輸血拒否と罪
@at_tk
第1話 消えゆく煙
佐藤健太、三十一歳。
便利屋稼業七年目。
朝、目覚ましより先に目が覚める。
カーテンの隙間から差し込む光が、埃だらけの床に落ちている。
昨日片付けたゴミ屋敷の匂いが、まだ服に染みついているような気がする。
中身分かってるのに冷蔵庫を開ける。
ほぼビールしか入ってない。
ため息をついて、冷蔵庫を閉める。
ビールは我慢して、インスタントコーヒーを淹れる。
味なんて、もうわからない。
スマホを見ると、昨日の仕事の報告書が未送信のまま。
「フン。まあ、あとでいいか」
仕事は、惰性だ。
ゴミ屋敷の片付け、草取り、電球交換、ペットの散歩代行。
どれもまあ金にはなる。
でも、どれも情熱を持てる仕事とは言えない。
昔は、もっと熱かった。
喧嘩して警察のお世話になり、仲間と夜通し酒を飲み、
「いつかデカいことやってやる」と叫んでいた。
だが、あの頃の「ワル」のツケは大きかった。
まともな就職なんてできやしない。
履歴書に空白があるだけで、面接官の目は冷たくなる。
社会のレールから外れた人間は、二度と戻れない。
その現実に少しばかりの恨みを抱えたまま、俺は生きるために便利屋を続けている。
ただ、日々が過ぎていくだけ。
鏡を見ると、目の下に隈ができている。
タバコの箱をポケットに突っ込み、飯の調達と目覚まし代わりの散歩がてらアパートを出る。
「今日もまた同じ日が始まる、ってか」
もう十一時近い。
駅裏の再開発ビル脇にある小さな喫煙所。
屋根はあるけど三方は風が吹き抜ける、誰得の設計だ。
俺はいつものタバコをくわえて火をつけた。
隣に黒っぽいスーツの男が立った。五十代半ば、髪はオールバックで艶があり、ネクタイピンが光ってる。
明らかにこんな場所でタバコを吸うような人じゃない。
男はジッポをカチカチ鳴らして、ようやく火がついた。
一服目を深く吸って、ため息を吐く。
「ほんと、吸う場所がなくなっちまったな」
独り言のつもりだったんだろうけど、俺はつい口を開いてしまった。
「ほんとにそうっすね。コンビニの前も公園も駅も全部ダメで……
タバコを吸うだけで犯罪者扱いみたいになってます」
男がちらっとこっちを見て、口元に笑みを浮かべた。
「俺も昔は会議室で堂々と吸ってたんだがな。今じゃ屋上の喫煙所まで歩いていく始末だ」
「この辺の会社にお勤めですか?」
「まあ、そんなところ。ビルを売ったり壊したりする商売だよ」
俺は思わず笑ってしまった。
「じゃあ、吸う場所を減らしてる張本人じゃないですか。
再開発って言えば聞こえはいいけど、灰皿はどんどん消えていきますよね」
男は苦笑いしながら煙を吐いた。
「言われてみればそうか。すまんな」
俺はタバコをぐるぐる振り回しながら、つい熱が入ってしまった。
「でも、タバコってすごいと思いませんか?
一服するだけで頭の中がリセットされる。
江戸時代からみんな吸ってて、明治になって巻きタバコになって、戦争中だってタバコだけは配給されてた。
どんなに貧乏でも忙しくても、五分間だけ自分の世界に戻れる。
これ以上のリセットボタンは、俺は他に知らないんですよね」
男は面白そうに目を細めて、黙っていた。
「それに喫煙所って、実は民主主義の実践の場だと思うんです。
社長もフリーターも、ここに並んだら同じ煙を吐いてるだけ。
肩書きも年収も関係ない。
タバコを吸わなくなったから、日本人はギスギスし始めたんじゃないでしょうか」
最後の一口を吸って、俺は灰を落とした。
「……って、すみません。つい熱くなってしまって」
男がガハハと低く笑った。
「あんちゃん、おもしろいな。俺は東條って言う」
そして、東條さんは俺をまっすぐ見た。
「ところで、あんちゃんは何の仕事してるんだ?」
「便利屋やってます。何でも屋ってやつです。俺は佐藤っていいます。」
一応宣伝のためと思って名刺を渡す。
「便利屋か……」
その瞬間、東條さんの目が少し鋭くなった。
さっきまでの柔らかい笑みが、ほんの少し奥に引っ込んだ。
「……実はな」
東條さんは内ポケットから写真を取り出した。
二十代半ばくらいの、整った顔立ちの女性だった。
「娘が、もう一年以上前から行方不明なんだ。連絡が取れない」
俺は写真を手に取って、思わず眉を寄せた。
「警察には?」
「行った。ただ……大人だし、事件性はないって。家出扱いだ」
東條さんは新しいタバコをくわえ、ジッポをカチッと鳴らした。
でも火はすぐにはつけず、写真をもう一度見つめながら低い声で続けた。
「俺は……娘と最後に話したとき、ひどいこと言ったんだ。
『そんな宗教にハマって、俺の顔に泥を塗る気か』ってな。
そしたら翌朝、家を飛び出して、それっきりだ」
「宗教……、ですか?」
「ああ。エホバの証人とかいう変な宗教にのめりこんだらしくてな。」
火をつけないまま、東條さんはタバコを指でつまんで、
ぼそっと付け加えた。
「……俺が悪いんだ。もっと話をちゃんと聞くべきだったのかもしれん。」
俺は黙って写真を見ていた。
笑顔の娘の目が、どこか寂しそうに見えた。
風が吹いて、灰皿の灰が舞う。
しばらく沈黙が続いた。
「まさか……俺に探せって言うんですか?」
やっと俺が口を開いた。
東條さんはようやく火をつけて、一服深く吸った。
そして、ゆっくりと俺を見た。
「言っちゃあ悪いが、あんちゃんみたいな、つながりのない奴のほうがめちゃくちゃ都合がいい。」
東條さんはひとりうんうんとうなずく。
「便利屋、いいじゃねえか。
まっとうな手段じゃ会社にバレる危険がある。
でも俺は……もう一回、娘の顔をちゃんと見たいんだ。
頼むよ、もちろん金はちゃんと払う。」
俺はタバコを灰皿に押しつけた。
火が消える音が、妙に大きく響いた。
「……便利屋ってのは、何でも屋ですけど、
さすがに人の心まで探せるかどうかは、正直わかりませんよ」
ハハッ。東條さんは小さく笑った。
「それでいい。
俺は、完璧な父親じゃない。
ただ、一回ちゃんと謝りたい」
俺は写真を手に持ったまま、ため息をついた。
「……条件があります」
東條さんが、初めて真剣な目で俺を見た。
「一つ、探してる間は絶対に口出ししないでください。
二、娘さんを見つけたとして、連れ戻すかどうかは俺が決めます。 」
俺は娘さんの写真を東條さんに見せながら、もらっても良いか確かめた。
そしてそれをポケットにしまいながら、言った。
「見つけたとして、東條さんが本当にちゃんと父親として会って話せるかどうか。
案外それが一番、難しい仕事かもしれません」
「ハッハッハ。言うじゃねえか。」
東條さんは、ゆっくりと頷いた。
「分かったよ。……条件は守る」
俺はタバコの箱から最後の一本を出して、火をつけた。
「じゃあ、すぐに始めます」
東條さんが、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
そして、小さく、でも確かに笑った。
「頼んだぞ、相棒!」
肩を叩かれた。
風が吹いて、灰が二人同時に舞い上がった。
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