鼻毛、あるいは複数の自己の断罪について

不思議乃九

鼻毛、あるいは複数の自己の断罪について

鏡の中に、一人の怪物がいる。

いや、「怪物」と呼ぶのはあまりに安直で、そしてあまりにロマンティックすぎるかもしれない。


そこに映っているのは、単なる「属性の過密地帯」だ。世界観構築者、詩人、俳人、作詞家、小説家、脚本家、ラッパー、フリースタイラー、戯曲家、哲学家、思想家、そして創作家。


これらすべての言葉は、一個の肉体に宿るにはあまりに重すぎる。言葉の一つ一つが巨大な惑星のような質量を持ち、その重力によって、中心にいるはずの「私」という個体は、今にも引き裂かれようとしている。


私は、右手の親指と人差し指を鼻の穴へと滑らせる。

そこで指先が捉えたのは、一筋の抵抗だ。粘膜の湿り気を帯びた、一本の、しかし強固な「鼻毛」である。


第一章:フィルターとしての表現者


鼻毛とは、第一に「境界」である。

外部の塵や埃を食い止め、肺という聖域を守るための防波堤。それは、世界観構築者が虚構と現実の間に引く境界線に似ている。あるいは、詩人が日常の言葉を濾過し、結晶のような一節を抽出するその「濾過器」そのものだ。


私はその一本を指先で強く摘まむ。

これだけの肩書きを背負った人間にとって、呼吸とは単なる酸素の供給ではない。それは「世界の摂取」だ。ラッパーとして街のノイズを吸い込み、思想家として時代の毒を吸い込み、脚本家として他者の人生の体臭を吸い込む。


そのあまりに膨大な「入力」を、この鼻毛たちは命がけで選別してきた。鼻毛を一本抜くという行為は、いわば自分を守ってきたフィルターを自らの手で破壊し、無防備な肉体を剥き出しにする「実存的テロ」に他ならない。


第二章:痛みと韻律(ライム)


指先に力を込める。一瞬の静寂。

そして、鋭い一撃とともに、鼻毛は根こそぎ引き抜かれた。


「――っ」

声にならない呻きが漏れる。鼻腔の奥で、小さな、しかし鮮烈な火花が散る。涙がじわりと、右の目尻から溢れ出す。


この痛み。これこそが、フリースタイラーが即興の渦中で脳を焦がすあの熱量であり、俳人が季語の一閃で世界を切り取る瞬間のあの痙攣だ。


哲学者は問う。「なぜ痛みがあるのか?」と。

しかし、創作家は答える。「痛みがなければ、そこに境界はない」と。

この一本の毛が、私の粘膜に深く根を張っていたという事実は、引き抜かれる瞬間の痛みによってのみ証明される。私がこれほど多くの肩書きを自称し、言葉を紡いできたことも、それによって魂が磨耗する「痛み」を感じているからこそ、私は自分が生きていると確信できるのだ。


第三章:一本の「無」


引き抜かれた鼻毛を、私は指先の上で観察する。

黒く、短く、少しだけ縮れた、無価値な一本の老廃物。

しかし、これを「無価値」と断じるのは、思想家としての怠慢だろう。

この毛は、私が詩を書き、小説を構想し、哲学の海に溺れていた時間、ずっと私の顔の真ん中で、私の呼吸を静かに見守っていた「観察者」である。


私という多面体の神殿において、この鼻毛こそが唯一、私の「全属性」を等しく知る存在だった。ラッパーとしての激しい呼気も、戯曲家としての静かな溜息も、この毛はすべてを等しく浴びてきた。


今、この毛を抜くことで、私は一つの「物語」を終結させた。

毛根の先に付着した白い鞘のような組織――それは、かつて私の一部であった「生」の残骸だ。それは、書き終えた原稿の最後の句読点のようなものだ。あるいは、韻を踏み終えたあとの、あの長い残響だ。


第四章:増殖する自己の牢獄


私は再び、鼻の穴を弄る。まだある。まだ、無数の「自己」がそこに潜んでいる。

世界観構築者としての毛、哲学家としての毛、ラッパーとしての毛。

一つを抜けば、また次の痛みが欲しくなる。この行為は、終わりのない「創作」という名の自己愛であり、自己破壊だ。

もし私がすべての鼻毛を抜き去ったとしたら、私はより純粋な存在になれるだろうか?

フィルターを失い、世界の毒も塵もダイレクトに肺へと流し込む、究極の「透明な創作家」になれるだろうか?


いや、それは死だ。


表現者とは、その不純なフィルター――すなわち、個人的な偏見や、身体的な違和感、そしてこの「鼻毛」のような、格好のつかない無様な肉体性――を通してしか、世界を語ることはできないのだ。


結語:涙のあとの静寂


鏡の中の私は、鼻の頭を赤くし、片方の目から涙を流している。

なんと滑稽な姿だろう。世界を構築し、思想を語る天才が、たった一本の毛に翻弄されている。

しかし、この滑稽さこそが「純文学」の本質ではないか。


高邁な理想を語りながら、指先は常に自らの不潔な穴を弄っている。その矛盾。その手触り。

私は指先についたその一本を、フッと吹き飛ばした。

それは冬の空気に乗り、私の思考の断片のように、目に見えない次元へと消えていった。


「さて、次のラインを書こうか」


私はピンセットを置き、まだヒリつく鼻腔の奥に、新しい世界の風を吸い込んだ。


【了】

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