。かっこいいなあ…」
私は涙ぐんだ。
私も結婚したかった。
私も子供が欲しかった。
誰かを愛したかった。
愛されたかった。
もっと人の役に、立ちたかった。
独りで生きる人生は、つまらない。
「ごらんよ」
少女がアオサギの巣の中を指さした。
一羽の小さなヒナが、他のヒナにつつかれていた。
つつかれる度に、大きなヒナのくちばしが、小さなヒナの頭に突き刺さっていた。
「あ、ひどい」
一見致命傷に思えた一撃だったが、小さなヒナは、それでもまだ生きていた。
それはいじめというより、捕食を思わせる動きだった。
そばにいる親鳥も、困ったように見下ろしているだけだった。
時間はその後も、飛ぶように過ぎていった。
小さなヒナは、やがてやせ衰えて巣から落ちていった。
小さなヒナは、死んだ。
ヒナの死骸のまわりに、何処からともなくカラスの群れが集まってきた。
カラスたちはヒナの肉を奪い合い、細かく引きちぎっていった。
うまく肉で喉袋を満たせた者から、順次飛び去って行く。
夜になると、今度はイタチがやってきて、残った大きな塊を持ち去っていった。
後に残された細かな残骸には、たくさんの虫たちがたかった。
残骸に何度も卵が産み付けられ、幼虫が育ち、成虫が羽化していった。
その後、雨がそこへ繰り返し降り注ぎ、残骸の硬い部位を削り落としていった。
そうして、わずかに残った骨も、やがて落ち葉に紛れて見えなくなった。
「いなくなっちゃったの?」
私は少女に尋ねた。
「何が?」
少女は不思議そうに聞き返した。
その両腕には、先ほどのイタチが抱かれていた。
「生きてるよ!」
少女はイタチを、私にも抱かせてくれた。
「かわいい…」
私は涙を流した。
我が子をこんな風に腕に抱くのが、夢だった。
「私も…これから死ぬんだね」
私は少女を見つめて言った。
心の中で、何かが壊れていた。
「死なないって」
少女は困ったように笑った。
「死んで、あなたの一部になるんだね」
「結婚するんだよ」
力なく座っていた私を、少女は抱きしめた。
「もう、一人じゃないんだよ」
少女は、私の頭を優しく撫でた。
「あなたを、愛してる」
少女がささやいた。
私はすすり泣いた。
「帰っておいで」
心が赤ん坊のようになっていく。
涙で視界が揺れ始めた。
揺らめきが、次第に大きくなっていく。
柔らかな白…
甘く、優しい香り…
支えを失ったイタチが、地面へと飛び降りた。
アオサギのヒナたちが育ちきり、巣の外へと飛び出していった。
日が昇り、花が枯れ、雪が解けて、泡が弾けた。
時はその後も、ゆっくりと流れ続けていった。
一定のリズムを保ちながら…
とあるアパートの一室に、時計の秒針の音が静かに響いていた。
部屋には他に音はなく、動きもなかった。
部屋の隅には、一人の男の死骸があった。
それは汚れた布団の上で、生前の姿のまま、苦しそうに背を曲げた姿勢で横たわっていた。
時は更に流れ続け、鳴っていた時計の音も次第に弱まっていった。
男の体は徐々に崩れていき、やがて溶けた。
プラネッタ もんごん @mon5
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