Purpose

青山野薔薇

Purpose

満員電車の外の空気は冷たかった。

狭い駅の通路を、人だかりについて歩く。改札を出て10分ほど歩けば僕の学校がある。時計を見る。8時15分。始業は8時20分だから走りでもしないと間に合わない。でも僕には走る気も体力もなかった。


学校に着く頃には時計は8時26分を指していた。朝読書とかいう拘束時間のお陰でしんと静まり返った廊下を一人歩く。僕の姿を見た先生は案の定こちらに向かってきた。

「何回遅刻したら気が済むんだよお前は!早く教室に入れ、読書の時間だぞ。」

「…本忘れました。」

「あぁもう、ふざけんなよな。…もう参考書でも何でもいいから読んどけ。」

こんな掛け合いにも慣れた。毎日のように遅刻もするし、忘れ物もする。

自分で分かっている。帰ったら本を鞄に入れて、次の日はいつもより早く起きる。簡単な仕事じゃないか。

でもそれが出来なかった。当たり前のことさえ当たり前に出来ない自分が大嫌いだ。大嫌いなくせに、家に帰れば結局全て忘れて、PCに向かってゲームをするだけの自分を直そうとも思わなかった。

もうどうでもいい。


1時間目は日本史。

授業の始まる時間ギリギリに入ってくるのは田村先生という男の先生だ。仏頂面で考えていることが分からない。確かに陸上部の顧問をやっていて足は速いと聞くが、やけに僕への当たりが強いから好きじゃない。

「持ってる人は、教科書50ページ。えー、第一次世界大戦のところ、ですね。」

日本史や世界史の授業は、いわば過去に起きたことを覚えるだけのものだ。それが将来何の役に立つのか全く分からない。受験に必要とか、理解が深まるとかそういうことじゃない。例えばそういう人が職場で働いたとして、いつ歴史で学んだことを使う?

ほら、使わないじゃないか。

意味のないことは嫌いだった。だから先生の話なんてただ眠いだけだった。

「おい起きろ、授業中だよ。」そう言って起こされた。


2時間目は英語表現Ⅰ。

先ほどの田村先生よりかは少し背の小さい若井先生だ。こちらも男。よく笑うようになったらしいが、授業ではいつも似たようなことを似たような顔でやっているから僕には分からなかった。

「Then open your textbook page 47. 今回もこの文章の読解ですね、やっていきます。」

英語は大事だと論ずる人は多い。でもここは日本だ。自分から飛び込まない限りは英語を話す機会なんて来ないに等しい。日本にいるのだから日本語が出来れば十分だと思う。

僕にとってはまだ未知の言語だった。言ってることが分からずにすぐ眠くなった。

「小山君どうした。あとちょっとだから頑張れ。」そう言って起こされた。


3時間目は古典A。

少し背の高い女性の先生。名前は山中先生といって、いつも眼鏡にマスク姿だった。よく笑うし他のクラスメイトからのウケは良いみたいだが、変なところに厳しかった。

「36ページ、古文の18番!平清盛君のところですねー、やっていきましょう!」

こちらは英語よりも訳が分からない。だって古典日本語のネイティブスピーカーなんて、今は存在しないんだから。何でわざわざ日常生活で使わないことを学ぶんだろうと思っている。やれ未然形とか連用形とか、助動詞とか副詞とか、論理的に説明されても余計に分からなくなるだけだった。よく通る声だったので聞こえてはいたが、それを理解しようとはしなかった。2時間目の眠気のせいでまた眠くなった。

しかし先生は起こしに来なかった。


4時間目は物理基礎。

黒いジャージ姿の男性。塚原先生だ。他の先生より少しばかり年を重ねているようだったがバレーボール部の顧問だと聞いているので運動は出来るのだろう。

「51ページ。えー運動エネルギーのところですね。」

エネルギーやベクトルの話は僕には難しすぎた。中学生の頃からまともに理科をやってこなかったツケが今になって回ってきたのだ。

実を言うとそんなだらけた中学校生活を送ってしまったことを少し悔やんでいる。でもどうやったって過去は変えられない。歴史と同じだ。

もう寝る気も起きなくてひたすらにテキストを見ていた。何が何だか分からないのに適当に手を動かして汚い字でノートをとる自分がいた。


昼食は勿論一人だ。最早友達もいなくなってしまった。

今のところ母親が作ってくれる弁当を食べて、後は寝る。昼休みは大体そのように過ごした。周りには男子や女子が何人かのグループで購買のパンを食べている。ただひたすらに羨ましかった。

高校に入った時から違和感を感じていた。自分を皆が遠ざけている。

確かに僕は素行も悪けりゃ成績も悪い。おまけに臆病なせいで声も小さくてまともに喋れやしない。それでも友達の一人二人は出来るだろうと思っていた。

遅刻や忘れ物を繰り返すうちに、どんどんスピードを早める授業についていけなくなった。辛うじて何度か話していた人たちも、いつしか僕に話しかけることはなくなった。


箸を置いて鞄から水筒を取り出そうとしたとき、右の腕が箸に当たった。カランカラン、と無駄に心地よい音がする。見ると確かに二本の箸が教室の床に倒れていた。

無性に虚しくなった。

先生に割り箸をもらえるはずだとも考えたがしかし、僕は先生から嫌われている。それに今から職員室に行ってももう時間が無いだろう。先生に頼む勇気さえ無い自分が情けなくてしょうがなかった。

目の前にある弁当を食べる術は無くなってしまった。

仕方なく、まだ具を多く残した弁当箱のふたを閉じる。目頭の辺りがぎゅっと熱くなるのをこらえて乱暴に手に持ったそれを鞄に突っ込んだ。

授業にはついていけない。友達なんて一人もいない。学校を休みたいだなんて親に打ち明けることも出来ずに、学校と家を満員電車で往復するだけ。


僕は何のために学校にいるんだろう。

僕は何のためにこの世にいるのだろう。

僕がただひたすらに生きる、その目的は何なのだろう。

僕が意地でも死にたくない理由は何だろう。


考えるだけ無駄だった。僕はきっと明日も遅刻をするし本を忘れる。

所詮自分はただの頭の悪い有象無象であることを、教室の喧騒が痛いほど示している。誰も僕のことを気にしない。誰も僕のことを好きじゃないし嫌いでもない。ないものとして扱われるより嫌われる方がよっぽどましだとも思ってしまう。


自分が大嫌いだ。嫌いで嫌いでしょうがない。消えてしまいたい。

でも自分で自分を手にかける勇気なんて無い。そんな自分もまた嫌いだ。

眼鏡に水滴が落ちて視界がぼやける。体はそれに呼応するように小刻みに震えているようだった。


今の僕に出来ることは、ただそれを隠すために机に突っ伏すことだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Purpose 青山野薔薇 @nobara_aoyama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ