境界線の手前で

さとさん

境界線の手前で

人生は絶対評価であるべきだ。

誰かが言っていた言葉だ。誰かは知らない。


曰く、SNSで幸福な人を見ると、自分の人生がちっぽけに見えてしまう。

曰く、他人と比べることなく、自分の幸せを追求すべきだと。


ごもっともな講釈で頭が下がる。

けれども僕の胸の奥はちっとも軽くならない。


僕は深くため息を吐いた。

吐いた息が白い湯気になって宙に溶けるのを見て、まるで魂まで一緒に抜けていくような気がした。

そう思わないとやっていられないほどに、僕の精神は沈んでいた。


何が怖いって、理由がないことが一番怖い。

ただ何となく落ち込んでいて、ただ何となく――“死”という選択肢が背中に張りついている。


人生は絶対評価である。

僕がその言葉を嫌う理由は、他人ではなく、僕の精神そのものにあった。


僕は幸せであるべきだ。


仕事はきっと楽な方だ。

中学・高校に通う延長線のように職場へ行き、決して楽しいわけじゃないけれど、不登校になるほどのストレスでもない。


お金もある方だ。

借金はない。奨学金も返し終えた。

貯金もある。熱中できる趣味に半年分の給料を捧げても、生活が傾かない程度には。


人間関係も良好だ。

上司は理不尽じゃない。同僚とは食事に行く。後輩とも普通に話せる。

両親とも、たまに実家に帰る程度の、普通の距離だ。


客観的に見れば、僕は幸せであるべきだと思った。

SNSに流れる不幸な人たちと比べるまでもない。

身近な友人と比べても、僕の人生はイージーモードだった。


愚痴るほどのストレスはなく、残業もない。時間は余っている。

友人と飲みに行けば、僕はだいたい聞き役に回る。話題がないのだから仕方ない。


だけど不幸なはずの友人が、趣味について語るとき。

その横顔は、間違いなく僕より幸福そうだった。


僕より不幸なはずの彼が、僕より幸福なのだ。


人生は絶対評価であるべきだ。

僕はこの言葉が嫌いだ。


だって――


「嫌だ……。嫌だっ……。つらい、つらい。あぁ、楽になりたい……」


僕を蝕む死への誘惑は、絶対評価では踏み出してしまいそうだった。

相対評価で――自分が幸福であるべきだと納得させなければ、僕は僕自身の不幸を受け止められなかった。


人生は相対評価だ。そうであるべきだ。

だから僕は幸福と感じるべきで、死んでしまうのは勿体ない。


だけど――。


死と倫理の境界線。

それは現代で言えば点字ブロックのような形をしているらしい。


足の裏に感じる凹凸。

もし、これを踏み越えて歩みを進めれば――。


だけどそれは、生存本能という倫理に反していて。


!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!?


その瞬間、天使が舞い降りた。

理解ができなかった。きっとできるものでもないのだろう。


僕の眼前、脳裏、精神に、一人の女性が現れた。


「死んでしまうなんて勿体ないよ」


語りかける何者か。

当然、それが実在しないことを常識が理解させてくる。

それでも、声は確かに“僕へ”向けられていた。


「さぁ、楽しもう。人生を。この世は劇的で悲劇的かもしれないけれど、短絡的に――なんだろう?」


どこかの主人公の決め台詞みたいな、語感のいい言葉。

ただし素人の口から出てきたそれは、綺麗に聞こえるくせに意味が薄く、支離滅裂だった。


僕は彼女を分析した。

きっと彼女は、僕の精神が脊髄反射で言葉を選んでいるのだろう。

小説家の才能などない僕が、思いついたままを音声にしたところで、まともな会話になるはずがない。


聞き覚えのある声色。

だけどそれは、特定の誰かの声ではない。


何となく心地よくて、理想的で、偶像じみている。

クラスで三番目に可愛いと評されるのに、決して学校には一人として存在しない、そんな都合のいい存在。


「さぁ、帰ったら何をする? お酒を飲む? 久しぶりにゲームする? 映画でも観てみる?善は急げ、さぁやろう!!」


周囲にその声が聞こえるはずがないことは分かっていた。

それでも、彼女は話しかける。僕も答えを返す。


精神に異常が来た。

理解するのに時間は要らなかった。

だけど――。


(今日はゲームでもしようかな。明日は休みだし、お酒を飲みながら久しぶりに徹夜して)

「いいね、乗った。うんっっと遊ぼうよ」

「……」


会話が成立してしまった。


妄想。現実逃避。イマジナリーフレンド。

どう呼んでも、全うな人間ではないことは確かだろう。


電車の中、僕はそれでも無限に話しかけてくる彼女と会話を続けた。

最初こそ周囲に異常性がバレる気がして恥ずかしかった。

けれど次第に、そんなはずはないと理解し、恥ずかしさの方が消えていった。


電車を降りる頃には、それは僕の日常の一部として馴染んでいた。


「それじゃあ行こうか」

「うん」


僕は小さく頷く。

その光景に誰かがちらりとこちらを見る。けれど、別段話しかけてくることはない。


久しぶりに、こんなに長く会話をした。

自分という理想的な話し相手。

脳が活性化している気がする。萎縮していた脳裏が皺を伸ばし、血流が巡っていくみたいに。


気づくと、死にたいという衝動は消えていた。

いや、上書きされたと言ったほうが正しい。


死を考える暇がないほどに、脳裏の彼女が話しかけている。

そういう意味では――僕は、暇だから死にたいと考えていたのかもしれない。




彼女が僕の脳裏に住み着いて、数日が経過した。


「朝ごはん何にしようか?

その前にお風呂に入らないと。昨日入らず寝ちゃったでしょ?」

(……)


脳内会議のわりに、彼女の口数が増えてきた気がする。

いや、僕のイマジナリーフレンドなんだから、僕が悪いんだけども。


(君はおかんか! 言われなくても先に入るよ)

「そんな言い方しなくてもいいじゃん」


拗ねる姿は見えないのに、拗ねた空気だけが脳裏に残る。



その日の晩、友人と久しぶりに飲みに行った。

いつものように友人の愚痴を聞きつつ酒を飲む。――そのつもりだったのだが。


(颯太、これ気になる。明太だし巻きDX。デラックスってのが絶妙に)

「次、これ頼もうかな。明太だし巻きDX。いい?」

「お前が食べ切るならいいけど……お前ってそんなチャレンジするタイプだったか?」


店員を呼び、注文と追加の酒を頼む。

確かに言われてみると、僕は保守的な人間だった。新しいメニューより食べ馴染んだものを選ぶタイプだ。

今日だって、彼女が言わなければ“DX”なんて頼まなかっただろう。


「それに、ふとしたとき笑うことが増えた」

「えっ、なにそれ、こわ。あと君が言うとキモい」

「いやマジで。お前、いきなりクスって笑ってるんだよ。今の“だし巻き明太DX”のときも」


確かに、頬が緩んだ感覚はあった。

でもそれがバレるほどだとは思わなかった。


「まあ笑顔が増えたのはいいことなんだろうけど」

「なんか含みがある言い方だね」

「だって、お前、前から危ういところあったし……」


友人は少しだけ声を落とす。


「お前さ。知られてないと思うけど、中学のとき先生に念押しされてたからな。アンケートに“自殺を考えたことがある”って書いたって」

「あぁ……」


思い出した。痛々しい黒歴史。

確か、いじめに関するアンケートだった。

自殺を考えたことがあるか、ないか。そんな問い。


その頃の僕は厨二病(中学二年生だったけど)で、死を匂わせるのはカッコいいと思っていた節がある。


「ごめん、それは勘違いだよ。好きだったアニメが最終回迎えてセンチメンタルになってただけ」

「……そっか。今はもう大丈夫なのか?」


妙に神妙な顔をする良き友人。


「絶賛いま、この話題のせいで死にたくなってる」

(そんなこと言わないの! 死ぬとかすぐカッコつけて)


彼女の不満が脳裏に弾ける。

その気配が可笑しくて、口元が緩んだ。


「なんにしても元気になったならよかった」

「そう? そうでもないけど」


だけど自覚はいくつかあった。彼女の存在だ。

抱え込まず吐き出せること。やる気がないときに、やる気の出る言葉が出てくること。

大人になってからは珍しい、叱ってくれる存在がいること。


きっと僕は、彼女がいないと生きていけないのだと思う――。


帰り道。友人を駅まで送る。

仕事の不満でヤケ酒気味の友人に肩を貸しながら歩いた。


「それじゃあ、また」

(もう遅いけど明日の仕事大丈夫?)

(大丈夫だよ―――。)


僕は、ぽつりと名前を口に出しそうになった。

けれど寸前でやめた。


脳裏に感じる彼女の暖かみと反するように、心臓の奥が冷え込む。

これ以上踏み込んではいけない。倫理が、道徳が――。

依存しすぎることを、どこかで否定されている気がした。



彼女との生活を送って、さらに数日が経過した。


「それじゃあ、今から掃除するね」

(さぁ、頑張れ頑張れ! えらいえらい!)


この頃は、自分から話を振ることが増えた気がする。

そして自分でも少し明るくなったような気がしてきた。


他人の目があるときはともかく、自宅では声に出して会話をする。

脳裏に住み着いていると理解しているからか、声に出した方が会話が“成立”する気がした。


洗濯を終え、部屋を片付ける。

身だしなみや掃除にも気力が湧く。

人並みの生活を送れているのではないか、とふと思う。


(今日は何をやろうか?)

「とりあえず行ったことのないところに行きたい」

(この前テレビでやってたラーメン屋はどう?)

「いいね。さっそく行ってみよう」


そういうと支度を始める。


人生が好転している――そんな気がする。

今さら彼女のいない無気力な毎日に戻れる気がしない。

戻ってしまったら、今度こそ“殺されてしまう”。そんな気がする。


彼女は僕にとって魔除けだった。

背後をつけ狙う“死”という感覚を、彼女が追い払っている。


だけど、感じるのだ。

たまに彼女が“出てこない”ときがある。

そのとき確かに、死が近づいている気がする。


だから無理やり話題を振り、彼女を引きずり出そうと足掻く。

今のところは成功している。

でも、いつか。もしかしたら――。


「君はさぁ……一体何者なんだ?」


曖昧に尋ねる。

意味があるとは思えない。それでも、口が動いた。


(何者だと思う?)

「何者なんだろうね」


無意味な会話だ。分かっている。

僕が作り出した存在なのだ。僕が知っている範囲の返答しかできない。


(もし宇宙人で、君の脳裏に寄生してますって言ったら信じてくれる?)

「もしそうなら……少しは救いがあるかもしれない」


寄生しているのなら、少なくとも僕が死ぬまでは意味がある。

ある日突然、シャボン玉のように割れて消えることはないのだろう。

もし彼女が幻覚なら、夢から覚めるように消えてしまう可能性は十分にある。


だから、もし害する存在だったとしても――寄生していてくれた方が、まだいい。

もし僕を殺すというのなら、拒めない。

そう思ってしまう自分が怖い。


ただ願うのなら、終末宿主みたいに。

この体が朽ち果てるまで、共存できればいいのに。


(そんなに気になるなら……その板で調べてみたら?)

「……」


彼女の声は、試すようだった。

当然だ。症状を調べれば何かしらヒットするだろう。

精神科にかかって洗いざらい話してしまえば、もっと早い。


だけど――。


「きっと真実は、僕を救ってくれないと思うんだ」


それが僕の結論だった。

もし薬で彼女と死への恐怖が緩和されるとして――僕は耐えられるだろうか。

彼女のいない生活を。


大層な話ではない。

ただ今の僕は、彼女がいない生活に戻れる気がしなかった。


チクリ、と胸の奥が痛む。

そして心臓の奥が冷え込む。


倫理の壁。デコボコの線。

それを踏み越えたような気がして。


僕は――彼女に恋をしていた。

脳裏に住み着く彼女の存在に。


ナルシスト、自己愛者。

言い方はいくらでもある。きっと良くないことだ。


その証拠に鼓動が速くなる。辞めろ、辞めろ、と本能が叫んでいるようで――。


(そこまでしなくてもいいよ)

「……」


それが彼女の本心なのか、僕の思考が言わせたのかは分からない。

だけどその一言で、僕はこれ以上踏み出すのをやめた。


(それよりラーメン食べよう。ニンニクマシマシアブラカタメなんちゃら)

「今日食べるのはそういうのじゃない」


僕の独り言に、周囲がちらりとこちらを見る。

恥ずかしさを拭うように到着した電車に駆け乗り、できるだけ奥へ奥へと入り込んだ。




目が覚めた。


シャワーの蛇口を捻る。

暖かいお湯が出るまでの数秒で歯磨きを用意し、そのまま浴びる。

タオルで体を拭きながら、解凍したブロッコリーと惣菜パンを口にした。

野菜ジュースのボトルをそのまま口につける。


乱暴な食生活だと思う。

でも、食べないよりはずっといい。


今朝のニュースでは凄惨な事件が流れていた。

それを見て、僕の人生は相対評価なら幸福なのだろう、と理解しかけて――途中でやめた。


いない。

……いるのか。


僕は脳裏に呼びかける。


(おはよう。元気だね。ご飯も食べてて偉いね)


それが返事だったのかどうかは、分からなかった。


なのに、胸の奥は妙に静かだった。

それが怖いのか、安心なのか、まだ判別できない。



その日の晩、友人と飲みに行った。

いつもの居酒屋で、いつもの愚痴を聞く。


「で、お前は最近どうなん?」

「どうって?」

「なんとなく。何もなければいいんだけどさ」


話が途切れたからか、雑に投げられた話題。

僕は迷ってから、試しに聞いた。


「君は今までに、死にたいと思ったことある?」

「ない……って言ったら嘘になる」

「だよね。普通だよね」

「でも今はない。お前がそうなら、無理やりにでも仕事辞めさせる」


その声は本気だった。

いい友人を持ったと思う。

けど、そういう話ではなかった。


「ううん、違う。仕事の問題じゃないし、もう死にたいって思ってない」

「この前のやつで吹っ切れたのか?」

「……うん。そんな感じ」


脳裏の彼女が現れて、僕は死にたいと思わなくなっていた。

もちろん異常だと思われたくない。だから言わない。

問題が解決したことにした。


でも、漠然とした不安が残る。

最近、彼女があまり話しかけてこないこと。

それに――彼女がいなくても、生活が回ってしまうこと。


今朝、彼女がいなくても朝食は食べられた。

仕事へ行くことに不自由しなかった。

余分なストレスも増えなかった。


……電車を待っていて、凹凸の境界に足を踏み入れたいとすら思わなくなっていた。


“死”の感触が消えた。

不気味なほどに。


彼女が振り払っていたと思っていたそれは、

彼女と一緒に消えてしまったのだ。


その事実が、たまらなく悲しかった。

彼女を必要としていない自分が薄情に思えた。

恩返しもできていないのに、と。


それでも、元に戻るつもりはなかった。

彼女に縋ることだけは、もうできなかった。


それをしてしまえば、僕はもう戻ってこれなくなる。

そう自覚していた。


だから――


僕はひとつの決断をした。



その日、そのまま僕は買い物に出かけた。

善は急げ。彼女が一緒にいるときによく口にしていた言葉の一つだった。

またはこんな気恥ずかしいことは酔っている間にしかできないと思ったからだ。


24時間営業している大型のディカウントストア。

できるだけ、それっぽいものを探して。


「プレゼント用ですか?」


そう尋ねられた。

男が買うには少し後ろめたい、それ。

僕は「そうです」と答え、やや大げさなラッピングをしてもらった。

不釣り合いで、少しだけ申し訳ない。


部屋に戻り、包装を丁寧に開ける。

儀式みたいだ、と思った。

でも儀式にしたかったのだと思う。僕は。


可愛らしい動物のぬいぐるみが出てきた。

少し大きめで、棚の上にちょうど一人分の場所ができた。


僕はそこに置いて、声をかける。


「おはよう。……初めまして」


返事はない。

当然だ。


それでも、声に出した。


「……こんにちは」


名前を呼びかけそうになって、やめた。

胸の痛みが来ないことが、少しだけ怖かった。


僕はただ、棚を見上げる。

彼女がいた場所。

あるいは、僕が彼女を置いていた場所。


これからも話しかけるのかもしれない。

あるいは、話しかけなくなるのかもしれない。


どちらが正しいのかは分からない。

分からないままでも、今日は越えられる。


電車の音が、遠くで鳴っていた。

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境界線の手前で さとさん @satoukazufumi

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