ミチミチ

狼二世

ミチミチ

 肉を買った。

 高い肉を買った。


 肉を焼いた。

 焼き方まで調べて完璧に仕上げた。


 肉を食べた。

 酷く不味かった。


 抱いていた希望と一緒にカトラリーを置く。

 こつん、と乾いた音が孤独な家の中に響いた。


 いつからだろう、肉を食べても何も感じなくなったのは。

 ああ、愚問だ――そんなものはとっくに分かりきっている。


 あの日――■の肉を食べた時から、肉の味は不快なものになってしまった。


◆◆◆


 大地が揺れた。

 人は大地に足を張って生きる生き物であり、その大地が崩れ去った時、酷く弱く情けないものである――そんな当たり前のことを、実際に体験するまで僕は分からなかった。


 その日、僕は■と一緒に遠出をした。

 紅葉を見るために山に登り、一日もしないで帰ってくる。

 道程は驚くほどに順調。秋の涼やかな日和も、穏やかな日差しも、世界を彩る紅葉も、全て順調であった。

 車を走らせる傍ら、■の穏やかな表情は鮮明に思い出せる。


 ――そう、鮮明に思い出せる。


 帰り道、突然の地震。

 山道の老朽化した道路が割れ、ブレーキをかける暇なく落下する自動車。

 崖下に落下した僕たちは、なんとか車から這い出した。だが、怪我で動くことが出来なかった。仮に動けたとしても、周囲は断崖絶壁。自力で助けることも出来なかった――そう思うことにしている。


 ――一日目――


 まだ僕たちは状況を楽観視していた。

 ■と身を寄せて助けが来るのを待つ。

 通信手段もなく、ただ助けを待つのは心細かったけれど、■の体温が確かに感じられた。


 ――二日目――

 

 空腹が無視出来なくなってきた。

 とは言っても、周囲に食べられるようなものはなかった。

 思わず愚痴を言いそうになったけれど、隣で耐える■は何も言わない。それなら、僕は代わりに励ましの言葉を出した。


 ――三日目――

 雨が降った。

 雨がこんなに冷たいものだとはじめて知った。

 崩れた車を傘にして雨露をしのぐ。それでも、ぬかるんだ地面は容赦なく体温を奪っていった。


 ――四日目――

 再び大地が揺れた。同時に、辛うじて形を保っていた自動車が完全に崩れた。

 既に体力を消耗していた僕たちはなすすべもなく潰された。

 

 手が、濡れた。

 雨とは違う、温い液体が手を覆った。

 

 赤かった。

 赤い液体が流れていた。

 ■の肉体から、紅い液体が流れていた。


 ――五日目――


 熱が消えていく。

 ■の肉体から熱が消えていく。

 助けは来ない。枯れ果てた喉で助けを呼ぶけれど、誰も来ない。

 やがて、完全に喉が潰れた。


 ――その時に、聞こえたんだ。


「私はもうだめだから……」


 その先の言葉は、よく覚えてない。


「お腹すいてるでしょ。だから、私を食べて――せめて、あなただけでも生き延びて」


 気がつけば、僕は冷えた妻の肉体を抱いて泣いていた。


 ――六日目――


 助けは来ない。


 ――七日目――


 助けはまだ来ない。

 冷えた■の肉体は、まだある。まだ、形が残ったまま在った。

 埋葬するだけの体力は残っていなかった。

 このまま、■の肉体は朽ちていくのだろうか。もし僕も死んだのなら、二つの肉体が朽ちていくのだろうか。

 腐り、異臭を放ち、死肉を啄むカラスに食い荒らされるのか。


「それは、いやだ」


 だから、僕は■を食べた。


 その時だった、僕は未知の快感を味わった。

 今まで食べたどんな肉よりもおいしく、満たされた。


 ミチミチと、ミチミチと嚙みちぎり、自分の肉体の一部にする。

 満たされていく。肉体に、精神に活力が戻ってくる。すっかり萎えていた股間が盛り上がる。

 あの時――あの時程、満たされたことはなかった。


 命そのものを食べていた。


 ――だから、僕だけは生き延びることが出来た。


 その時からだった。

 全ての肉が、不味く感じられるようになったのは――


◆◆◆


 肉を食べても満たされない。

 肉を食べなければいい、そうかもしれない。

 それでも、何故か僕は肉を食べたくなる。


 耐えた。

 それでも限界は来る。

 衝動的に高級肉を買って来たものの、結果は散々なものだった。


 ああ、こんなにも苦しいのに。

 何故、僕の内からは、肉を食べたいと言う欲求が湧き上がるのだろう。


「ああ、だめだ……もっと食べたい」


 冷蔵庫には肉は残っていない。

 買ってくる? それでも結果は同じだろう。


 気分を変えよう。

 家を出る。新しく買い替えた車に乗ると、近所の焼き肉店へと向かった。


◆◆◆


 脂が焼ける音がする。

 肉が焼ける香りがする。


 席についた僕は、肉を焼く。

 ただ機械的に動かして肉を焼く。


 そして、食べる。

 味は――相変わらずだった。


 箸をおいて一息つく。

 周囲には家族づれの客たちが、思い思いに食事を楽しんでいる。

 楽しそうに――本当に、楽しそうに食事をしている。


「どうしましたか?」


 不意に、声をかけられた。

 店員だった。

 女性の店員が、心配して声をかけてくれたのだ。


「あっ……」


 程よく肉の付いた肉体。柔らかそうな二の腕。


「あっ……」


 この人の肉は、どんな味なのだろう。

 ああ、どんな味なんだろう。

 それはきまってる。


 ――あなた、美味しそうな肉をしていますね――


 そう、言葉が口から出かかった――

 ――けれど、実際に音として生まれることはなかった。


『ダメよ、嫉妬しちゃうから』


 ■の言葉が聞こえた気がした。

 妻が、口を抑えてくれた。


「すみません、上カルビをもう一つ」

「それでしたら、手元のタブレットでご注文をお願いします」


 それだけ告げると、店員は去っていった。


 残された僕は、すっかり冷めた肉を口に運ぶ。


 まずかった。

 とても、まずかった。


 きっと僕は、ずっと不味い肉だけを食べ続けるのだろう。

 だって、世界で一番おいしい肉を食べてしまったのだから。もっとも美味しいものを、既知であるのだから。


 たぶん、それが僕の罰だ。

 これから、命を食べた分だけ、生きないといけない。

 その間、ずっと不味い肉を食べるのだろう。


 でも、仕方ない。

 それでも、生きていかないといけないんだから。


≪了≫

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