チープヒーロー

四ノ羽 ガラス

第1話~ヒーロー

 最初は、1本の動画だった。


 ビルの谷間。

 夕方の空を切り取ったような、不安定な縦画面の中で、男が落ちていく。


 悲鳴。

 風切り音。

 そして――止まる。


 男は、空中で“止まった”。


 誰かに掴まれたわけでもない。

 ワイヤーが張られていたわけでもない。

 ただ、物理法則の都合だけが、そこから切り落とされたようだった。


 次の瞬間、画面の端から青年が現れる。

 細身で、どこにでもいそうな顔。

 記号になる前の、人間の輪郭。


 彼は片手で落下者を抱え、

 もう片方の手で、壁を軽く叩いた。


 ――それだけで、二人は地面に立っていた。


 動画はそこで終わる。

 拍手も歓声もない。

 ヒーローの決め台詞もない。


 ただ、画面の向こうで、誰かが震える声で言った。


「……助かった」


 それが、始まりだった。




「再生数、えらいことになってるな」


 鐚一文びたいちもんは、度の入ったサングラスをわずかに下げ、

 事務所のPC画面を見つめたまま言った。


 書類棚とデスク。

 年季の入ったソファ。

“報告屋リッチマン”の事務所は、今日も変わらず静かだった。


「ねぇ、ビタくん」


 背後から、助手の少女――銭屋泡ぜにやあぶく


「これさ……なんか、軽くない?」


「何がだ」


「助かり方」


 一文は、一拍だけ置いた。


「……演出がない、という意味か」


「ううん」


 泡は画面を覗き込み、首を傾げる。


「“命”が、すとんって戻ってきてる感じ。

 重たいはずなのに、音がしない」


 一文は再生を止めた。


 泡の言葉は、いつもそうだ。

 理屈よりも先に、核心に触れる。




 三日後。


 青年は、正式に“ヒーロー”と呼ばれていた。


 朝の情報番組。

 昼の速報ニュース。

 夜のまとめ動画。


 名は伏せられたまま、

「正体不明の救世主」

「現代の奇跡」

 そんな言葉だけが、勝手に増殖していく。


 助けられた男は、病室で泣きながら語った。


「……怖かった。でも、気づいたら地面に立ってて……

 生きてるって、こういうことなんだって」


 画面の隅で、青年は拍手を浴びていた。

 視線を落としたまま。


 それが、謙虚だと称えられた。


 *


「慣れてないだけだな」


 一文は、取材用に編集された映像を見ながら言った。


「ヒーローに?」


「世界にだ」


 泡は、ソファの上で足を揺らす。


「でもさ、いいよね」


「何がだ」


「助けられる側も、見る側も。

 “ちゃんと終わる話”だって思えるから」


 一文は答えなかった。


 ――終わる話。

 そんなものは、ほとんど存在しない。


 *


 一週間後。


 朝の通勤時間帯。

 郊外の幹線道路で、多重事故が起きた。


 横転したトラック。

 折り重なる車。

 立ち上る煙。


 現場に駆けつけた人々の中に、青年の姿があった。


 映像は荒く、断片的だった。

 それでも、“また現れた”という事実だけで、

 空気は一気に熱を帯びる。


「ヒーローだ!」

「来てくれたんだ!」


 結果だけが、先に流れる。


 死亡者、三名。

 負傷者、多数。


 そして――

 救助された生存者、一名。


 *


 だが、その夜のニュースは、こう締めくくられた。


「最悪の状況の中で、命が救われたのは、奇跡と言えるでしょう」


 画面には、ストレッチャーで運ばれる女性。

 その背後で、立ち尽くす青年。


 ライトを浴びた彼は、

 疲れているようにも、

 安堵しているようにも見えた。


 *


「……英雄だね」


 泡が、ぽつりと言った。


「まだな」



 窓の外では、

 誰かが今日も動画を回し、

 次の“奇跡”を待っている。


 *


 事務所の電話が鳴った。


「はい、報告屋リッチマン」


 依頼だ。


「“例のヒーロー”の実態調査。ちょっとした密着レポート、だな」


「物好きな依頼主だね」


「いつもの事だ」


「でもさ」


 泡は、少し楽しそうに笑う。


「こういうのって、大体あとから“重く”なるよね」


 一文は、掃いて捨てるようにつぶやいた。


「……もしくは、塗り固められたメッキだ」


 ――世界はまだ、彼を讃えている。

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