ただ、普通の恋がしたかった
如月
第1話 推し
"推し"というのは、自分とは違う世界に立つ、自分が夢中になれる人や物のこと。"恋愛"とは違う。違うはずなのに__
「アイドルの翠さんが、公式アカウントにて結婚したことを発表しました。相手は一般人女性とのことで__」
推しの幸せを願う"ファン"が、どうして熱愛報道を見ただけで勝手に虚しくなって、勝手に悔しくなるのだろう。"推し"と"恋愛"は違う。私は"リアコ"でも"ガチ恋勢"でもない。
「違う…のにな」
夕飯を食べる手を止めてリモコンを手に取り、テレビの音量を上げた。けれど、内容は何一つ入ってこない。片耳から情報が入って、もう片方の耳から情報が抜けていくように。頭の中には、何一つ情報が残っていない。私はテレビの電源を切り、スマホを操作しながらため息をつく。
「一般人女性、ね」
私はスマホの電源を入れ、翠のSNSを確認する。翠、それはソロでアイドル活動をしている、私の推し。デビュー当時から応援してたから、彼への愛は誰にも負けるつもりはない。…もちろん、彼の妻にも。
いや、実際に話したことも、会ったこともない奴が、彼と同じ場所で過ごしてきた妻よりも彼のことを愛している…なんて言えるのだろうか。
…言えない。言えるわけがない。
スマホでニュースを見ながら放心状態でいると、彼の公式アカウントが新しい投稿をしたと通知が来た。
癖で反射的に手が動き、投稿の内容がスマホの液晶に表示される。
【明日はキャンプ】との大きな見出しに、彼とモザイクがかかった妻らしき人のツーショット写真。結婚報告の投稿は…昨日投稿されている。何でだろ、見てなかったな。
「キャンプ…か」
リビングから、庭の物置に目を向ける。
確か…一年前くらいだっただろうか。キャンプに興味を持って道具を一式買ったけど…結局一回しか使ってない、暗闇に置かれたキャンプ道具の数々。完全に忘れてた。
彼の投稿を普通に解釈すれば、明日キャンプに行くんだよね。私もキャンプに行けば会えたり…
「…ないない」
この世にキャンプ場は幾つあると思ってるんだ。かなりの運がないと、そんなの不可能。
…けど、少し身体を休めたいのは事実。自然に囲まれてゆったりのんびり過ごせば、少しくらい回復するような気がするし。丁度明日から長期の休みに入る。大学が何とかって言ってたけど、覚えてないや。
「星見キャンプ…だっけ」
近場にキャンプ場があった覚えがある。夜になると空に星空が果てしなく広がっていて、虫も少ないから虫嫌いな私でも行きやすい。
温泉もあるし、明日行こうかな。
「よし、準備するか」
これは、翠目当てではない。…ただ、身体を休めたいだけ。それだけだから。
――――――――――――――――――――
鮮やかな緑色を眺めながら、車で山道を走る。"星見キャンプ場"と大きく書いてある看板が見えた瞬間、ワクワクが止まらなかった。安定していない道だから車が大きく揺れるけれど、それもまたいい。
「うわ、めっちゃ空いてるじゃん」
駐車場には片手で数えられる程度…いや、ないに等しいくらいしかなかった。きっと業者とかそういう人たちの車だろう。
受付に行くと、優しいお爺さんが紙に何かを書いていた。こちらに気付いたのか、手を止めてペコリと一礼。私も返すように一礼し、受付へ向かう。私の周りのキャンプ道具に目を向け、ニコリと微笑んでくれる。
「おはようございます。キャンプ利用ですか?」
「おはようございます。はい、久しぶりにキャンプしようと思いまして」
「いいですね。キャンプ利用の方は温泉の利用も可能ですので、お使いください。薪はそちらに__」
ゆっくり淡々と話すお爺さんは、とても優しい目をしていた。テンポはゆっくりだけど、不快感は感じなかった。逆に、落ち着ける。
薪の場所や値段、利用する上での注意点など一通りの話が終わり、私は荷物を持って場所を探す。この木の奥は立ち入り禁止だから…
「ここにしよっと」
受付から少し離れた、風が涼しいところ。木々が風に吹かれる音が、とても気持ちいい。リラックスできそうだな。
「コーヒー淹れて…何しよう」
今だけは、仕事も、熱愛も、嫌なことは何も考えなくていい。いや、考えるな。考えたら負け。
「本とか読んでみようかな」
受付横に本とか漫画が置いてある場所がある。温泉施設利用者が大体使うらしいけど、キャンプしながら読むのも大丈夫らしいし。
私は慣れない手つきでテントを立て、荷物を置いたら再度受付へ向かう。テントは…自分含め三つしか見当たらない。結構古いキャンプ場だし、年寄りが多いな。
――――――――――――――――――――
「本借りますね」
受付にいるお爺さんにそう伝えると、優しい目でコクリと頷いてくれた。私は気になっていた漫画を数冊抱え、外に出る。
テントに戻って一段落した、その時だった。
駐車場の方に、男女二人の影が見える。男の方は、信じられないくらい…いや、確実に見覚えがあった。だってあれは__
「…翠?」
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