家族と始める異世界の暮らし
翠川
第1章 アロヴィナでの日常
第1話 森の中に立つ家族、はじまりの日
風が頬を撫でた。
木々がざわめく音と、湿った土の匂い。
目を開けた。見慣れた自室の天井を見た――はずが、そこには空があった。
「……どういうこと?」
地面は落ち葉でふかふかしていて、ひんやりとした空気が肌を包む。
さっきまで家にいたはずなのに、気がつけばここだ。
「……森?」
体を起こそうとした瞬間、はっきりとした違和感があった。
「……なんだか、体が軽い。いつもより動きやすい気がする」
膝を立てると、関節がすっと動く。
まるで日頃の疲れが全部抜けたみたいだ。
状況は分からない。――でも、まずは。
「みんな……?」
目を凝らすと、少し離れた場所に夫と娘、息子の姿が見えた。
胸が締めつけられて、思わず走り寄る。
息も切れず、膝も痛まない――そのことに戸惑いながら、夫のもとへ。
「ユタカ!」
私はユタカの肩を揺さぶった。
「……ん。……え? ここ……森?」
ユタカの目がはっと開き、私の顔を見る。
「私も分からない。でも、まずはみんなの無事を確かめよう」
「……ああ、そうだな。落ち着こう」
ユタカが落ち着きを取り戻すのを見て、私も呼吸を整える。
すぐにその数歩奥に見える娘に声をかける。
「サナ、大丈夫?」
サナのそばへかがむと、まぶたを震わせてゆっくりと目を開けた。
「お母さん……? あれ、外……?」
「そうみたい。大丈夫? 怪我はない?」
「うん、大丈夫。なんか……寝起きなのに、体がすっとする」
「それ、私も感じた。後でみんなで確かめようね」
サナは「うん」と頷き、自分の腕を動かして感触を確かめていた。
サナの横でユタカが息子の様子を確認していた。
私が立ち上がる物音に反応して、リュウトが小さく目を開けた。
「……ママ?」
「そうよ。大丈夫、みんな一緒」
手を握ると、リュウトはぎゅっと握り返す。
その温かさに、私のほうが安心してしまった。
「どこだか分からないけど……とりあえず全員無事。そこが一番大事だね」
私は家族にそう言って、ゆっくりと息を吐いた。
◆ サナの“おかしな治り方”
「ちょっと周りを確認してみようよ」とサナが立ち上がったときだった。
足元の枝に軽くつまずき、手をついた拍子に指を少し切った。
「あっ……いった」
「大丈夫? 見せて」
「うん、たいしたことないよ。でも……」
サナは自分の傷を見つめたまま、ふっと眉を寄せた。
「なんか……変な感じがする。説明できないけど」
「変な……?」
「うん。こう、治れって意識すれば……いける気がする」
サナの表情は不安よりも好奇心をのぞかせている。
「無茶しない範囲なら、試してみてもいいよ。何かおかしいと思ったらすぐやめてね」
「うん。じゃあ……」
サナは静かに指先を見つめ、息を整える。
「ヒール」
その瞬間、指先に淡い光がふっと浮かんだ。
光は一瞬で消えた。
でも、さっきまで切れていたはずの指は、跡形もなく塞がっていた。
「わぁ……治ってる」
サナが思わず声を漏らす。
「本当に……? さっき血が出てたよね?」
「出てた。間違いなく。でも、気づいたらなくなってる……」
サナは自分の手を何度もひっくり返して見つめる。
「ゲームで言うと“回復魔法”っぽい。唱えた言葉が『ヒール』でも通じたし。でも、本物だと実感がすごいね」
「わぁ……」とリュウトが目を丸くした。
「驚いたね……」私は息を吐いた。
「これは……覚えておこう」ユタカも頷いた。
サナは少し真顔になった。
「今は小さな傷だから治せたと思う。大きな怪我でも治せるって決めつけると、変なところで取り返しがつかなくなりそうだ」
私はサナの指先にそっと触れ、無事を確かめた。
「痛くない?」
「うん、大丈夫……ちょっとワクワクしてきたかも」
サナが小さく笑うと、ユタカも驚きながら、ほっとしたように表情をゆるめた。
「本当に不思議なことばかりだな」
◆ リュウトの“出てしまったもの”
――ドォン。
森の奥から、地鳴りのような低い音が響いた。
「なに、今の……?」
木々の隙間からのぞいたその影に、私は足を止めた。
低い唸りのような余韻が残る。鉄の塊がそこに“いる”。
——理解が追いついた瞬間、背中が冷たくなった。
「……戦車?」
現代でも滅多に見ない本物の戦車が、なぜか森の中に存在している。
「みんな、下がって!」
私は咄嗟にリュウトとサナを背中にかばい、ユタカも無言で私たちの前に出る。
「ママ……ごめん……」
リュウトが手を強く握りしめ、泣きそうな顔で見上げてきた。
「怖くて……“強そうなの出てきて”って思ったら、急にあれが……」
「……そっか」
喉が渇く。それでも私はしゃがみ込み、リュウトの視線の高さに合わせた。
「驚いたよね。でも大丈夫。誰も怪我してない。あなたを責めたりしないよ」
私はリュウトを抱き寄せ、背中をゆっくり撫でた。
——こんなものを、こんな簡単に出せてしまう。
誰かに見られたら怪物扱いされるかもしれない。使い方ひとつで、人を傷つける道具にもなる。
便利さより先に、その怖さが胸に刺さった。
「……これ、消せるかな」
「消えて……って思えば、消えるかも……」
「じゃあ、一緒にやってみよう。大丈夫。ママがそばにいるから」
リュウトは小さく頷き、戦車を見て目を閉じた。
「……なくなれ」
リュウトがそう念じた瞬間、戦車は霧のように溶けて消えた。
「……本当に、なくなった」
ユタカが息を飲む。
サナも唇を噛んで、消えた場所を見つめていた。
「……思ったことが、形になってる……そんな感じ」
「まだ断定はできないけど、不思議な力が働いてるのは確かだね」
「分からないことだらけ。でも――」
私は全員の顔を見渡した。
「勝手に試さない。一人で抱えない。怖いときは、まず伝える。……今は、それだけ決めよう」
リュウトはまだ不安そうだったが、私の手を強く握り返してきた。
「……じゃあ、まず休める場所を作ろう。家のイメージが、勝手に浮かんでくる。試してみたい」
「うん。みんなで見てる。危ないと思ったら止めよう」
リュウトの手を握り返し、私は顔を上げた。
ユタカが周囲を見回して、そっと手を前に出した。
◆ 森の中に現れた“家”
その瞬間、ユタカの視線が空中の一点に吸い寄せられるように止まった。
ユタカが小さな声で読み上げた。
「『拠点の出力方法を選択してください』……」
「『① 家をそのまま展開する』」
「『② 簡易テント+玄関ドア(推奨)』」
「『③ 玄関ドアのみ』」
私の目には何も見えない。けれど、その声だけが、そこに“何か”があると教えてくれた。
「それ、どこに出てるの?」
ユタカは一瞬、言葉を失ってから、こちらを見た。
「……見えてないのか?目の前に半透明の画面が出たんだ」
「あなたにしか見えないみたいね……」
森のど真ん中で、いきなり日本の一軒家を丸ごと出すのは、さすがに目立ちすぎる気がする。
同じことを考えたらしく、眉をひそめて言った。
「……じゃあ、『簡易テント+玄関ドア』ってやつ……試すぞ」
ユタカが何もない空中を指先でなぞると、足元に手のひらサイズのリングがころんと転がり出た。
金属とも石ともつかない、不思議な光沢の輪だ。
ユタカは手のひらで転がして、眉をひそめた。
「……ひんやりするな。妙に重いし……なんか変だ。内側が脈打ってるみたいな……気のせいか? ……これを地面に置けばいいのかな」
ユタカはそう言って、少し開けた地面の上にそっとリングを置いた。
「ちょ、ちょっとユタカ、待って――」
次の瞬間、輪の縁が淡く光り、じわり、と地面に影を広げていく。
思わず一歩下がった私の目の前で、その影がふくらみ、布のような何かが、内側から押し上げられるみたいに立ち上がった。
ほんの瞬き2つ分のあいだに、そこには見慣れない形のテントが、一張りぶん、きれいに立っていた。
布のように見えるのに、指先でつつくと、少しだけゴムともビニールとも違う、不思議な弾力が返ってくる。
よく見れば、入口の留め具や縁取りには細かい金具や模様が入っていて、アウトドア専門店で「最新式の高級テントです」と言われたら、うっかり信じてしまいそうな作りだ。
手のひらサイズのリングは、テントの入り口にくくられていた。
「……すごいね、これ」
サナが小さくつぶやく。
たしかに、見慣れない形ではあるけれど、「どこかのメーカーの新製品です」と言われればありえなくもない、という程度には、ちゃんと“テント”の顔をしている。
「中、見てみようか」
入口の幕をめくる。
恐る恐るついていくと、その先には――テントの見た目からは想像できないくらい、広々とした空間が広がっていた。
ただの空き部屋、という感じの簡素な室内で、床は平らで、思わず靴を脱ぎたくなった。
そして、そのいちばん奥の壁に、日本で暮らしていた家の玄関ドアが、そのまま切り取られたみたいに、ぽつんと立っていた。
「……玄関だ」
思わず、声が漏れた。
見慣れたドアノブ。表札の跡。ここだけが、まるごと私たちの“前の生活”から持ってこられたみたいだ。
「さっきの選択肢、たぶん……」
ユタカが、少し考え込むように言う。
「このテントと玄関をセットで出すか、玄関だけをどこかの壁に出すか、家を丸ごと出すか……っていう、出し方の違いなんだと思う」
「ってことは、今後も家を出すたびに、その三つから選べるってことね」
森の奥で一軒家を丸出しにするのは論外だし、街の宿の一室にいきなり家が生えたらそれこそ大騒ぎだ。
――野外ではテント+玄関、街中では玄関だけ。状況に合わせて“見せ方”を変えられるなら、これほど助かることはない。
私は改めてテントの外を振り返り、森の木々と、テントの輪郭とを見比べた。
何が起きているのか、どこまでが現実でどこからが夢なのかは分からないけれど、とりあえず今は、この不思議なテントと玄関に、しがみつくしかなさそうだ。
◆ マイホームの“守り”
私は玄関に近づき、ドアノブを回した。
――すっと開いた。
中はいつものリビング。家具も生活感もそのまま。
「サナもリュウトも、入ってみて」
ふたりも問題なく入った。
「よかった……本当にうちの家だね」
「落ち着く……ママの匂いする」
「それは喜んでいいのかな?」
私は笑いながらリュウトの頭を撫でた。
ふと見ると、ユタカは扉を開けたまま、外へ押すように手を当てていた。
「……何か弾力があるというか、手応えがある」
「弾力?」
「うん。薄い壁みたいな。これは……入れる人と入れない人を分けてる感じがするな」
じっと聞いていたサナが言う。
「ゲームでいう"結界"みたいな?」
「サナはゲームに例えるのが説明しやすいのね。けど確かにその表現は分かりやすいかも」
私も外に向けて、軽く押してみた。
すると、確かに“柔らかい抵抗”があった。
「これなら……この家ごと、私たちの安全が守られそうだね」
「俺もそう思う。ひとまず、ここが拠点になりそうだ」
「安心した。ほんとにありがとう」
私はユタカの手をそっと握った。
けれど同時に、胸のどこかで小さな引っかかりも覚える。
外の人を中に招き入れようとしたとき、この“見えない壁”がどう働くのか。
守られている安心感と同じくらい、この先を考えると不安がこみあげた。
◆ ユタカの“器用な四属性”
「……ねえ。せっかくだし、ほかにも何かできないか、ちょっとだけ試してみようか」
家の中で一息ついてから、私はそう提案した。
「ほかにも?」
「サナは回復みたいなのが使えたし、リュウトは“考えた物”を出せちゃったでしょ。
あなたは家を出せたけど、他にも何かありそうな気がするんだよね」
「うーん……さっき家を出したときの感じなら、まだ手の中に残ってる気はするけど」
ユタカは少し考えてから、玄関先まで戻った。
「じゃああなたから。中で派手に失敗されても困るから、外でお願いね」
「派手に失敗ってなんだよ」
苦笑しつつ、ユタカはテント前の開けた場所に立った。
「じゃあ……水、かな。ここにちょっと来てくれ、みたいな感じで」
そう言って、片手を前に出した。
空気が、ほんの少しだけひやりとする。
次の瞬間、ユタカの手のひらに小さな水の玉がふわりと浮かんだ。
「……おお?」
ぽとりと落ちて、土を濡らす。
「やっぱり!まだ何かありそうな感覚は当たってた」
「いや、まだ何かできそうだな……」
今度は反対の手を見つめる。
「火……は、あんまり大きく出したくないな。ちょっとだけ」
指先に意識を集中させると、そこがじんわり熱を帯び、
ごく小さな火花が、ぱち、と弾けた。
「はいストップ。それ以上はやめとこ」
「うん、俺も火は怖い」
ユタカはすぐに手を引っ込めた。
「風は?」
サナが、興味津々といった顔で聞く。
「やってみる」
軽く手を振ると、私たちの髪がふわりと揺れた。
森の風とは違う、向きのそろった小さな一吹き。
「土は……」
足元を見つめて、そっと踏みしめる。
地面がほんの数センチ、小さく盛り上がった。
「……なんか、いろいろ反応してない?」
私はユタカの手と足元を見比べた。
「火も水も風も土も、“少しなら”動かせる感じがする。
どれかひとつじゃなくて、全部」
「RPGでいうと、“器用な四属性持ち”みたいなやつだね」
サナがぽつりとつぶやく。
「お母さん、分かる?」
「ギリギリ分かるかな……」
私は苦笑した。
「でも、四つとも触れるってことは、そのぶん失敗したときの被害も大きくなりそう。
便利そうだけど、今はまだ“できる”って分かっただけで止めとこ」
「賛成」
ユタカは素直に頷いた。
「今のところは、家を出すので精一杯だ。それだけでも十分すぎるくらいだよ」
「じゃあ、“お父さんは火・水・風・土をちょっといじれるらしい”ってことだけ、頭の端にメモしとく」
サナがそう言って、指でこめかみをとんとんと叩く。
「詳しい練習は、落ち着いてから」
「それがいいね」
私は頷きながら、家族の顔を順に見た。
本当は、私や子どもたちも順番に確かめたほうがいい。――でも今は、情報が多すぎる。怖さも、まだ胸の中に残っている。
「次は私たちも試そう。……でも、それは落ち着いてから。今日は“分かったこと”だけ覚えておこう」
私は、ユタカの横顔をもう一度見た。
さっき家を出したときと同じ、ちょっと戸惑った表情。
でも、その奥には、家族を守ろうとしている覚悟も見える。
(この人の“器用な四属性”も、ちゃんと使い方を考えないと)
そう胸に決めて、私たちはまた家の中に戻った。
次の更新予定
2025年12月21日 18:00
家族と始める異世界の暮らし 翠川 @RMidKa
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