ファミレス不倫
星夜燈凛-Seiya Akari-
水曜日のアメリカン
「私、結婚するの。」
思い切って私は、アメリカンをすする目の前の男に言ってみた。
「そうか。おめでとう。」
私は、予想通りの冷たい返答に半ば呆れながらも、まくし立てるように続けた。
「外資系の営業マンで、とっても爽やかで真面目で優しくて、私に毎日愛してると言ってくれるのよ?
結婚式は丘の上から海の見える式場であげるの。」
多少尾ひれをつけたが、あながち間違いではない。ただ、〝あなたとは違う〟と言いたかっただけなのだ。
「ふーん。良かったじゃないか。」
男の返答は相変わらず素っ気ないものだった。
「私が結婚したら、この関係は不倫になるわね。」
「……そうだな。」
そう呟いた男は、顔色ひとつ変えることなくアメリカンをすすっている。
「私、本当に結婚しちゃうのよ?」
「君が幸せならそれでいいよ。」
そう言って彼は微かに微笑んだ。
それがたまらなく悔しくて、この男にとって自分は「女としての魅力がない」と言われている気がして、腹が立って仕方なかった。
「私帰る。ご馳走様!」
少し乱暴に千円札を机に叩きつけて、私は席を立った。
思えばこの男との関係は実に奇妙なもので、身体の関係も無ければ、お互いに愛を語り合う仲でも無い。
ただ、毎週水曜日の午後に決まって、同じ店の同じ席でお茶をするという、ただそれだけの関係だった。
それでも、あの時間は私にとってかけがえのない安らぎの場所だったし、唯一私が生きていると実感できるそんな空間だった。
そこで、あの無口で無愛想な男の些細な仕草に一喜一憂しては、心をかき乱されていたのだ。
思い返せば、私はあの男について多くを知らない。
なんの仕事をしていて、何が好きで嫌いか。
あの男の何処に惚れたのかと問われても、返答に困る始末だ。
それでも恋とは御しがたいもので、顔を合わせる度に心惹かれ、求めてしまう。
その黒曜石のような瞳に、自分だけが映ることを願ってしまうのだ。
男は、いつも本を読んでいた。センターセパレートの黒髪に、金縁の丸メガネがよく映える。細身で、女のように白い肌をしていた。
ふっくらとした薄紅の唇は、触れたら柔らかいのだろう。
ミステリアスな雰囲気を放つ彼が、私をみとめた瞬間、微かに柔らかな空気を纏うのがたまらなく好きだった。
彼との出会いは、1年前。
「落としましたよ。」
プレゼン資料の入ったUSBを彼が拾ってくれたのだ。
初めて任された大きな商談を前に、私は大いに緊張していた。なんとか気を紛らわそうと、何気なく立ち寄ったファミレス。
彼がいなければ、大事な商談が流れてしまうところだった。
何度も頭を下げてお礼を言った。
彼は困ったように笑うと「頑張って」と言って見送ってくれた。
今思えば、一目惚れに近かったのかもしれない。
その笑顔に背中を押され、その日の商談は大いに上手くいった。
後日、プライベートでそのファミレスに立ち寄ると、またその男がいた。
先日のお礼を言うと、男はまた困ったように笑った。
そして、仕事が上手くいった話となにかお礼をさせて欲しいと申し出た。
男は、しばらく考えると『一緒にお茶をして欲しい』と口にした。
そんな事でお礼になるならと、二つ返事で了承した。
男に名前を尋ねると『雨宮朧』と短く名乗った。
随分変わった名前だなと思ったが、私も自己紹介をした。
「白木美穂です。雨宮さんとお呼びしても良いですか?」
男は、本に視線を落としたままコクリと頷いた。
「そんなに真剣に何を読んでいるのですか?」
聞いても男は答えない。
「おもしろいですか?」
「あぁ。」
……喋った。
その後、なんとかこの男の気を引こうとあれこれ質問したが、この男は何も答えない。
美穂は諦めて、自分のたわいない身の上話などをした。
その間、この男がどんな顔をしているのか少し気になって、横目で盗み見ると、黒曜石の瞳が楽しそうに細められ、美穂を真っ直ぐ見据えていた。
あの日は、あれから何を話したのかも、どうやって帰ったかも覚えていない。
ただ、あの男の笑った顔が、強烈に脳裏に焼き付いて離れなかった。
奇跡のようなあの日が過ぎ、彼にはもう、会うことはないと思っていた。
しかし、ファミレスを通りかかると、ポツンと座ってアメリカンをすする彼がいた。
その姿が、なんだか影をおびているように見えて、放っておけなくなったのだ。
それから毎週水曜日に、なんとなくこのファミレスで落ち合うことが習慣となっていた。
話題は決まって、美穂の身の上話。
口数は多くないが、男も時々言葉を返した。
ある日、いつも通りファミレスに行くと、男がパソコンを叩いていた。
「仕事?」
「あぁ。」
「何の仕事してるの?」
「……。」
男は、何も答えなかった。
代わりに、珍しく口を開いた。
「今日は来ないと思っていた。」
「なんで?」
「雨が降っているから。」
「あ……。」
以前、雨は嫌いだと力説したことがあった。
美穂の癖っ毛は、湿気にかなり弱いのだ。
「覚えてたんだ……。」
「……。」
相変わらず何も言わないが、話だけはちゃんと聞いているらしい。
「ふふふ……。」
美穂は、この男に意外と律儀な面があることが可笑しくて、しばらく笑っていた。
男は、なぜ目の前の女が笑っているのか、想像もつかない様子で、ただ呆然とその様子を見ていた。
虚ろな瞳で、美穂はそんな日々を思い出す。
教会の窓を雨が打ちつけていた。
「やっぱり、雨は嫌いよ。」
呟いた声は、誰にも届かなかった。
――あれから二年。
あのファミレスには、立ち寄っていない。
家の最寄りの改札を出ると、書店がある。
ふと、ポップアップが目に入った。
何かの賞を受賞したらしい。
何気なく手に取ったその本を見て仰天する。
「……雨宮朧」
あの男の名前だった。
「作家だったのね。」
あの無口な男が、本などかけるのかと少し可笑しく思いつつも、迷うことなく購入していた。
家に帰って、本を開く。
恋愛小説のようだ。
恋愛のれの字も知らなそうな男だったのに、と意外に思う。
更に意外なことに、本の中の彼はとても饒舌だった。
ヒロインは、そそっかしくておっちょこちょいな放っておけないタイプの子。
表情がくるくる変わる様子が、愛らしく描かれている。
よくはねる癖毛を気にして、雨が嫌いな……
「まるで、私みたい」
口にして、慌てて首を横に降った。
美穂は、小説の文字をゆっくり目でなぞる。
『小さな君をこの腕に抱きしめたい。
その柔らかそうな唇に口付けてしまいたい。
そう言ったなら、君はどんな顔をするんだろうか。』
自分のことではない。
そう分かってはいても、美穂は顔から火が出そうなほど顔を赤らめて、その場にうずくまった。
水曜日。
久しぶりに、あのファミレスに向かった。
男は…………いた。
相も変わらず、虚ろな目でアメリカンをすすっている。
美穂は黙って、男の前に座った。
男は、珍しく目を見開いて美穂を凝視した。
「美穂……。」
名前を呼ばれたのは、初めてだった。
美穂は、黙って机にその男が書いた本を置く。
「読んだわよ。作家だったのね。」
「読んだのか。
…………すまない。」
「それは、なんの謝罪?」
「許可なく、君をネタにした事だ。」
「ネタ……ね。」
世界で一番、ガッカリする言葉だなと美穂は思った。
「でも、信じて欲しい。
その本に書いたことは本心だ。」
背けられた顔は、耳まで赤く染っていた。
美穂は、立ち去ろうとする彼の腕を思わず掴む。
「私も、貴方が好きだったわ。
……もう遅いけど。」
男の目が僅かに見開かれる。
「俺は、馬鹿だな。」
男は、美穂の長い髪をひと房すくうと、その毛先にそっと口付けた。
「ありがとう。」
そう言って、男は穏やかに笑う。その柔らかな仕草から、男なりの愛が伝わってきて、美穂は胸が締め付けられる想いだった。
「馬鹿なのは、私も同じね……」
男が立ち去った後、誰に言うでもなく呟いた。
大きく息を吐き出すと、その場にうずくまる。
〝ファミレス不倫〟そんな言葉が、美穂の頭をよぎった。
――あれから3年。
美穂はあの男のことが、未だに頭から離れなかった。
子供を欲しがる夫に応える気にもなれず、夫婦関係は冷え切っていた。
あれから、1度だけ水曜日にファミレスの前を通りかかったが、男の姿はなかった。
……会えていたら。
私は、自分を抑えることが出来たかわからない。
それならいっそ、独身になった方がマシだと思い、夫に別れを切り出した。
夫は何も言わず、書類にサインした。
夫にも、密かに恋人がいたようだ。
お互い想う相手が別にいるというのは、薄々感じていたことだ。
美穂は、小さなスーツケースをひとつだけ持って、5年間過ごしたマンションを後にした。
足が向かうのは、どうしたってあのファミレス。
男は…………いなかった。
美穂はガッカリした心持ちで、背を向けて駅に向かう。
「美穂…………?」
ずっと聞きたかった声が、背後から聞こえた。
美穂は静かに振り返ると、走り出す。
男は、驚いた顔のまま、自分の胸に飛び込んできた美穂を抱きとめた。
「会いたかった。」
美穂は、素直な気持ちを口にした。
「旦那さんは……?」
「別れてきちゃった。」
「え?」
「貴方が忘れられなく…」
言い切る前に、口を塞がれた。
男の薄紅の唇は、想像通り柔らかく、そして想像より冷たかった。
「白木美穂です。」
「雨宮朧……いや、雨宮恒一です。」
「あら、やっぱりペンネームだったのね。」
「でも、雨宮は本名だろ。」
男が肩をすくめてみせる。
「まぁ、いいわ。改めて、今度は不倫じゃなく、私と恋愛してくれる?」
「俺の6年は重いぞ。」
「なによ、小説の中でしかまともに喋れない癖に。」
「……でも、最高のラブレターだろ?」
「…卑怯な男。」
2人の間に沈黙が流れる。
でも、嫌いな静けさじゃなかった。
「よし、このままデートしましょ。」
不思議な二人の不思議な恋。
これもまた運命かと、美穂は心の中で思った。
ファミレス不倫 星夜燈凛-Seiya Akari- @Seiyalamp
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