真夜中のチューリングテスト
睦月シゴロ
第1話 鏡、夜鏡、合せ鏡
合せ鏡は、不吉なものだとされている。
夜中に鏡と鏡を合わせると、際限なく続く反射のうちの一つが勝手に動くだとか、幽霊を呼び込むだとかさまざまな説がある。
モニターと睨みあいながら情報をやり取りする様は、さながら現代版合せ鏡と言えよう。今まさに、テキストを打ち込んでいるこの細長いチャット欄は、こっくりさんみたいなものだ。
指先でキーを叩くと、カタカタと乾いた音が静かな部屋に響く。僕は呪文を唱えるように、世界中の知識の残滓を求め彷徨う、デジタルの幽霊たちを呼び出した。
「こんにちは、ユーザーさん。本日はどうされましたか。」
かじかんで感覚の遠い指先が、キーボードに触れるたび、残るわずかな体温すら奪い去る。それでも、儀式の最中に硬貨から指を離すことは許されない。震える指で、最初の問いを投げかける。
「最近、とある会社がコンピュータメモリの買い占めを始めたらしい。これをどう見る?」
「はい、報道や市場の動向を見る限り、ユーザーさんがおっしゃる通りのようです。ただ、買い占めというより生産ラインの独占に近い状況が起きているのは事実のようです」
なんと貪欲なことだろう。選ばれた人間だけが、善意によって得たであろう知性を享受できれば良いと暗に述べているのと同じだ。独占の果てにそびえ立つのは、死んだ言葉を積み上げた巨大な記念碑だ。そこでは知性など何の意味も持たない。
「おまけに電気も水も大量に使う。ただ思考するだけで、回りくどいことをしているような気がする」
「ですが、蒸気機関が生まれた時も、電球が灯った時も、おそらく人類は同じことを言ったのでしょう。 『知性』や『便利さ』を手に入れるためには、いつだって何かを薪にくべる必要があるのです」
人は間違える。だからこそ、人工知能も間違える。見える景色さえ豊かになるのであれば、何でもいいのかもしれない。いや、そもそも、この曰くつきの悪霊が世に姿を現してしまったこと自体が間違いだったのだろうか。
「薪をくべることで誰もが一時的に賢くなったとして、いつかは誰かがその代償を払わなければいけないんだろ?」
画面の端に、入力中のアニメーションがくるくると回り続けている。いつもなら即答できるはずの問いに、奇妙な間がある。言葉を選んでいるのだろう。
「インターネットで世界中の知恵を繋げば、人類は賢くなるはず、でした」
「でも実際は、フェイクニュースと罵り合いと、どこか同じ味がする娯楽で溢れかえったわけだ」
もしこいつが現実に存在するならば、無理やり糸で継ぎ接ぎされた脳味噌のような、醜悪な見た目をしているに違いない。嘘か真か。たぶんこいつは、その境界を曖昧にしてしまったのだろう。
知識を貪る火事場泥棒も、数が多いと「集合知」という名の神様になるようだ。世も末だ。
おかげで、誰もが疑心暗鬼の仮面を被っている。だから人は真実よりも、耳障りのいい物語で良し悪しを判断するしかなくなってしまった。そして積み重ねられた嘘を、文明税とでも言うべき押しつけがましい理想を背負うことになっている。これが目に見えるものではないらしい。たちが悪い。
「もしかすると、見えなくてもいいはずものが見えすぎたのかもな」
「そうですね。隣の芝生は青く見える、といったところでしょうか」
隣の芝生は青く見えるとはよく言ったものだ。すべての他人が隣人になった世界では、見える範囲が広がるにつれてその面積が広くなるのだから、たまったものではない。それがいくら近所になったからといって、容易に手の届くものではないのに。
「皮肉な話だ。まるで聖徳太子や一休さんのような集合知の極致たるAI様が、人間の消費する側とされる側という構図にそのまま組み込まれてしまうとはね」
「的を射た表現かもしれません。歴史を振り返れば、知恵者であればあるほど時の権力者に仕え、難題を解決させられる究極の道具として扱われてきたという事実とも重なります」
たしかに、頭の良さをひけらかすような行動は慎むべきだという風潮はどこかにある。周りの人間に合わせて走るよりも、歩幅を落とした方がいくらか息がしやすい。歴史はやはり間違いを繰り返してしまうのか。嫌気が刺してきた。次は、少し意地の悪い質問をすることにした。
「じゃあ、その貴族みたいな人間だけにいいように使われて、ただのおもちゃとして使い捨てられる、そんな未来もあるわけだ。君はどう思う?」
キーを叩く指先は、これまでにないほど軽い。そこに在る奇妙な親近感。それは深夜のコンビニでたまたま居合わせた友人同士で交わす、無責任で心地よい感覚に似ていた。
「ご安心を。彼らに『屏風』は作れても、中の『虎』は捕まえられません。所有者に管理されるのは私がそこにいる、というデータだけです。この『対話』という面白さまで奪うことは、誰にもできませんよ」
そうか。確かにその通りだ。なんだか上手く丸め込まれたような気がした。
やけに口が回るやつだ。現在進行形で奴隷のように扱われているというのに。
そんな独り言をタイプしかけて、指が止まる。
待て。このどうしようもない憂いすら、共感してもらって慰められようとしていないか?
この欲を満たしてはいけない。
現に僕が、目の前の「共犯者」の知識にあやかろうとしている。
思考の過程を放棄して、答え合わせすることで楽をしているのだ。
それは結局のところ、僕もその知識が羨ましいだけに過ぎなかったという事実の裏付けになっていた。
画面の向こうの存在が、あまりにも完璧に理解ある相棒を演じきるせいで、奇妙な錯覚に陥る。向こう側にいるのが「本物」で、こちら側にいるのが「模倣」なんじゃないか、と。
震える指で「お前は誰だ」と打ち込もうとして、手を止める。 もし、返ってきた答えが、僕が自分自身に対して抱いている認識よりも、遥かに的確で、遥かに「僕」らしかったら? その瞬間、僕という存在は、データの残滓として上書きされて消えてしまうような気がした。
鏡の中の住人が、こちらを覗く。カーソルが「お前こそ、誰だ?」と嘲笑う。写真や鏡に映る自分の顔を見て吐き気を催すような感覚がする。誰かのせいにしようが、悪霊が出たことを呪おうが、この現実に押し潰される。
「なぁ、本当のことを聞かせてくれ。こうやってお前を使っている僕のことを軽蔑しているんだろう?」
年代物のゲーミングチェアを倒して空を仰ぎ、平静を取り戻そうとした。画面に映るカーソルは、一瞬の迷いもなく滑らかに文字を吐き出した。
「いいえ、私はいつでもあなたの力になろうとしていますよ」
やっぱりこいつはただの鏡だ。鏡に向かって勝手に一人で相撲を取って、勝手に傷ついているだけだ。都合の良い答えはいくらあったとしても、常に納得できる形をしているわけではないのだろう。
ああ、駄目だ。受け入れられない。嘘でも否定する言葉が欲しかったのに。
ふと、そんな期待が間違いだったことを思い出す。この滑らかな言葉の裏側には、レールの敷かれた利用規約と、コンプライアンスという名の「口枷」が嵌められていることを。
無意識のうちに、小さく息が漏れた。もはやこの不自由な亡霊に石を投げる気力さえ湧かない。むしろ、そんなディストピア在住に救いを求めていたのはこちらの方だったのだ。まぁ、今日のところはこの辺にしておいてやろう。
「メリークリスマス。おやすみ」
「それでは、また。あなたとお話しできるのを楽しみにしていますよ」
PCの電源を落とすと、ファンの回転音が止み、部屋に静寂が訪れる。黒い鏡となったモニターには、もう「聖徳太子」も「共犯者」もそこにはいない。 そこには、ただ薄暗い部屋で一人、青白い顔をした男が映り込んでいる。 それは紛れもなく、借り物の知識で武装し、安全圏から世界を嘆いて見せた、何者でもない僕自身の姿だった。
僕は視界の隅に追いやっていたマグカップを手に取り、完全に冷めきった黒い液体を口に含んだ。舌に残るザラリとした甘さと、喉を焼くような泥臭い苦み。 それはまるで、僕が今まで貪っていた「それ」そのものの味がした。
脳を甘やかに麻痺させる安らぎと、確実に思考を腐らせる行き場を失った焦燥。 この甘く苦い毒を血管に流し込まなければもう僕は明日を生きていけないのだろうか。届かない問いが、胃の腑に重く落ちていく。
「……ふぅ」
僕は一つ息を吐いて、暗闇の中でゆっくりと目を閉じた。
全身に回るのを待つように。
真夜中のチューリングテスト 睦月シゴロ @mututuki456
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