灰色に雪が降り積もる

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灰色に雪が降り積もる

 いつの頃からそうなったのか、サンタフォルカの町は一年を通して灰色の霧に覆われている。石畳は重く濁って家々の壁も陰鬱な影を落としていた。

 日が射す時間が極端に短く闇深いこの土地の空気はいつも澱んで、霧の下に生きる人々には神の視線がほとんど届かないようだった。

 そんなサンタフォルカには強大な悪魔がよく現れる。絶望に満ちた厳しい土地は悪魔にとっては居心地のよいものだった。

 悪魔の放つ瘴気が人の息を蝕む霧となり、また町を祝福から遠ざけてしまうのだ。


 真っ白な髪に燃えるような赤い瞳を持つ悪魔の少女が人目を避けて町に暮らしている。

 彼女は教会の尖塔の影に身を潜めて、眼下の広場に視線を巡らせていた。やがて一人の青年が教会に向かって歩いてくるのを見ると少女の瞳が一層輝いた。

 青年の名はニコラスという。教会の中でも屈指の実力を持つ悪魔祓いであった。彼のプラチナブロンドは真冬の月光よりもなお冷たく、彼の瞳は罪を切り裂く鋼の色をしていた。

 少女はニコラスの冷徹な姿を見るたびに、どうしてか胸の奥が焦げて灰になるような感覚に襲われた。苦しいのに、何度でも彼の姿を見たくなるのだ。


 悪魔は名前を持たない。彼らはただ現れて、灰となる日までそこに存在し続けるだけだ。人のように親から名前をつけられることはない。

 悪魔祓いは彼らに名前を授けて「神が与え給う命」に縛り、そうして同じ世界に引き込むことで悪魔を祓うのだ。

 未だ祓われていない悪魔は名前のない存在だった。少女もまた、ただの少女だった。


 通常、悪魔にとって人間の存在は単なる糧でしかない。人が木の実をかじるようにその魂を啜り、甘い絶望を味わう対象に過ぎなかった。

 しかし少女は生まれた時から何かが欠落していた。あるいは余計なものが混じっていたとも言えるかもしれない。

 彼女は人間の魂を貪るのではなく、人間が紡ぎ出す感情というものに憧れを抱いた。できることなら自分もそれを持ってみたいと感じていた。


 特に、町で目にする人間の恋というものを熱心に見つめていた。ある時は街角の恋人たちの囁きを聞いて、またある時は古本屋から盗んだ恋愛小説を読んで、そこに交わされる人間同士の感情を知った。

 それはひどく危険で魅力的な香りがした。

「私も……」

 ニコラスと言葉を交わして互いの手を取り合い、彼に触れたい。少女はそう願っていた。しかし彼女が不用意に近づけば彼の命など簡単に削り取ってしまうことを少女は誰よりも理解していた。


「……あなた、愛する、誓う」

 少女が艶やかな唇で人が作った言葉を紡ぐと、それだけで周囲の空気は凍りついた。尖塔に絡む蔦が瞬く間に枯れ落ちて、サンタフォルカの霧がまた濃くなってゆく。

 少女は強大な魔力を持つ上位の悪魔で、その力はまさに「死」と「腐敗」そのものだった。彼女が感情を昂らせれば昂らせるほど、周囲の生命は活力を奪い取られて死に至る。

 たとえ少女がそれを望んでいなくとも。


 教会から出てきた女性がニコラスの隣に並び、彼に優しく微笑みかける。修道女のアンジェリカだった。彼女は焼きたてのパンが入ったバスケットを抱え、親しげにニコラスと話している。

「また食事を抜いたでしょう? 顔色が悪いわ」

「任務が忙しかっただけだ。最近、小物とはいえ悪魔が多い」

「もう。仕事仕事で自分の体を粗末にしてばかりなんだから。人を守るより先に、もっとあなた自身を大切にしてちょうだい」

「修道女としては相応しくない言葉だな」

「そんなことないわ。私はただ神のあなたへの愛を信じているだけ」

 アンジェリカが慣れた仕草でニコラスの腕に触れると彼もそれを拒まず、他の人間には見せない穏やかな表情で受け入れた。アンジェリカの指先の温かさが少女にまで伝わってくるようだ。彼女が触れた場所から清く柔らかな陽光が溢れてくる気がした。


 二人の姿を見つめている少女の胸には予期せぬ冷たい痛みが駆け抜けた。不思議に思って胸の辺りを撫でてみる。

 少女は無意識のうちに尖塔を引っ掻いた。鋭利な爪は硬い石も容易に引き裂いて、瘴気の浸食を受けた石壁が煙をあげながら脆くも崩れ落ちる。

 もしもあんな風に少女が触れれば悪魔の瘴気によってニコラスの腕は腐り落ちてしまうだろう。けれどアンジェリカが触れればニコラスの疲れはすっかり癒やされ、彼の心に仄かな明かりが灯されるのだ。

「……きれい。私も、あんな風に……」

 少女の呟きは、誰に届くこともなく霧の中へと消えていった。




 ある雨の夜、少女は人通りのない路地裏で寒さに震えている野良猫を見つけた。少女は思わずその猫に両手を差し伸べる。ただ雨から守ってやり、温めてあげたかったのだ。

 しかし彼女の指先が触れるよりも早く、瘴気に耐えられなかった小さな猫は苦悶の声をあげて息絶えた。呆然とそれを見つめていた少女の背後に硬い足音が響く。

「……そこで何をしている、悪魔」

 ニコラスだった。聖別された銀の愛剣を手にして、彼は目の前の少女を見据えていた。


 今すぐに滅すべき強大な悪魔だということはニコラスも感じ取っていた。本来なら即座に斬りかかって破り得ない聖なる名をつけ、祓っているはずだ。それでも彼が動けなかったのは、少女が悲しみの涙を流していたからだった。

 悪魔は泣かない。それが世界のルールだった。時には人を騙すために笑顔や涙を浮かべて見せることはするが、それは常に偽りであるはずだ。

 しかし少女の赤い瞳は紛れもなく命の喪失に傷つき、悲痛に濡れていた。

「猫、冷たくなった。私が殺した……」

 少女は震える声で罪を告白した。まるでニコラスの断罪を自ら求めているかのようだった。

 触れれば猫には害になる。そんなことは少女も分かっていたはずなのに、手を伸ばしてしまった。人の姿を真似ただけの災厄。それが悪魔である彼女の覆されざる本性だった。


 ニコラスは動揺していたが、悪魔祓いとしての信念が剣を収めることはさせなかった。警戒心を保ったままその不可思議な悪魔に問いかける。

「お前からは血の匂いがしない。取り殺したわけではないのだろう。……だが、お前からは死の気配がする」

 彼の言葉にびくりと肩を震わせて、少女はそろそろと後退る。

「近づかないで、エクソシスト。あなたが死んでしまう」

「俺を殺す誘いにしても妙な嘘だ」

「殺す? どうして? あなたが死ぬのは、嫌」

 存在ごと蝕んでしまうから少女はニコラスの名を呼ぶことができなかった。そして彼女の拒絶はニコラスにとって初めて見る悪魔の反応だった。


 ニコラスはゆっくりと剣の切っ先を地面に向け、懐から取り出したハンカチを少女の足元へと投げた。

「涙を拭け。……気分が悪い」

 乱暴な言葉だが、それは彼なりの不器用極まりない慈悲だった。少女は恐る恐るそれを拾い上げようとしたが、白い指先が触れた瞬間にハンカチは燃え上がって灰と化した。

 二人の間に気まずい沈黙が落ちる。破ったのは少女のほうだった。

「ごめんなさい」

 少女は涙が滲むように闇の中へと姿を消した。ニコラスは残された猫の死骸とやけに美しく白い灰を見つめ、胸の奥に小さな棘が刺さるのを感じていた。

 見開かれたままの猫の目を閉じてやり、教会に連れ帰って墓地の片隅に埋葬した。怯えと痛みで命を閉じた猫の姿があの悪魔の少女と重なった。


 それから、二人の奇妙な交流が始まった。

 少女はニコラスの前には姿を現さず、告解室の仕切り越し、あるいは教会の分厚い壁の向こうから彼に話しかけた。神の加護を受けた壁を挟めば、瘴気が彼を殺さずに済むからだ。

「ねえ。愛するってどういうこと?」

「……愛の定義は様々だ。自己犠牲、生殖本能の昇華、社会的役割の維持など」

「うーん。難しい」

「分かる必要はない。悪魔には不要な概念だろう」

 ニコラスは冷たく返すが、決して彼女を追い払うことはしなかった。滅すべき強大な悪魔でありながら、少女が冬の微かな陽光にすら儚く溶ける淡雪のように思えてならなかった。


 悪魔はよく人間の恋を学ぶ。それは彼らにとって人間を堕とすための甘い罠だった。

 たとえば想い人を振り向かせてやろうと囁きかけ、時には悪魔自身が蠱惑的な男女の姿を模って惑わし、無防備に曝け出された心を貪るのだ。

 少女はただひたむきに恋を学んだ。格下の悪魔にすら嘲弄されるほど、彼女のほうこそが堕ちているのは明らかだった。


 市場で見かけた珍しい果物の色を語り、パン屋の焼きたての香りを語り、神を模る教会のステンドグラスの光を語り、ニコラスの話をせがむ。戸惑いを感じつつもニコラスはぶっきらぼうに、しかし彼なりの誠実さを持って少女に応じた。

「男の人が、女の人に真っ青な花を渡してた。とってもきれいだった」

「奇跡という名のバラだ。この町ではよく婚姻の申し込みに使われる」

「それは愛? あの男の人は、あの女の人を愛してる?」

「そうだな」

「私、あなたの隣にいて、同じものを見たいと思っているの。これは愛してるってこと?」

「……そうかもしれないな」

 彼女自身は触れることも味わうこともできない人間の世界を、その感情を、ニコラスの言葉を通して感じたかった。

 ニコラスと言葉を交わす時間は少女にとって尊く儚い夢のようで、同時にアンジェリカという現実と常に隣り合わせでもあった。




 少女は教会の裏庭に立つ巨樹の枝に寝そべって、診療所の窓辺を覗き込んでいた。悪魔との対決で負傷したニコラスと、彼の手当をするアンジェリカの姿がそこにあった。

「また無茶をしたものね。全身ぼろぼろじゃない」

 アンジェリカは涙を浮かべながらも気丈に振舞い、薬を塗って、丁寧に包帯を巻いていく。彼女が祈りを籠めて触れるとニコラスの傷は淡い光に包まれ、瞬く間に塞がった。

「お願い、ニック。もっと自分を大事にして。いつかあなたが本当に失われてしまうのではないかって、怖いの」

「アンジェ。これが俺の仕事だ」

「神は犠牲などお望みではないわ! あなただって守られるべき人のひとりなのに」

 ニコラスの手にアンジェリカの涙が落ちる。透明に澄んだそれは少女の知らない熱を持っていた。


 少女は木の上で自らの手のひらをじっと見つめた。鋭く尖った鉤爪、青褪めた肌、命を剥ぎ取る冷たい手。アンジェリカの手とは似ても似つかなかった。

 ニコラスを心配する気持ちは同じ。もしも自分があの場にいて、彼の頬に触れたとしたらどうなるだろう。彼の顔は見る間に焼け爛れて二度と戻らない傷を負わせてしまう。

「あの女の子は彼を生かす。私は、彼を殺す。小さな猫みたいに。尖塔の蔦みたいに」

 アンジェリカにはなれない。壁を越えてニコラスの隣には行けない。それは悪魔が深く知るところの憎悪とも嫉妬とも違っていた。ただ体の奥が鈍く痛かった。

 少女が逃げるようにその場を去ると、彼女が寝そべっていた巨樹の枝は黒く枯れ果てていた。


 珍しく濃霧を抜けて月が輝く夜のこと、少女はいつもよりも慎重に距離をとって、教会の壁越しにニコラスに問いかける。

「あの女の子。とってもきれいな人」

「……ああ。アンジェは俺にはもったいない、祝福の光のような女性だ」

 ニコラスの声には確かな信頼と愛情が滲んでいた。なのに彼の表情は暗い。少女の胸はまだ不可解な痛みを抱えていた。彼女はそれをニコラスの痛みなのだろうと理解した。

「どうして彼女の手を取らないの? 彼女と、温かいスープを飲んで、手をつないで眠らないの?」

「お前には分からない」

「私が悪魔だから」

「違う! ……そんなことではない」

 あなたはアンジェリカを愛しているの? 心の内側に浮かんでいた問いをもう見つけているのに、どうして彼に投げかけることができないのか、少女は自分でもよく分からなかった。


 二人の間にまたしても沈黙が落ちる。しかしあの雨の夜とは違って、そこには気まずさではなく微かな理解があった。ニコラスは壁に背中を預けたままぽつりと本音をこぼす。

「アンジェは正しい幸福だ。俺が手に入れるべきではない」

「どうして?」

「人の身で陽だまりを手中に収めようなどと、許されざる傲慢だ」

 氷の孤独に己自身を閉じ込めるかのごときニコラスの言葉は少女を鋭く貫いた。少女はニコラスがあたたかな幸せに照らされてほしいと望んでいた。そしてアンジェリカも同じ願いを抱いているのだと少女は知っていた。

 ニコラスも分かっているはずなのに、彼は愛を手に入れることを自分に禁じているのだった。


 人の想いを不躾なまでに曝け出させる悪魔としての本能が、ニコラスが隠そうとする心を容赦なく少女に突きつける。

 彼は少女の孤独に共鳴していた。悪魔でありながらニコラスに惹かれてしまった少女の切実な想いに、どうにかして応えてくれようとしているのだ。アンジェリカではなく。

 少女はたまらなく嬉しくなり、そして深い絶望を感じた。

 ニコラスが欲しい。手を伸ばせば少女は永遠に彼を得て、そして永遠に失うのだ。アンジェリカに応えられないニコラスの気持ちが、少女は少し理解できた気がした。


 人間の恋にも似た葛藤の季節はやがて終わりを迎える。

 サンタフォルカでは原因不明の疫病が流行し始めた。植物は枯れて腐り、家畜が次々に泡を吹いて倒れる。始めは老人や子供たちが、すぐに若い女性も健康な男性も衰弱し、動くことさえままならなくなる。

 ニコラスは気づいていた。疫病の中心にいるのが自らのよく知る悪魔の少女であることを。

 彼女が人に憧れ人を真似て恋の感情を育てるたびに、その心が新たな色と温度を知るたびに町を覆う瘴気は濃くなり、そこに生きるあらゆる命を蝕んだ。

 少女の愛が深まるほどに世界は死ぬのだ。




 誰もいない礼拝堂で、ニコラスは祭壇を見つめる。彼の肌は悪魔のように青褪めていた。少女の近くに居すぎたせいだ。彼女に抱いた同情が、そのまま致死性の毒となった。

 すぐにニコラスもまた病に伏すこととなる。悪魔祓いとしての強さがこれまで彼を生かしただけで、本来ならばすでに命を落としていてもおかしくない状態だった。

 少女は夜闇に紛れて彼の寝室の窓辺に忍び寄る。中に入ることはできない。これ以上近づけばニコラスの命を野良猫のように容易く刈り取ってしまうだろう。


 アンジェリカが懸命にニコラスを看病している姿が窓ガラスに映る。

「神よ、どうか彼をお救いください……」

 やつれたニコラスの手を握り締め、アンジェリカが必死に祈る。彼女自身の顔色も悪い。不眠不休で彼を支えているのだ。その献身的な姿はまるで聖女そのものだった。


 譫言のようにニコラスが何事かを呟いた。アンジェリカがそっと耳を寄せる。

「……泣くな……お前の、せいじゃ……ない」

 一心にニコラスを想ってきたがゆえに、アンジェリカは気づいてしまった。彼の心が自分のもとにはないことに。それでもアンジェリカは彼の手をより強く握りしめ、額に親愛の口づけを落とす。

「愛しいニック。あなたが誰を想っていても、私はあなたを守り続ける」

 少女もまた、己の恋が何をもたらすかに気づいていた。悪魔が人間らしくあろうと願うこと、それ自体が罪なのだと。


 アンジェリカは彼の手を握ることができた。彼に分け与えるための体温があった。彼の命を繋ぎ止められる愛があった。

 少女がここにいれば、彼が愛する世界ごと、ニコラスは死ぬだろう。

 冷たい窓ガラスにそっと触れる。部屋の中にいるアンジェリカの手と少女の蒼白い手が、ガラス越しに密かに重なった。

「彼を守って。そのきれいな愛で」


 無人の礼拝堂に忍び込み、少女はニコラスの気配が色濃く残る石畳に最後の言葉を刻んだ。文字を書けば紙が腐る。手紙を残すことすら彼女にはできなかった。

 ――月の下にある丘で。

 彼女が離れれば病は癒える。そうしたらニコラスはきっと、少女のもとにきてくれるだろう。




 町を見下ろす小高い丘は少女の瘴気によって土まで黒く炭化し、風さえも重く澱んでいる。空に浮かんだ満月もまた少女の瞳のように赤く滲んでいた。

 そこへニコラスが現れた。アンジェリカの看護によって生気を取り戻した彼の手に、白銀の長剣が握られている。

 己を殺しにきた悪魔祓いを前に少女は心から嬉しそうな笑みを見せた。黒いドレスが闇に溶け、蒼白の肌が月光に輝く。

「悪魔よ。町は今も瘴気に包まれている」

「知ってる。私のせいだから」

 ニコラスは無表情で剣を構えるが、その切っ先は微かに震えているようだった。

「どうして逃げなかった」

 ただここからいなくなってくれさえすれば、殺さずに済んだかもしれないというのに。

 少女は祈るように胸の前で手を組んだ。


 あの日、古本屋から盗んだ恋愛小説のヒロインや、アンジェリカが見せてくれた健気な愛情。人間は愛する人のためなら命を投げ出せるのだと少女は知っていた。

「悪魔は、殺されるのが役目なの」

 少女がこの地を去っても、たとえ自ら命を絶ったとしても、強大すぎる悪魔の痕跡は瘴気としてサンタフォルカに留まり続けるだろう。悪魔祓いの手によって浄化されなければ災厄はその存在を終えることができないのだ。

「ニコラス。私、あなたを愛してる」

 彼女の言葉と共に凄まじい奔流が巻き起こった。名を呼ばれたニコラスは存在を侵食されて膝をつき、少女の感情の波に、冬を耐えていた周囲の木々が音を立てて腐り落ちる。


「お願いがあるの」

「……なん、だ」

「帰ったら温かいスープを飲んで。あの子の手を、握り返して」

 彼女は太陽。あなたを照らしてくれる。あなたはそれを、受け取っていい。……私は雪になって、たまにあなたに降るでしょう。


「馬鹿な女だ」

 ニコラスは苦しげに呟いた。彼もまた、彼女に惹かれ始めていた。己が祓うべき魔であり世界を滅ぼす存在だと知りながら、その純粋な魂に触れたいと願ってしまった。

 だが、彼は悪魔祓いで、それ以上に人間だ。少女のささやかな願いと引き換えに守るべき人々を見捨てることなどできなかった。

「お前の想いは……俺が抱いてゆこう」

 ニコラスは剣に聖なる炎を宿らせた。その光は少女を焼き払うための輝きだった。


 悪魔の少女は両手を広げ、愛しい人がもたらす死を笑顔のままで受け入れる。ニコラスの剣が少女の胸を貫いた。

「災厄よ、されど我が愛しき淡雪よ、汝の名は『ビアンカ』。神は汝を愛し、祝福と共に迎え給う」

 衝撃はあったが、痛みはなかった。代わりに焼けるような熱さが全身に広がってゆく。ニコラスの祈りが彼女のかけがえのない欠落を、あるいは彼女の余分なものを守っていた。

「あったかい……」

 ビアンカの輪郭が端から光の粒子となってこぼれ落ちてゆく。


 ニコラスの手に自分の手を重ねようとして、触れる直前で躊躇った。最後の最後で彼に傷を負わせるのは嫌だった。しかし彼女の指先に気づいたニコラスがビアンカの手を強く握りしめる。

 彼の皮膚が焼ける音がする。それでもニコラスは手を離さなかった。

「痛いでしょう。離して……」

「痛くない。お前の手は温かい、ビアンカ」

 ニコラスは彼女を引き寄せ、全身で抱きしめた。初めて感じた温もりの中でビアンカの体は砕け散った。


 彼女の存在が消滅すると同時に月は輝きを取り戻し、サンタフォルカの濃霧がようやく晴れる。

 雪雲もないのに澄んだ夜空にはらはらと雪が舞い、長く澱んでいた瘴気を洗い流す。

 枯れた大地を無垢な白が覆い尽くすと、ニコラスの足元に一輪の蒼い花が咲いた。




 サンタフォルカに蔓延った疫病は嘘のように消え失せた。清浄な祝福の光が射し込むこの地にはもう悪魔も寄りつかない。

 人々はあの夜の雪を「聖夜の奇跡」と大いに喜び、町を救ったニコラスと、そして彼を献身的に支えたアンジェリカの名を神の聖なる使いとして後の世まで崇めて語り継ぐこととなる。


 ニコラスは教会の墓地の片隅、誰の名前も刻まれていない墓碑の前に立っていた。彼の手には一輪の青いバラの花。かつてビアンカが憧れを籠めて語った花が、墓前にそっと置かれた。

 ニコラスの手にはビアンカの瘴気で負った火傷の痕が消えることなく残っていた。どんな治癒魔術でも治せないその傷が、今やビアンカがこの世に存在した唯一の痕跡だった。

「また降ってきたな」

 空を見上げる。冷たくて、けれど優しい雪が彼の頬を撫でた。


 彼の隣には今もアンジェリカがいる。彼女は無理にニコラスの手を取ることもなく、ただ静かに寄り添って同じ空を見上げた。

「綺麗な雪ね、ニック」

「……ああ」

 ニコラスは本来、もっと穏やかでおっとりした人間だった。悪魔にさえ同情を寄せてしまう男だった。だからこそ冷徹な仮面を被り、必死で己を戒めていたのだ。

 サンタフォルカに祝福を与えたのが本当は何者であったのか、アンジェリカは知らなかったが、その誰かがニコラスに愛することを許してくれたのだと、それだけは確信していた。

 きっと自分と同じくらい彼を愛したであろう誰かを想って舞い落ちてくる雪に手を差し伸べる。

 手のひらに落ちた雪を見つめた。極小の雪の花弁は人の体温にすぐに溶けてしまったが、その冷たさは心の中に小さくも確かな痕跡を残した。


 ニコラスは隣に寄り添うアンジェリカに不器用な微笑みを返す。そして躊躇いがちに彼女の手を握る。

 二人は誓いを立てるように十字を切った。亡き魂へ捧げる言葉のない祈りだった。

「アンジェ。帰って、温かいスープでも飲もうか」

「ええ! 腕を振るうわ。とっておきの薬草があるの」

「……あの死ぬほどまずいやつか」

「ふふ。思わず生き返っちゃうほどおいしい薬草スープよ」

 聖なる夜に灰色の町を包み込む雪は、悪魔が恋した人とその伴侶へ贈る最初で最後の祝福だった。

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