第13話 結末
その夜、私はベッドに横たわりながら、天井を見つめていた。
彼は、自分の部屋にいた。
壁一枚隔てた向こう側で、彼は何を思っているのだろう。
また、手首を切っているのだろうか。
最近の彼は、痛みでしか自分を実感できないようだった。肌に刃を当て、赤い線を引く。それが彼の唯一の「生きている」証明になっていた。
それとも、ただ虚無の中にいるのだろうか。
何も考えず、何も感じず、ただベッドに横たわっているのだろうか。
私は静かに息を吐いた。
窓の外から、秋の虫の声が聞こえる。世界は回っていることは確かな事実だ。だが、この部屋の中だけは、時間が止まっているようだった。
ふと、胸の奥から込み上げるものがあった。
それは後悔ではない。罪悪感でもない。
もっと複雑で、もっと歪んだ感情だった。
彼がみんなのものになるのを恐れて、私は彼を壊した。
少しずつ、気づかれないように。
練習メニューを微調整し、休息を削り、栄養バランスを崩し、睡眠を妨げ、ストレスを加え続けた。
彼の身体を、確実に蝕んでいった。
そして、世界陸上という最高の舞台で、彼は崩壊した。
完璧に、美しく、取り返しのつかない形で。
だが、私が追い求めていたのは彼自身ではなく、彼が発する光そのものであった。
その事実に、今になって気づく。
私が追い求めていたのは、「大西鈴都」という人間ではなかった。
走る彼。輝く彼。限界に挑む彼。夢を追う彼。目標に向かって、まっすぐに突き進む彼。
その姿が放つ、眩い光。
それこそが、私が求めていたものだった。
そして、その光の根源は彼の陸上に対する真摯な思いそのものであった。
陸上を愛する心。走ることへの情熱。記録への執着。勝利への渇望。
それらすべてが、彼を輝かせていた。
それに気づかずに壊してしまった今、もう遅いのだ。
彼は陸上に耐えきれる身体も、今までの陸上に対する並外れた熱意ももう持ち合わせていないのだ。
右足は、完全に壊れた。医師は「競技復帰は不可能」と断言した。
だが、それ以上に壊れたのは、彼の心だった。
あの病室で、彼は走ることを諦めた。
私が、諦めさせた。
「もう、走らなくていい」
そう言った瞬間、彼の目から最後の光が消えた。
あの光はもう二度と彼の瞳には宿らないのだ。
私は深く息を吸い込む。
胸が苦しい。
でも、これは悲しみではない。
喪失感だ。
私の胸の中には、2つの感情が渦巻いていた。
それらは矛盾し、せめぎ合いながらも同時に存在していた。
1つは、彼を手に入れられた喜び。
独占したくて、狂いそうになっていたあの人を、完全に自分のものにできた。
彼の世界は、私だけに収束している。それは、紛れもない事実だった。
彼は、私なしでは生きられない。
食事も、睡眠も、日常のすべてを、私に依存している。
選択も、判断も、決断も、すべて私に委ねている。
私が、彼のすべてだ。
私が、彼の世界そのものだ。
その事実を思うと、胸の奥が熱くなる。
所有の快感。
支配の陶酔。
それは、確かに存在していた。
もう1つは、彼を失った絶望。
再確認したように私が追い求めていたのは、輝く彼だった。
走る彼だった。限界に挑む彼だった。目標に向かって突き進む彼だった。汗を流し、苦しみながらも、決して諦めない彼だった。
ゴールテープを切った瞬間の、あの誇らしげな顔。
記録を更新した時の、あの嬉しそうな笑顔。
挫折に苦しみながらも、また立ち上がろうとする、あの強さ。
でも今、その彼はいない。
空虚な抜け殻だけが、残されている。
感情の抜け落ちた目。
力の失われた身体。
意志の消えた心。
それは、もう私が追い求めた「彼」ではなかった。
手に入れた瞬間、それは既に別のものになっていた。
私は、欲しかったものを手に入れた瞬間に、それを壊してしまった。
手に入れることと、壊すことが、同じ行為だった。
所有することは彼自身を破壊することを意味していたのだ。
私は何を得たのだろう。
何を失ったのだろう。
その問いに、答えはない。
いや、答えはあるのだ。
私は彼を得て、彼を失った。
矛盾しているようで、それが真実だった。
でも、そんなことは、どうでもよかった。
今夜、この暗闇の中で、ようやく理解してしまったから。
私が彼を依存させていたように思っていたが、実は私も彼に依存していた。
彼の輝きを見ること。それが、私の生きる理由だった。
彼を支えること。それが、私の存在意義だった。
彼の人生に関わること。それが、私の役割だった。
彼の成長を見守ること。それが、私の喜びだった。
彼の夢を、傍で見届けること。それが、私の願いだった。
彼なしでは、水谷燈という人間も空虚だった。
彼が走らなければ、私が瞳に移すべきものはない。
彼が輝かなければ、私というちっぽけな存在は照らされず、見つからない。
彼が夢を追わなければ、私には支えるべきものがない。
私は、彼の光を糧にして生きていた。
まさに共依存そのものであった。
一方が他方なしでは生きられず、他方も一方なしでは生きられない。
互いに寄りかかり、互いを支え合い、互いなしでは立っていられない。
それは愛情などといった美しくピュアな関係ではなく、それは依存という穢れ切った浅ましい関係だ。
私たちは、互いに依存し合い、互いを壊し合っていた。
彼は私に依存することで、自分で考える力を失った。
私は彼に依存することで、自分の人生を生きることを忘れた。
そして今、二人とも壊れている。
彼は私がいなければ、何もできない。
私は彼がいなければ、何者でもない。
この関係から逃れることも、離れることもできない。
ただ、この関係の中で、朽ちていくしかないのだ。
目を閉じると、彼の様々な表情が、次々と脳裏に浮かぶ。
高校で出会った、純粋な顔。
未来を信じることも知らず、ただ必死に走っていた、あの顔。
泥だらけで、汗だくで、それでも諦めなかった、あの顔。
まだ何者でもなく、でも何者かになろうとしていた、あの顔。
大学で挫折に苦しむ、苦渋の顔。
結果が出ないことに打ちひしがれ、私に抱きついて泣いた、あの顔。
「もうダメかもしれない」と弱音を吐いた、あの顔。
それでも、次の日にはまた走り出した、あの顔。
福岡国際で輝いていた、誇らしい顔。
自己ベストを更新し、ゴールで私を見つけた、あの顔。
「燈、見てた?」と嬉しそうに言った、あの顔。
「ありがとう」と、心から言った、あの顔。
世界陸上で倒れた、苦しそうな顔。
限界を超えて、それでも走ろうとした、あの顔。
アスファルトに倒れ込み、それでも立ち上がろうとした、あの顔。
担架の上で天を仰いだ、あの顔。
病院で泣いていた、絶望の顔。
光が消える瞬間を、私に見せた、あの顔。
「どうしたらいい?」と弱々しく問いかけた、あの顔。
そして、さっき見た、空虚な顔。
感情の抜け落ちた、虚ろな目をした、あの顔。
もう何も映さない、濁った瞳をした、あの顔。
その顔が、私を責める。
お前が壊した、と。
お前が殺した、と。
お前が奪った、と。
でも同時に、その顔は私に語りかける。
これが、お前の望んだ結末だ、と。
お前は、これを求めていたのだ、と。
私は枕に顔を埋めた。
声を出さずに、肩を震わせる。
これは泣いているのだろうか。それとも、笑っているのだろうか。
自分でも、分からなかった。
なんとなしに点けたラジオから、明るいポップスが流れ始める。
軽快なメロディーが、この重苦しい空気に不釣り合いだった。
「お早う始めよう 一秒前は死んだ」
そんな歌詞が、耳に飛び込んでくる。
その言葉は、前向きにも、後ろ向きにも取れた。
過去は変えられない。
もう、あの時には戻れない。
輝いていた彼も、もういない。
一秒前は死んだ。
でも、今この瞬間から、新しく生きることはできる。
彼も、私も。
壊れたまま、それでも。
光を失ったまま、それでも。
依存し合ったまま、それでも。
生きていくしかない。
ラジオの音楽は、いつの間にか次の曲に変わっていた。
窓の外では、秋の夜風が静かに吹いていた。
冷たく、乾いた風。
季節は、確実に移ろっている。
壁の向こうで、彼も眠れずにいるのだろうか。
それとも、もう何も感じず、ただ虚無の中にいるのだろうか。
それとも、また手首に刃を当てているのだろうか。
私には、分からなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
私たちは、もう戻れない。
光が消えた場所に、もう一度光を灯すことはできない。
燃え尽きた炎は、二度と燃え上がらない。
壊れたものは、元には戻らない。
それでも、この先も、私たちは一緒にいる。
壊れたまま、依存し合ったまま。
離れることもできず、修復することもできず。
ただ、この歪んだ関係の中で、生きていく。
それが私たちが辿り着いてしまった境地だった。
Crazy Crazy 大釋 空良 @mxxwk63225
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます