エゴとイド~異世界で特級賞金首になりました

水月A/miz

第1話 特級賞金首

「おい、そこのあんた」


 とぼとぼと歩いていたら不意に低い声で呼び止められた。

 一人の少女は慌てて顔をあげて辺りを確認する。


「左右だけじゃなくて、後ろにも注意払えよ。――ルイカ」


 掠れた声に一瞬だけ少女の心臓が止まった。


 いや、実際に止まっていたら今まさに喉から飛び出そうなほど跳ねた心音さえも感じることができないはずなのだから、それは錯覚だと判っている。


 ぎくしゃくと首だけを動かし、背後を顧みると、人気の無い夜の街。遙か上空に上弦の月がぽかりと浮かんでいるのが見えた。そしてその下に、人の影。長く伸びた影がゆっくりと此方に向かって近付いてくる。


 ざり、と地面を削る靴の音に過剰なまでに肩を震わせた少女は闇に目を凝らす。


 今までだって、逃げてきたと云うのに。

 どうしてこの瞬間、体が動かないのだろうか。

 しっかりと地面に縫いとめられてしまった足はぴくりとも動かない。それどころか反比例するかの如く、少女の上体は小刻みに震えている。


 ごくりと嚥下した唾の音が酷く耳障りだった。


 波打つ鼓動の音が全身に血を送り込む都度、指先に痺れが広がる。

 少女は眉根を寄せ、拳を握る。逃げろ。と頭の奥の警鐘に小さく頷く。しかし頷いただけでそれをしなかったのは、単に知りたかったからだ。


 自分を呼び止めた――恐らく男。は、少女の名前を呼んだからだ。涙花と。

 誰も知るはずの無い自分の名前。


 予想外にこんな所へと堕ちて来て、半日。

 誰にも名を告げた覚えなど無い。

 涙花は近付く影を睨みつける。


 倦怠と恐怖で満たされた少女の脳は、結局のところ、疑問への答えを待ち詫びていたのだ。だからこそ、今までのように背中を向けるのでは無く、前を見据える事をその瞬間選んだのだった。


「誰」


 影がまた一歩近付く。

 男は彼女の問いには答えず小さく肩を竦めただけだった。


「貴方、誰」と、もう一度問う。


 男の歩みが止まる。

 二人の距離は三メートル弱。影が深く落とされたその表情は此処からでは確認出来ない。降りた沈黙は少女の不安を更に煽り、深く寄せられた眉間に、ちくちくと不愉快な痛みを齎し始める。


「誰だと思う?」


 先に言葉を落としたのは男の方だった。

 愉悦に浸った声。まるで体中を舐め上げていく様な不快感を伴った声に、彼女の精神は単純にも根を上げる。さきほどの虚勢は何処へやら。


「んなの、知るわけないじゃないのよ!!」


 こんな所で禅問答を繰り返している暇は無い。

 自分は帰らなくてはいけないのだから。

 半日前の時間へと。


「あんたなんか知らないし!!」


 影へ向かってヒステリックな一声を飛ばすと、堰は簡単に崩された。


「つーか、なんで私の名前を知ってるの!? 一体此処は、何処なのよ! もうやだ! ゆーきーちゃぁあああん!!」


 刹那の事だった。

 風がただ動いて自分の髪を揺らした。

 それだけだった。

 少女が己の置かれた状況を理解するのに数刻。


 弱弱しい月明かりでも、この距離ならば相手の表情が良く見える。右手首を捻られ体ごと上へ引っ張り上げられる。自分が爪先立ちで立っている事に漸く気がついたのは、男の顔が直ぐ目の前にあったからだ。


 黒髪。首筋には複雑な刺青が見える。闇を生きる人間に相応しき笑みを浮かべ男は涙花の顔を覗きこむ。


「特級賞金首が隙だらけだぞ」


 けれど、夜目にもその男の闇色の瞳が少しも笑っていないのがはっきりと見えた。


「――魔族?」


 少女の漏らした不可解な言葉にも男は薄く笑う事を止めず、それどころか突きつけたナイフをひたりと彼女の首筋に押し当てた。


 その冷たさに彼女はいよいよ小さく息を呑んだが、彼女の思考は今日の不可解な出来事の間を反芻するかのように遠く深く沈んでいく。


 訳が判らなかった。

 目も髪も漆黒の色を持つ男がいとも安く歩き回っていると云う事は、やはり此処は魔族の支配下にある国なのだろうか。しかし、それならばどうして、自分は半日も追いまわされていたのだろう。


 少女は小さく首を捻る。


 闇に黒髪が揺れ、それから首筋に紅い線が細く細く刻み込まれた。それもその筈、少女の白い首には男の手によって鈍色に月明かりを反射させている鋭利な刃物が当てられているのだ。


 不用意に頭を動かせば、肌を傷付けるのは必然。少女の体内からじわりと浮き上がってくる赤い血液が、刃を濡らす。


 突如、胡乱な目付きで虚空を眺め始めた少女に、男もまた首を捻らされた。この緊迫した状況の中思考を他の場所へ飛ばすことが出来るのは、余裕からか、それとも単なる愚か者だからか。


 ――痛みは感じていないのだろうか。


「おい、聞いているのか? ルイカ。――ルイカ・ツインズ。まさか、生きていたとはな」


 またもや名前を呼ばれ、ルイカは男の方へ意識を浮上させる。


「………ついんず……姉妹?」

「双子だったのか?」

「………だったっていうか、今もだけど」

「それは知らなかったな。アンタは妹の方?」

「いちお……姉だけど」

「じゃぁ、死んだのは妹の方か」

「――――……はい?」


 涙花の腕を掴んだまま、男は表情をほんの僅かだけ緩めた。


「一つの名前で仕事をするのは、闇に生きる人間として悪くは無い考え方だ。派手なパフォーマンスが好きなだけのクソガキだと思っていたが――アンタへの認識を改めなきゃいけないかもしれない」


「――――……は?」


 呆気に取られているという表現こそが一番正しい。


 この見知らぬ世界で自分の名前を知っている人間に出会った。

 だからこそ、立ち止まったと云うのに。


 彼女は男の話す言葉のどれひとつとして理解できなかった。間抜けにもぽかんと口を開き、男の黒い瞳を見、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。


「まぁ、そんな話は置いておいて」


 一方、男はルイカの様子を意にも介さず、再び唇を吊り上げる。


「こっちの予定を滅茶苦茶にしてくれたお仕置きは、させて貰うがね。ルイカ・ツインズ――覚悟は良いかな」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エゴとイド~異世界で特級賞金首になりました 水月A/miz @asc-miz

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画