見習い車掌のある一日 ― 高坂 杏奈編(指導:上岡)

蓮田蓮

◆◆ 見習い車掌のある一日 ― 高坂 杏奈編(指導:上岡)

◆ 05:38 ― 出勤

 まだ外は薄暗い。

制服の襟を正しながら点呼室に入ると、朝特有の冷たい空気が肌にまとわりついた。

「見習い、高坂。出勤しました」

 助役が点呼簿にサインしながら、横目で言う。

「上岡さんが指導に当たるから、しっかりついていけよ」

「はい」杏奈は返事をしたが、その名前を聞いた瞬間、胸がぎゅっと縮まる。

――“厳しい”事で有名な指導車掌の上岡。昨日から緊張で胃が痛かった。


                 +++


◆ 06:20 ― 乗務前ブリーフィング

 上岡はすでに台帳を開いたまま、視線だけで杏奈を促す。

「遅い。時計を見て動け。まず今日のダイヤ、言ってみろ」

 杏奈は手帳を握りしめ、細かな時刻、混雑時間帯の注意点、構内工事の区間。と次々と読み上げる。

上岡は無表情のままうなずく。

「……悪くない。ただ“読むだけ”になってる。状況を頭で描け。乗務は“想像力”がないと事故るぞ」

「はい……!」杏奈は答えた。

バサ、と台帳が閉じられる。

「行くぞ。今日は放送も少し任せる」

“少し任せる”――その一言がプレッシャーに変わる。


                 +++


◆ 07:12 ― ホーム到着・乗務開始

 朝ラッシュ直前の駅。

上岡は手早く機器を確認しつつ、後ろの杏奈に鋭い声を投げる。

「立ち位置が違う。こっちだ。ホームの死角、どこだ? すぐに言え。」

 杏奈はしどろもどろで答えた。「え、えっと……この柱の……」

「“えっと”じゃない。死角は毎日違う。人の流れを見ろ。ほら、あの子ども」

 指さされた先で、小学生が友だちとふざけながら黄色い線に近づいている。

「気づけ。そういう客が一番危ない。“見習いだから”じゃ済まないぞ」

 上岡の言葉に杏奈は身体を強張らせた。その瞬間、列車のドアが閉まる音が高く響く。


                 +++


◆ 10:45 ― トラブル発生(軽傷の乗客)

 車内で乗客が軽く転倒したとの連絡が入る。上岡が応対し、杏奈に指示を飛ばす。

「非常通報装置の位置、すぐ確認して案内しろ!」

「はい!」杏奈の声が裏返ったが、とにかく動く。

 上岡は乗客へ丁寧に声をかけながら、杏奈を横目で見た。解決後、扉が閉まる一瞬で低い声が落ちる。

「“声が小さい”。内容は合っていた。むしろ正確だ。だからこそ惜しいんだ。自信を持て」

 上岡に怒鳴られたわけじゃない。でも、杏奈の胸の奥がじんと熱くなる。

――この人、厳しいだけじゃない。そう感じた自分に驚く。


                 +++


◆ 12:20 ― 休憩

 控室の隅で杏奈は昼食を広げるが、箸がなかなか進まない。そこへ無言で上岡がペットボトルのお茶を置いた。

「飲め。声が乾いてる」上岡の声は先程と変わらない。

「す、すみません……」杏奈は上岡を見上げると、すこし緊張して答えた。

「謝るな。喉が乾くのは緊張してる証拠だ。慣れりゃ、勝手に呼吸が整う」

「……私、今日、そんなにダメですか?」杏奈は俯いた。

 上岡は珍しく目を合わせる。

「ダメなら任せてない。“できる部分”があるから言ってるんだ」

杏奈の胸が跳ねる。上岡の言葉は淡泊なのに重みがある。


                 +++


◆ 14:50 ― 午後の乗務・改善

 午後の乗務で、再び補助放送を任された。杏奈は深呼吸し、腹から声を押し出すようにして話す。

「次は○○です。お出口は右側です。」

 落ち着いた声。震えない。語尾もはっきり言い切れた。杏奈はほっと息を吐いた。

一瞬、上岡の眉がほんのわずか動く。

「……今のは良かった。その調子でいけ」上岡の褒め方は最小限。それでも、逆にその事が嬉しかった。


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◆ 17:05 ― 終了作業

 乗務を終えて帰庫し、車内に残って点検を済ませる。後のデッキで上岡が杏奈の記録台帳を見る。赤ペンが走り、短く評価が書かれていく。

「まとめるぞ。・ホーム監視、午後は安定・放送、午後は合格・客対応、声量不足だが判断は正確」上岡の読み上げに杏奈は感謝を口にする。

「ありがとうございます」

「明日も同じことをやる。反復だ。見習いのうちは“伸びしろ”が最大の武器なんだからな」上岡は、しれっとした声で言うけれど、それは杏奈にとって、今日一番のご褒美だった。


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◆ 17:40 ― 点呼・退勤

 杏奈はロッカー室に戻って来た。

自分のロッカーを開けて制服を脱ぐと、肩がぐったり重い。でも足取りは、不思議と軽かった。

――怒られ、指摘され、また怒られ。

 でも確かに、少しだけ“出来た事”がある。ロッカーの扉を閉める直前、杏奈は小さく呟いた。

「上岡さんの言い方って……ずるいなあ……」

 厳しいのに、心に引っかかる。その理由はまだわからない。

でも――また明日、頑張ろうと思えた。


                +++++


■■ 見習い車掌・上岡視点の裏話

(杏奈と同じ一日の裏側)


■05:35 ― 出勤直後

 点呼室に入ると、名簿の端に“見習・高坂杏奈”の欄がある。

――今日か。

 あの小柄で、声の出し方にクセのある新人。不器用でも根は素直、そんな印象を受けていた。

 ただし、乗務は“印象”では務まらない。事故は一瞬の油断で起こる。だから容赦はしないし、それが指導の型だ。

 新人の指導員が一歩遅れて入ってきて、問いかける。

「上岡さん、今日から高坂さんの指導ですがどうです?」

「どうもこうも、やる気があれば伸びる。なけりゃ手を離すだけだ」

 必要以上の感情は言わない。その方が相手に余計な期待を持たせないで済む。新人の指導員は苦笑しながら「よろしくお願いします」と言って去って行った。


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■ 06:20 ― ブリーフィング

 高坂は時間ぎりぎりの到着だった。表情は硬く、手帳をやたら強く握りしめている。

――緊張しすぎだな。

 高坂の様子を見て上岡が感じた第一印象だった。彼女の読み上げは悪くない。声は細いが、内容を覚えようとする意欲は確かにある。

 ただ、「“読むだけ”じゃダメだ」と上岡が言ったのは、彼女の声が揺れていたからだ。

 揺れる声で放送されると、客の不安は一気に連鎖する。事故の現場を見たことのない新人には想像しにくいが、“プロ”の声には責任が乗る。

だから上岡は厳しく言った。

――気づけ。お前はもう、ただの見習社員じゃないんだ。そう思いながら。


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■07:12 ― ホーム監視

 柱の死角を示した時、高坂の目が一瞬で動いた。

(お、反応は悪くない。)上岡は、しかめたような顔をしていたけれど、その実、彼女は注意点にすぐ反応できるタイプだと気付いていた。

 ただ、「えっと……」と高坂は戸惑いながら話し出す。これだけは直させたい。乗務中の“えっと”は、判断の遅れであり危険信号だ。

上岡の指導に力が入った。


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■ 08:30 ― 補助放送(失敗)

 震えた声。彼女自身が一番悔しそうだった。

――練習と本番の差か。

 上岡は怒るよりも冷静に伝える。「震えてる」と指摘したのは、彼女を萎縮させるためではなく“事実だけ”を返しただけだった。

乗務は感情論では動かない。状況判断と客心理の把握がすべてだ。

 ただ、マイクを置くときの彼女の指先が小さく震えていたのが、妙に胸に残った。

あれは、悔しさの震えだった。


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■10:45 ― トラブル発生

 動きは拙いが、判断は正確だった。

――声量さえあれば、かなり実戦向きだな。

上岡はそう思ったので、“惜しい”と言った。褒めることに慣れていないから、どうしても表現が硬くなる。

だが、「判断は良かった」ここだけは本心からだった。


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■ 12:20 ― 休憩

 上岡は、控室で一人で昼食を取ろうとしていたら、隣のテーブルに高坂がぽつんと座っていた。

弁当箱は開いているのに箸が止まったままだ。

――胃が、固まってるな。

 新人が同じ状態になるのは何度も見て来た。これは上岡だけに限った事では無かった。厳しく指導すれば、見習いは当然こうなってしまう。

だから、黙ってお茶を置いた。

「飲め。声が乾いてる。」

 言葉は荒いが、それで十分だと思った。褒めるのはまだ早い。甘やかすのも違う。ただ“倒れないように”だけは、気を配る。それが見習いを預かる者の義務だ。


 彼女が「そんなにダメですか」と聞いた時は驚いた。

――ダメな新人を、わざわざ朝から放送させたりしない。

 だから、淡々と言った。「出来る部分があるから言っている」その真意が彼女にどう届いたかは分からない。ただ、あの一瞬だけ、彼女の目が柔らかくなった気がした。


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■ 14:50 ― 午後の改善

 高坂の午後の放送は見事だった。声が震えず、内容も安定していた。“やれば出来る”と言うより、“伸びる素質がある”そう感じられる変化だった。

 だから短く言った。「今のは良かった」それ以上足すと、彼女が力んでしまう気がしたから。


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■ 17:05 ― 評価の記入

 赤ペンで評価を書く時、“午後は合格” と書くのに迷いはなかった。

ただしその横に、“明日も同じことをやらせる”そうメモを残した。反復こそ力になる。彼女が明日くじけなければ、もっと伸びる。


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■ 17:40 ― 退勤直後

 高坂の帰庫する背中は、朝よりずっと軽く見えた。

――なんだ。ちゃんと伸びるじゃないか。

 そう思いつつ、ロッカー室に向かう高坂の背中をぼんやり見送る。

 新人の育成は面倒だし手間もかかる。でも、今日の彼女の一歩は、確かに“指導員の手応え”になっていた。

 上岡は小さく息をつき、自販機の缶コーヒーを開けた。

「明日も、同じ所からだな……」それは、誰にも聞かれない独り言だった。


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◆◆ 見習い車掌・翌週編

(上岡が少しだけ評価する日)


◆ 06:18 ― 出勤、緊張の月曜日

 出勤すると、点呼室の入り口で他の指導車掌が笑いながら言った。

「高坂ちゃん、先週より顔に力あるじゃないか」

「はい、ちょっとだけ、慣れてきた気がします」杏奈は、そう言いながらもドキドキしていた。

 上岡の指導は厳しい。だけど“逃げたくない”と思わせる何かがある。

点呼簿にサインを終えた瞬間、後ろから低い声がする。

「時間ぴったり。悪くないな」

 振り返ると上岡がいた。表情はいつもと変わらない。

けれど――いつもより一言多い気がした。

「おはようございます。今日もよろしくお願いします」杏奈の挨拶に上岡は軽くうなずいた。


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◆ 06:40 ― ブリーフィング

 台帳を開きながら、上岡は淡々と確認を始める。

「混雑区間はどこだ。言ってみろ」

杏奈は手帳を見ずに答える。

「○○駅〜□□駅の間が最混雑で、工事区間の遅延情報が……」言い終わる前に、上岡がわずかに頷いた。

「覚えてきたな。“読むだけ”の新人じゃなくなった」

「!」杏奈は思わず顔を上げてしまう。

 上岡は視線を落としたままだが、杏奈には分かった。

――これ、褒められてる!?

杏奈の胸の奥が熱くなる。心の中で密かにガッツボーズを取っていた。


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◆ 07:15 ― ホーム監視・小さな変化

 ホームに着いた瞬間、上岡が確認する。

「死角は」

「今日は……この柱の裏と……ここからの人の流れが分散しているので、注意点は二カ所です」杏奈が言った瞬間、上岡がふっと短い息を吐く。

「判断が早くなった。ホームは“毎回違う”っての、ようやく理解して来たな」

 声のトーンこそいつもと同じだが、明らかに機嫌が良い。

杏奈は思わず背筋が伸びた。


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◆ 08:50 ― 補助放送・確かな成長

 乗客がやや落ち着いた区間に差し掛かった。

上岡が言う。

「放送をやれ。昨日の復習を思い出せ」

「はい!」杏奈は、マイクを持ち、腹から声を出す。

声は震えない。乗客の視線も怖くない。意識するのは、言葉の“落ち着き”だけ。

「次は○○です。お出口は右側です」

 放送を終えると、上岡がちらりと横目で見て言った。

「十分だ。俺が手を出すほどじゃない」

「……!」杏奈は上岡を見ると固まってしまった。上岡にとって“十分”は最高級の誉め言葉だ。それを知っている杏奈は、胸がじんと温かくなる。


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◆ 10:20 ― さりげないフォロー

 比較的混雑した駅に到着した。乗換と観光客の多い駅で、外国人のお客も多いところだった。

 扉を開けてホームに立つと、乗換をする乗客からの質問が重なり、杏奈が少し慌てだした瞬間、上岡が横からすっと入って、丁寧に案内を整えてくれた。

 対応が終わると、杏奈はほっと溜息をついた。二人が乗務員室に戻る時に上岡が短く言う。

「焦ったらゆっくり息をしろ。お前、息が止まるクセがある。でも判断は間違えてなかった」

「はい、ありがとうございました!」

 上岡の言い方はぶっきらぼう。だけど――守ってくれている、と杏奈は感じてしまう。自分でも理由がわからないけれど、そんな上岡の背中はやけに頼もしく見えた。


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◆ 12:30 ― 昼休憩、ささやかな変化

 控室で弁当を広げた所に、昨日と同じように上岡がペットボトルのお茶を置いた。

「今日は声が、乾いてないな」

「えっ……あ、はい」

 まさか上岡に声の調子さえ見られているとは思っていなかった。杏奈は内心ドキドキしていた。

「放送もホームも、安定して来た。“意識して”やれてるのが良い」

 それだけ言って、上岡は自分の席に戻る。テーブルには同じペットボトルのお茶が置いてある。

 杏奈はお茶を見つめる。

――これって、すごく優しい……?でも気づかれたら怒られそうなので、杏奈は胸の中にだけしまった。


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◆ 15:40 ― 午後の乗務・もっと任される

 午後の区間で上岡が突然言う。

「次の駅から閉扉まで全部やれ。監視、放送、動作確認。俺は後ろで見る」

「全部……ですか?」上岡の発言に杏奈は戸惑いを見せた。

「出来るだろ。やらせるってことは、そういうことだ」上岡のぶっきらぼうな言葉、だけど、確かな信頼を寄せてくれている。

杏奈の心がふわっと軽くなった。


 実際の閉扉までの一連の動作は、まだまだぎこちない。でもミスは無かった。上岡の口元がほんのわずかに上がった。

「……よし。今日のは“見習いじゃなくて”乗務員の動きだった」

杏奈は、上岡の発言に言葉を失う。それは、今までで一番大きな評価だった。


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◆ 17:00 ― 終了作業・赤ペンの色が違う

 帰庫点検を終えた後、上岡は杏奈の記録台帳に赤ペンを走らせた。今日の評価欄にはこうあった。

「ホーム判断・良」「放送・安定」「閉扉動作・自主性あり」

 杏奈は思わず声が漏れる。「じ……自主性、あり……?」

「当たり前だろ。勝手に褒めると思うなよ。“出来た時だけ”書くんだ」上岡がかすかにほほ笑んだ。

「はい!」杏奈の胸が熱くなる。目が少し潤む。でも絶対見られたくないので、背を向けて深呼吸した。


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◆ 17:35 ― 退勤、背中越しの一言

 ロッカー室へ向かう時に上岡が歩きながら言った。

「高坂。来週には“監督付きで”一本通しでやらせる。お前なら出来る」

「が、頑張ります!」

「頑張るんじゃない。“準備してこい”。仕事は頑張りじゃない手順だ」


 上岡とロッカー室の前で別れた後、その言葉が胸に残る。上岡は厳しいのに優しい。冷たいのに温かい。

――上岡さんって……やっぱりずるい。

ロッカーの扉を閉めながら、杏奈はそっとつぶやいた。


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◆「初めての一本通し乗務(指導付き)」――杏奈編

 朝の点呼場に入った瞬間、杏奈は胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。

 今日、ついに――一本通しの乗務となった。

もちろん上岡指導車掌が横に立つし、全てを任されるわけではない。それでも、「一つの乗務を最初から最後まで担当する」という響きは、見習いにとって特別な意味があった。

 上岡は点呼台の前で資料を確認しながら、ちらと杏奈を見た。

「緊張してるな、高坂。顔に出てるぞ」

「はい。でも、頑張ります!」

「意気込みはいい。だが“張り切りすぎて確認を飛ばす”のが一番危ない。今日はそこだけ注意しろ」

 上岡の言葉は厳しいが、声の奥にわずかな期待があることを杏奈は感じ取っていた。

 この一週間、上岡の指導は相変わらず細かく、妥協のないものだった。それでも――杏奈が必死について行こうとしていることを、上岡はきっと気づいている。


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◆ 発車前 ― 緊張のブリーフィング

 乗務室に入ると、車内はまだ静かで、朝の鉄の匂いがした。

杏奈は手順書を確認し、ブザー、無線、案内放送のテストを行った。いつも通りの作業なのに、少しだけ手が震える。

「高坂、深呼吸してからやれ。焦るとミスに直結する」

「……失礼しました」

「いい、落ち着いてやれ。今日は“ゼロから百まで”俺が見てる。何かあれば絶対フォローする」

 その一言に、杏奈の肩がふっと軽くなる。

 上岡がこう言うのは珍しい。だからこそ、嬉しかった。


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◆ 始発 ― いよいよ一つの乗務

 列車が動き出した瞬間、杏奈の喉が乾いた。

 車掌室のドアからホームの様子を確認する列車の流れが加速すると振動が足裏に伝わる。

「さあ、最初の駅。ドア扱いは任せる」

「はい!」

 ブレーキ、接近放送、ドア操作。

 杏奈は、頭の中で必死に手順を積み上げ、ひとつも落とさないように集中する。

 ドアが閉まった瞬間、車外のモニターの映像を確認し、手元の計器に目を走らせる。

 上岡が横目でじっと見ているのがわかる。

(……こわい。でも、絶対にやり切る)

 列車がホームを離れると、小さな声が横からした。

「……悪くない。落ち着いてたな」褒め言葉ではない。それでも、杏奈には、それだけで十分だった。


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◆ 中盤 ― 想定外のハプニング

  区間の中ほど、学生が多い駅でドア閉め直前、ホームから一人の高校生が駆け込んで来た。

 乗った瞬間に、彼はスマホを落として屈み込む。

(まずい、ドア閉めのタイミング……!)杏奈が判断に迷った一瞬――

「待て、ドア閉めるな」低く鋭い声。上岡が非常ブザーに指を添えたまま、ホーム監視モニターをにらむ。

 高校生が立ち上がり体勢を整える。杏奈と上岡がその姿を確認し終える。

「ドア扱い、再開しろ」上岡が静かに言う。

「はい!」杏奈は深く息を吸い、再度確認してドアを閉め、発車操作に入る。

 列車がゆっくりと走り出した。ホームを抜け通常の速度で走り出す。杏奈は去っていくホームを見つめて詰めていた息を吐いた。

だが、すぐに上岡が口を開いた。

「高坂、迷ったな」

「すみません……」

「謝るな。いい経験だ。こういう時は“閉めない”ほうが安全だ。迷ったら安全側を優先する。それだけだ」叱責ではなく、淡々とした指導。そんな指導がここの所、特に増えていた。杏奈は胸の奥がじん、と熱くなるのを感じた。


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◆ 終点 ― 始発から終着迄の乗務をやり切って

 終着駅のホームに滑り込むと、杏奈の背中は汗でじっとりしていた。

ドア扱い、終着放送、降車確認、施錠。すべての作業を終えた瞬間、緊張の糸がぷつんと切れたように膝が軽く震えた。

 上岡がメモ帳を閉じる。

「……お前なりによくやった。一週間前とは別人だ」

「えっ……」

「もちろんまだ荒いところはいくらでもある。だが、通しで乗務を任せられる最低ラインは越えてきた」

 杏奈は胸に熱いものがこみ上げ、思わず姿勢を正す。

「ありがとうございます……!もっと頑張ります!」

「当たり前だ。見習いはここからが本番だ」

 そう言いながらも、上岡の口元にはいつもの冷たさではない、わずかな緩みがあった。


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◆ 控室への帰り道

 制服の襟を整えながら杏奈は歩く。

 始発から終着迄の通しでの乗務、失敗もあったし、迷いもした。でも、確かに一歩前に進めた。

 背後から上岡の足音が近づく。

「高坂。今日の事、必ずノートにまとめろ。次に生かすためにな」

「はい!」

「それと」杏奈が振り返ると、上岡は少しだけ視線をそらして言った。「……よく頑張った」

 杏奈の胸いっぱいに、温かい達成感が広がった。

 見習いの日々はまだ続く。けれど今日、一つの列車を通して見た景色は、間違いなく彼女の“最初の一歩”になったのだった。


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◆杏奈の成長編 ― 「見習いの壁、その先へ」

 始発から終着迄の乗務を終えて数日。杏奈は控室の片隅で、指導ノートをめくりながらため息をついた。

 ページの端には、上岡の字でびっしりと赤い書き込みが並んでいる。

「判断が遅い」「確認の声が小さい」「動作に迷いあり」

 厳しい言葉ばかりなのに、落ち込むというより、むしろ今はそれを見るのが少し楽しい。

(始発から終着迄の乗務の日“よく頑張った”って言ってもらえたんだよね)    あの日以来、何かが少しだけ変わった。上岡が優しくなったわけではない。むしろ指摘の細かさは前より増している。でも、視線の奥に「期待」がある。それが杏奈の背中を押していた。


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◆ 朝 ― 確認と準備の精度が上がる

 朝の乗務の確認作業で上岡が口を開いた。

「高坂。昨日の復習はしたか?」

「地下鉄直通区間の案内放送、言い回しを覚えました!後、ホームカメラの“死角”になりやすい場所も自分で整理しました!」

「……ほう」上岡の眉がほんの少しだけ上がる。

(やった……)前は指摘された内容を受け止めるだけで精一杯だったが、今の杏奈は “何を改善すべきか自分で探せるようになって来た”。

 それに気づいた上岡は、あえて説明を少なくして、杏奈に考えさせるようになった。

「今日の一区間は、俺はほとんど口を出さん。自分で判断してみろ」

「……はいっ!」

 緊張より、挑戦したいという気持ちが勝っていた。


                 +++


◆ 乗務 ― 見習いから“乗務員”らしい目線へ

 列車がホームに滑り込む。杏奈はモニターをにらみ、乗車してくる人々の動きを見ていた。

 白杖を持つ高齢の女性。部活帰りの学生たち。ベビーカーを押す親子連れ。

(この人はベビーカーの向きが危ない……あの学生たちは閉め直しになる可能性が……)

 以前は“動作手順を忘れないようにする”ことで頭がいっぱいだったのに、今は “乗客全体の動きを俯瞰できる” ようになっている。ホームのカメラの映像が変わる瞬間、杏奈は動く。

「……安全よし、閉扉」スムーズで、迷いがない。ドアが閉じて発車してから、横の上岡がぼそっとつぶやく。

「判断、良かったぞ」

 それだけなのに、心の中がじんと熱くなる。


                 +++


◆ 想定外への対応 ― 成長が見える瞬間

 ある駅で、駆け込み乗車をしようとした乗客が走り出した。

(これは……待ったほうが安全!)

 杏奈はすぐに閉扉を保留し、ホーム監視に集中する。

 危険な動きが収まるのを確認してから、慎重に扱いを再開した。

「高坂、今の判断はどうしてそうした?」

「勢いがあって、乗り込んだときにバランスを崩しそうだったので、きちんと乗り込むまで待ちました……安全側に倒しました」

「理由まで説明できるのは成長した証拠だ」

 短く褒められたが、杏奈はこっそり拳を握る。

(やっと……考えて動けるようになってきた)


                 +++


◆ 休憩室 ― 上岡との距離が変わる

「……あの、上岡さん。私、少しは“乗務員らしく”なれてますか?」

 杏奈の問いに、上岡はペットボトルの水を飲みながら、ふっと小さく笑った。

「らしく“は”なってきたな」

「は……?」

「車掌はな、技術や知識だけじゃない。“安全のための考え方”が身につかないと一人前じゃない。お前はその考え方がようやくでき始めた」

 それは杏奈が密かに一番求めていた言葉だった。

(認められてる……)頬が熱くなるのを必死に抑える。

 上岡は立ち上がり、制服の裾を整えて言った。

「だが満足するなよ。見習いの成長期はまだまだ続く。次は“単独で担当する一区間”だ」

「単独……!」

「今日の出来なら挑戦できる。覚悟しておけ」

 そう言って歩き出す上岡の背中は大きく頼もしい。と杏奈は思っていた。


                 +++


◆ 夜 ― 杏奈のノートに増える“気づき”

 帰宅後、机に向かってノートを書く。ページはぎっしりで、ペンは止まらない。


迷ったら安全側


先に「動線」を見る


慌てず、必ず声に出して確認


ホームの死角は駅ごとに違う


乗客の層でドア閉めタイミングを調整する


 今までは“怒られた事”を書いていたノート。最近は、そこに“自分で気づいた事”が増えた。

(私、本当に成長してるんだ……)灯りの下で、杏奈は静かに笑った。


                 +++


◆ そして次のステップへ

 見習いとしての日々はまだ続く。でも、杏奈はもう以前の“ただ不安なだけの見習い”ではない。判断が出来る。周りを見られる。失敗の意味を自分で考えられる。

 そして明日――ついに “短い一区間、単独担当” の許可が出る。

(絶対、成功させたい。上岡さんにも、胸を張れるように)そう思って、杏奈はノートを閉じた。


                 +++


◆「初・単独区間」――上岡と車掌区が見守る朝

 その日の朝、車掌区の空気はどこかソワソワしていた。

というのも、見習いの高坂杏奈が――ついに “単独で1区間を任される” からだ。本人はまだ気づいていないが、区のベテラン達はこういう日は妙に優しい。点呼場の奥で新聞を読んでいる他の車掌も、横目で杏奈をちらちら見ている。

「……今日か、上岡のとこの子」

「だな。あの子、最近顔つき変わったよな」

「緊張で倒れんなよって祈っとくか」

 ベテラン同士の声は小さいが、温かかった。


                 +++


◆ 点呼前――“宣言”の瞬間

 上岡は時間ぴったりにやってきた杏奈を見て、腕を組んだまま言った。

「今日は、一区間だけ単独でやらせる」

 杏奈の目が大きく開く。

「えっ……私、ですか?」

「他に誰がいる。準備はしてきたんだろう?」

「して来ました……!」

「なら問題ない。自分の判断でやれ。ただし“迷うなら安全側”だけは忘れるな」

 厳しい口調なのに、目は少しだけ誇らしげだった。

そのやり取りを、近くにいた他の車掌が横目で見ていた。

「上岡も、だいぶ入れ込んでるな」

「いや、珍しく褒めてたぞ。期待してるんだよ」

「そりゃ見たわ。あの子、育て甲斐ありそうじゃん」

 杏奈には聞こえない距離で、そんな会話が続く。


                 +++


◆ 乗務開始――単独区間を前にした緊張

 車掌室に入ると、杏奈の手は少し汗ばんでいた。上岡は横に立ち、いつもの厳しい態度で確認を始める。

「操作手順、復唱」

「ホーム監視、確認ヨシ……案内放送ヨシ……」

「声が小さい。もう一度」

「……ヨシ!」

 緊張が声に出ている。けれど、動作に迷いはない。

電車が走り出し、いよいよ問題の区間に入る。

「次の駅、高坂単独でやれ。俺は口は出さん」

「……はい!」

 杏奈はモニターに視線を固定した。


                 +++


◆ 初・単独区間――杏奈の“決断”

 電車が減速し、ホームが見えて来る。杏奈はモニターの映像を食い入るように見つめた。学生の下校時間帯、乗客が流れ込むタイプの駅だ。

(死角は……左側の柱の影……ラインで詰まってる人……)

 電車がホームに完全に停止した。杏奈は大きく息を吸い、放送を入れる。

「◯◯です。お出口は右側です」

 ドアが開くと乗客の流れを見ながら、杏奈は少し早めに注意モードに入った。

 そのタイミングで――ベビーカーの親子が乗り込もうとして、車輪がわずかにホームの段差に引っかかる。

(閉扉タイミング……ずらしたほうが良い!)杏奈は 指示を待たず、ホーム監視を続けて閉扉準備を保留にする。

 やがてベビーカーが無事に乗り終え、周囲も落ち着いたところで、杏奈は小さくうなずいた。

「安全よし……閉扉」少しだけ慎重すぎるくらいのタイミング。けれど――“安全側の判断”としては満点。

電車が発車した瞬間、上岡が静かに息を吐いた。

「……よし」

 それを聞いた杏奈の肩がすっと緩む。嬉しさでもあり、安堵でもあった。


                 +++


◆ 終着後――車掌区に戻ると

 控室に入ると、雑談していた先輩たちの視線がふっと杏奈に向いた。

「お、戻って来たな」

「どうだった、単独区間?」

 杏奈が驚いて瞬きをする。まさか、みんなが知っているとは思っていなかった。

「あ、えっと……なんとか……」

「なんとか、じゃねぇよ。ちゃんとやってたぞ」

 奥で腕を組んでいた車掌が言った。

「柱の死角もよく見てた。危ない乗客も見てた。迷ったら安全側――出来てたじゃねえか」

「……え……見てたんですか?」

「上岡が“今日任せる”って言った時点で、そりゃ気になるだろ」周りが笑う。

「お前、もうすぐ“見習いの壁”越えるな」

「期待してるぞ、高坂」

 それは、杏奈が思いもしなかった祝福の輪だった。


                 +++


◆ 指導者・上岡の言葉

 最後に上岡が近づいて来た。

「高坂」

「……はい!」

「今日の判断は良かった。特に閉扉のタイミング。安全側の見極めが出来ていた」

 普段なら淡々とした評価のはずだが、今日は目が優しい。

「ここからは“実戦に慣れる”段階に入る。ひとつずつ積み重ねろ」

 杏奈が目を輝かせてうなずくと、

「……まあ、見習いにしては上出来だ。良くやった」

 上岡が照れ隠しのように視線をそらして言った。その瞬間、杏奈の胸に温かいものが満ちていった。

(私、本当に……車掌になれるのかな)初めて、実感が芽生えた。


                 +++


◆ 夜、ノートに書いた言葉

 帰宅後、杏奈はノートを開いて、今日のまとめを一行だけ大きく書いた。

「判断するのは怖い。でも“安全のために決める”のが車掌の仕事。」

 そして、その下にそっと書き足す。

「次は……もっと自信を持って。」


つづく

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見習い車掌のある一日 ― 高坂 杏奈編(指導:上岡) 蓮田蓮 @hasudaren

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