天翔鳥

@rhyolite

第1話 白砂の庭と海の匂い


(「天翔鳥神話」より)

昔、天と地が今より近かったころ、

一羽の鳥が海の彼方より飛来した。

その鳥は風を知り、道を知る者であった。

天翔鳥は、争う地のあいだを渡り、

言葉を運び、祈りをつなぎ、

人の世に「道」を示した。

そして、その鳥は巣を作らず、

名も残さず、

やがて再び空へと消えたという。




海は、今日も同じような顔をしていた。

寄せては返す波。

石混じりの浜。

沖には小舟が揺れている。

――けれど、真羽彦(まはひこ)は、

いつまでも同じ場所に立っていられる気がしなかった。

裸足で濡れ砂を踏みしめ、

波打ちぎわを行ったり来たりしては、

白く砕ける泡の向こうを、何度も見やる。

(この先に、何があるんだろう。)

「真羽。」

背中から、よく通った声がかかる。

「そろそろ戻りますよ。

今日は王邑(おうゆう)まで上がらなければなりません。」

「え〜……。」

真羽彦は海を名残惜しげに振り返った。

声の主は母、真名比売(まなひめ)である。

藍染の裾をたくし上げ、波を足首で器用によけながら立っている。

潮風に髪を遊ばせた、海辺の女の姿だった。

「もうちょっとだけ……」

「“もうちょっと”を続けると、

比売麻多(ひめまた)さまに

『また遅れましたね』と怒られますよ。」

「今日は、お母さまのお務めなんでしょう?」

「そうですよ。」

「だったら僕が遅れても——」

「大丈夫じゃありません。」

真名比売は、ぴしゃりと言った。

「宗女の座(むねめのくら)に上がるときに大事なのは、

“誰が”ではありません。“どういう姿”でそこに立つかです。

心が波立ったまま、神さまの前に行くわけにはいきません。」

「神さま、そんな細かいところ見てるの?」

「たぶん見てます。」

そう言って、真名比売はふふ、と小さく笑った。

それからふっと表情を変え、海の向こうへ目をやる。

「それに——

今日は、あなたに会わせたい子がいるんです。」

「会わせたい子?」

「あなたと同じくらいの女の子ですよ。」

引っ張られるように家へ戻り、

真羽彦は外で足を洗い、草履に履き替える。

その間に、真名比売は衣を整え、

乱れていた髪をきちんと結い直した。

肩の力が抜けた海辺の母の姿は、

いつの間にか、“宗女分家の巫女”に変わっている。

真羽彦は、その背中をぼんやりと見つめた。

(同じお母さまなのに……。)

「あなた、前に海の外の話を聞きたいと言っていましたね。」

「うん。」

「いつか外へ行くことになったら——」

真名比売は少し間を置いてから、

真羽彦の頭に、そっと手を置いた。

「“戻る場所”も、覚えておきなさい。」

「戻る……場所?」

「ええ。」

母は静かに言った。

「王邑とは、そういう場所です。

迷ってしまっても、

また立ち戻れる場所ということです。」

ふたりは家を出て、

川沿いの道を遡っていく。

道は次第に広くなり、

人の気配が、ゆっくりと増えていった。



■索引集リンク

https://kakuyomu.jp/my/works/822139841666405781/episodes/822139841669646094

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