ほんの少し、ずれている。

加賀よしこ

ほんの少し、ずれている。

真昼の仕事場は、夏の割に静かだった。

夏の雲は低く垂れこめ、湿った風がまとわりついていた。

私は、いつものように、入居者のおばあさんと洗濯物を干していた。

ハンガーに服をかけ、洗濯ばさみでとめる。

おばあさんの、ハンガーを持つ手の動きが、いつもより遅かった。

遅いというより、途中で何度も立ち止まっているように見えた。

私は声をかけようとしてやめた。

その沈黙のほうが、場に合っている気がしたからだ。

おばあさんが、洗濯ばさみを一つ、落とした。

床に触れた瞬間、カラカラと乾いた音がして、その音だけが妙に大きく響いた。

拾い上げた指先が、少し冷えていた。

「今日は虫が知らせに来る日なの」

唐突にそう言って、おばあさんは空を見た。

視線の先に虫は見えなかったが、私はなぜか否定できなかった。

開いた窓のすき間から、風が少しだけ、入ってくる。

洗濯物は風に揺れて、同じ動きを何度も繰り返していた。

近づいては戻る、その規則性が、不安を落ち着かせるようでもあり、増幅させるようでもあった。


午後、身内の訃報が届いた。

電話を切ったあとも、言葉は頭に残らず、洗濯ばさみの硬さだけが指に残っていた。

帰り道、雲はまだ低かった。

私は昼間の洗濯場を思い出しながら、世界がいつもより一拍遅れて動いているように感じていた。

それが予兆だったのか、偶然だったのかは、今もわからない。

ただ、あの午後の動作の遅さだけが、時間の中に正確に残っている。

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